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8/12/2023, 12:05:25 AM

麦わら帽子がひらりと舞う

無意識に手を伸ばしたが
指先さえかすりもせず
それは気持ちよさそうに青空を飛んで行った

私は気持ちを麦わら帽子へと移し、
清々しい水色の中を漂う想像して
あの人を待っていた


でもいくら待てども
その人は来なかった

日射しが完全に傾き、
暗い影が落ちきった頃
私は暗闇の中で1人想った

あの麦わら帽子は彼女だったのだ
ふわりと私の前に現れ、
しばらく私のところに留まり、
この先もい続けると思ったのに
あまりにも簡単に
飛ぶように姿を消す

私はその夜
真っ暗な中に彼女を見た



7/22/2023, 2:58:55 PM

「もしもタイムマシンがあったなら
すみれママのお腹の中に帰りたい」

「気持ち悪いこと言わないでくれる?」

私のママ、すみれさんは美人だ
パパが再婚相手として
すみれママを連れてきた時
私は人生で初めて恋に落ちた

パパのことは大嫌いだったし、
虐められてばかりの私の人生も大嫌いだったが
すみれさんと出会えたことで
パパも、私の人生も、この世も、
全てを好きになることが出来たのだ

「それにあなたは私のお腹から生まれてないでしょ、それにタイムマシンって腹の中に入れるの?」

すみれさんがベリーショートの髪をかきあげる
パッチリとしているのにどこか涼し気な目元が明らかになって
見ているだけでドキドキするくらい色っぽい
ハスキーな声が私の鼓膜を震わすと
私の心臓も更に震え出す

「もしもタイムマシンがあったなら私は元彼とぉ〜付き合う前に戻ってえ〜」
バカキャラをウリにしている女モデルがぺらぺらとテレビの向こうで話している

「もしもタイムマシンがあったなら、いつに行きたいか」というテーマで話題の芸能人たちがトークを繰り広げ始めたので、
私も同じように考えてみた結果が
さっきのそれだ


「タイムマシンがお腹の中まで戻れるかはわからないけど……もし、すみれさんが本当のお母さんだったら、すみれさんはもっと私の事好きになってくれたかな」

欲張りで子供っぽい私の発言に対し、
すみれさんはふわりと穏やかにまるで聖母のように笑みを浮かべて言った

「欲しがりだね、私は血が繋がっていなくてよかったと思うけど」

「どうして?」

「だって本当の子供とはさすがに"こういうこと"出来ないもの」

オニキスのように漆黒で
全てを見透かしたような瞳と目が合う
そしてその視線は口元へ
左の口角がクッと上がるのは
すみれさんの癖だ
聖母の笑みから色気が溢れはじめる

「すみれマ……」

言い終えるより早く
シャネルのNo.91の口紅が私の唇にうつった

「今日パパは遅いって」

タイムマシンなんていらない、
私はすみれさんがいればそれでいい
熱い体温の中、私はひたすらにそう思った

7/21/2023, 1:10:19 PM

「今一番欲しいものが
手に入る人生だったらよかったのにね」

心の底から
しまった
と頭を抱えたくなった

そうしなかったのは
目を伏せている間、
たとえ1秒でも目を離したら
今にも目の前から消えそうな表情をしていたからだ


「ごめん、安易な発言だった」

「別にいい、今一番欲しいものあるよ。聞きたい?」

「いいよ言わなくて
無神経だった、本当にごめん」

「1番欲しいものはね」


私の想いと裏腹に
ピンク色の唇が動く
それは思った通りの形へ


「……」

「そんな死にそうな顔しないで
死ぬのはこっちだよ」

慌てて顔を上げると
絶望的に美しい笑みが視界に飛び込んでくる

「ごめんね、好きになって、ごめん」

その声は震えていた
彼女の三日月型の瞳が伏す
その眼差しは私の左手の薬指へと

いたたまれなくなって
私は口を開いた

「もし、何か困ったことがあったら、言って
いつでも力になるから」

「……今私お金に困っててさ、
何か金目になるものくれない?その指輪とか」

「あ…………」



その間たった数秒
明らかに何かが終わりを迎えたのが
鈍い私にもよくわかった
わかってしまった



「ありがとう
もう二度と会いません
私以外の人間と、どうかお幸せに」


彼女の茶色の長い髪がふわりと舞う

遠ざかっていく

細身の背中を見つめていれば
今にも彼女の穏やかで甘い香りが鼻腔に香ってくるようだ

だがもうあの香りを嗅ぐことは二度とない



私はその事実を受け止めたくなくて、
ぬるくなったコーヒーが
冷め切るまで延々と見つめていた


7/20/2023, 1:56:11 PM

「みどりさんって本名なんですか?」

「ええ、そうです
緑が好きだからちょうど良いでしょう
それより…さんなんて付けなくていいよ
呼び捨てで呼んでください」

こんなことまでした仲なんだからと、
言いかけて口を塞ぐ

ベッドの上に散らばった紫色の下着が
なにか言いたそうにこちらを見ている気がしたからだ


「じゃあ、みどり」

一糸まとわぬ姿の彼女は
頬をあからめながらそう呼んでくれた

返事の代わりに頬ずりをすると
とろけそうな甘い溜息が私の耳を溶かす
甘い囁きに導かれるまま
私は何も考えずに彼女の熱に触れた

みどり、みどり

私の耳奥に響く
甘くてせつげな声
この声を聞いて心動かされない人間は、
おそらく私以外にはいないだろう

この声に、
欲は掻き立てられても、
私の感情は、心は、微動打にしなかった

私の心は、
私の名前が最後に呼ばれたあの時以来、
ずっと冷えて固まっているから

あの人が凍りつかせた心と共に
私は私の本当の名前も封じ込めた

もう誰にも呼ばれたくない

もう二度と傷つけたくないし
傷つけられたくもなかった
本当の私をさらけ出して生きる覚悟が
無くなってしまったのだ



彼女の声がピークに達するとともに
私の体にも一段とその熱が伝わってくる

しかし、私の永久凍土は今日も独り安寧だ
この先も、ずっと




7/12/2023, 11:40:01 AM

「これまでずっと
自分に嘘をついていたのではないですか?

だからそんなに怖いのでしょう
私を愛することが

人を愛するということは
同時に自らをも愛するということです

愛情のない人から真の愛情は生まれません
今のあなたは痛々しくて見ていられない
まず、何よりも
あなたはご自身と向き合ってください」



私は慌ててその文章から目を逸らした
気がつくと
手紙を持つ手はがたがたと震え、
私の視界は霞み、
とめどない涙が頬を伝っている

どうしてこんな事になった?
この涙は何だろう
図星を突かれた痛みの為だろうか
全てを捨てた放蕩息子ならぬ放蕩娘の私が
今更
何にこんなに感情を揺さぶられているのだ?

こんな痛み、捨ててしまえばいい
手に持っている紙切れを破り捨てて
この前二丁目でナンパした茶髪のお姉さんに連絡をして、酒を飲んで、体の隙間を埋めれば、いつも通りそれで良いじゃないか

だが私の体はそれをしなかった
何分、何時間、
どのくらいそうしていただろう
なぜか
私の目はやけに雑に
その文字の続きをなぞり始めた

「しかしその過程で
あなたが孤独の思いに泣くのならば
いつでも私をお呼びください
私はあなたを愛しています
自分を愛せない不器用なあなたを誰よりも
肯定し、慕います
今すぐにあなたの隣に行って
あなたのその細い線を抱きしめて差し上げたい
もし必要であればいつでも私を傍に」

私はそこでその紙切れを手放し
大きな一歩を踏み出していた

大きな、
大きな一歩だった
こんなに大きな一歩は
今までに踏み出したことが無い



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