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7/4/2024, 5:17:08 AM


「おはよう、今日は13時にね」

気だるげな空気の中、
起き抜けのボヤけた頭は途端にピンク色に染った


冴えきった視界で洗面台に行って顔を洗い、
いつもと変わらぬ自分の顔にさらりと化粧を施し
朝の1杯を入れる前に返信をする

すると返事はまたすぐに来た

「これから娘をテニスの試合に連れていくから」

この1文の重さに私の全身は脱力した

何を返そうか迷って、迷った挙句
スマートフォンをスリープモードにし
落ち着きのための1杯を注ぐ

今日はアールグレイ、
1人分の湯気と華やかな香りが1Rに立ちのぼると
私の頭はその中に彼女の姿を見る


広々とした朝のキッチン、
彼女の手に馴染んだ白い食器類、
その上にのせられたフレンチトースト、目玉焼き、ベーコン、サラダ
階段から降りてきたセーラー姿の
純真な少女が
眠たい目をこすりながらダイニングチェアに腰掛け
あまりに無邪気に、性急に
当たり前にそれらを口に運ぼうとするのを
愛しいあの人がただ見つめている
ふと
むせ返るような幸福の匂いに吐きそうになって
私は湯気ごと入れたばかりの紅茶を全て流してしまった

「いつも通り16時までなら一緒にいられる」

おもむろに光った画面にはそう表示されていた

わずか3時間、
たった3時間か

私はあの人の
母親としての手に、
女としての肌に、
3時間の中の何分何秒触れられるのだろう

24時間のうちの21時間は
娘と旦那のために捧げられるあの美しい手を思い浮かべながら、
私は自分の手を見つめた
まだあの人の半分ほどしか生きていない
未熟な手

白くて細くて浮いた血管がみすぼらしく
初めてあの人に触れた時、
私は自分の手の頼りなさに絶望したものだ

これに触れる資格はお前にはない、
神に、旦那に、この腹から出でた娘に
この社会にそう言われている気分になった
でもあの人はそんな私の手の甲を撫でてくれた
頭に手を置いてくれた

だから罰当たりでも構わない
ハナより社会からすら認められていないのだ、
彼女に認められるのなら
世界に認められなくてもいい

月に2回、土曜日
娘の部活と旦那のゴルフの間の3時間だけ
私だけの天国を求め続ける


この道の先に待つのが崖だとしても
私は歩めるだけ、
あの手を取って共に歩くつもりだった

例え崖の淵で手を振り払われて
私だけ落ちることになったとしても
愛情の余韻に包まれていけるはずだから

6/15/2024, 9:00:40 AM


「私が今ここにいることって多分奇跡なんだよね」

隣に座っている友人が空間を見つめながらそう言った

「一昨日ね、お母さんに包丁を突きつけられたの」



友人はお化粧も綺麗にして
可愛い服を着て、
落ち着きをもって私の隣に普通に座っていた
一昨日お母さんと美味しいディナーを食べたのと言いそうな風貌だった

「私が朝帰りしたのが許せなかったんだって、
昼の11時に土下座するなんて、私この人生でもう二度としたくないなあ」

あははと乾いた笑いが響く

私もこんな話をされて黙っているのは気が引けた
だからとっておきの秘密を話してみた
彼女の心に寄り添うつもりで
すると驚愕された

「ええっすごいね、よく乗り越えられたね」

私からすると包丁の方がよく乗り越えられたと思うが、
その言葉を飲み込んで
私も乾いた笑いを響かせた

窓の外からは何時なのか分からない光がさしている
あいまいな空からこぼれる
あいまいな光だけが
私たちを守るように確かに存在していた

6/10/2024, 1:52:13 AM


私は1人でベッドの上で横たわっていた

動いていないのにスプリングがゆるく軋む
その音で私はまだ生きているのだと実感する

昨夜私を抱きしめ、
温もりを分かちあった
相手の腕を思い浮かべると、
胃のあたりがムカムカとし、
心臓が不規則にびくりと跳ねた

遠くでスマートフォンが鳴っている気がする
自分の内側の感覚には敏感だったが
外側にはいつも鈍感だった


だから外界とどう関わっていいのかわからない
昔からそうだった
スマートフォンの音を聞かないフリして
昨日の夜を思い浮かべる

初々しいカップルの初夜
バラ色の人生、バラ色の夜のはずだった
私にとっては暗黒の夜になってしまった
もう二度と思い出したくない記憶ほど
脳内にこびりつく

あの細くて白い腕の先、
芸術品みたいに綺麗でこの手に触れられたら
さぞ心地が良いだろうなと思っていたのに
私の心身はそれを受け入れなかった

ああ、また自分勝手だと反省する
私が彼の愛情という名の触れ合いを拒否した事で
向こうのプライドを傷つけ、
今頃向こうの脳内にも水垢のような絶望感が蔓延っていることだろう
自分のことでいっぱいいっぱいで
相手は昨夜どんな顔をして眠りについたのか
想像しようとしてものっぺらぼうしか思いつかなかった

申し訳なさと虚無感、自己否定
様々な感情がヘドロになり
私の体の中に満ちていく

もう暫く動けそうにない

しかし窓の外からは強い陽の光の気配がする
何を思ったか
少し手を伸ばしてカーテンを開けると
思いのほか優しい光が私を包んだ

ありのままの私を受け入れてくれるのは陽の光だけだった

朝日の温もりに身を委ね、
私はまたそっと目を閉じた

6/1/2024, 9:51:06 AM



猛烈な羨望に胃の辺りが熱くなった




もう二度と見ることの無い名前と文章に別れを告げ、連絡先ブロックし、窓の外を眺める


私がたった今切った縁を遠くへと運んでくれるように、
軽やかに窓から流れこむ風をひとつ吸い込み、
澄んだ空気の中、目を閉じた

今までやり取りをしていた相手は
思想や言葉の端々に認知の歪みが滲み出ているような人であった、
もちろん面白いところもあったから付き合っていたのだが

つい先日、私がフラリ、と呟いた一言が
よほど気に食わなかったようで
食ってかかられた

私より一回りも年上なのに、
強い言葉を使い、揚げ足を取り
責めたてる様は正直哀れであったが
同時に
この人の無垢さに感嘆を覚え、
そしてこの世の中に絶望していた

今まで生きてきて
こういう人間には嫌という程出会ってきた、
こういう人を作り出してしまう
世の中の不公平さをひしひし感じる一方で、
いつもこの人たちの無垢さに驚いてしまう

みんなある意味で何より清らかだと思う
自分を疑わず
ひたらすらに我を通す、
そこになんの混じり気もない

それらに対する諦念の底にある
喉から手が出るほどの羨望の思いに私は唇を噛み締めていた
じわりと鉄の味が滲む
思ったより強い感情を抱いていたことに
自分自身で気がつき、驚く

無垢な人々はきっとこういう時、
唇を噛み締めるのでなく、
必死に
唇を動かしペラペラと主張するのだろう

そういう人間になりたかった
私は自分で自分を偽り、
人に対しても自分を偽り
私自身が今どこにいるのかも分からないのだ

窓の外の青いもみじが
行くあてもなく
ハラハラと散っては川の向こう側へと
流れていく様子を
私は血の味と共に延々と眺めていた

5/30/2024, 1:13:34 PM




たくさんのものを置いてきた


それはヘンゼルとグレーテルすら
もう辿れないほど長い距離
いくら辿ってもどこにも帰れないあの2人は
きっと途中で疲れ果て死に絶えてしまう
幼いその魂は肉体を離れ
終わりなき旅へと仲良く2人で向かうのだろう
私はそれを羨ましいと思った
なにより尊く、美しく
永遠に2人きりの春爛漫の旅



懐かしい夢を見た
お別れをしたあの人や、
縁を切ったあの人たちが
私をひたすらに睨んでいる

その間をくぐり抜けてもくぐり抜けても
どこにも着かず
私は胃に穴があきそうな焦燥感とともに
その視線から逃げ回り、
やっと眼から逃れられたと思ったら
私の足は地から離れ、
下には無数の針山が



最悪の目覚めの割に穏やかな朝だった

窓からさす光は柔らかく純粋で
その光を見ていると
先程の夢で汚染された脳内が浄化されていくよう


「相変わらず早起き……私はまだ寝るからね…」

起き上がった私の隣で
ふと、むにゃむにゃと、
効果音が付きそうな声を聞いて
更に悪夢が薄れていく

私は本当にたくさんのものを置いてここまで来た
だから今の私は何も持っていない

縁も富も、地位も
溢れるほどに強欲に持ちすぎて
腕が折れ、足が折れ、頭がパンクした
だから身を切るようにそれらを捨ててきた

「……どうしたの?」

反応のない私を心配そうに見上げる
無垢な瞳を見て
口からため息が出た

私は何も持っていない、
帰る場所もなければ、
逃げるところもない

しかし
終わりなき旅を共にしてくれると誓い合った
この人がいるならば
私のこれからはなにより幸福で満ち溢れているのだ

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