—千年の時を超えて語り継がれる物語—
「君が待っているなら、帰ってくる」
彼は、こちらに背を向けて言った。
ここから遠く離れた『いなば』で働くことになった彼を、今とめなければ、離れ離れになってしまう。
だが、私は何も言えなかった。
いや、何も言えるはずがなかった。
戸を引き、彼は出ていった。
『いなば』は、思っているよりも、ずっと遠い。
もう二度と会えないかもしれない。
それでも私は、止めなかった。
私が彼の人生を縛ることはできないのだ。
数日経ち、風を便りに彼の歌が耳に届いた。
『たち別れ
いなばの山の
峰に生ふる
まつとし聞かば
今帰り来む』
外に生えている松の木を見た。
あの木のように、私は同じ場所にとどまり続けるのみ。
それが『待つ』ということだ。
だから、私はここにいる。
彼が帰ってくる、その日を信じて。
お題:1000年先も
——
在原行平(ありわらのゆきひら)が、詠んだ歌です。女性視点で描いてみました。
—名のない記憶—
外の景色をぼんやり眺めていると、誰かがノックした。白い戸を引いて、女性が入ってきた。
色白の肌に、体の線が細い人だ。今日は珍しく、長い黒髪を後ろで一つに束ねている。
「こんにちは」と女性は言った。
「こんにちは」と俺も返した。
彼女は、ほぼ毎日この病室にやってくる。だが、この女性が何者なのかはほとんど知らない。
彼女は、ベッドの隣にある、丸椅子に腰を下ろした。
「今日は、学校はないんですか?」
毎回色々と話していくうちに、彼女は近くの高校に通っているということを知った。
「今日からテスト期間に入ったから、早く学校が終わるんだ」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「それなら、ここにいる場合じゃないんじゃないですか」
「別にいいの。——そうだ。今日はりんごを持ってきたんだ。剥いてあげる」
そう言って立ち上がると、長い髪が舞った。
俺は、髪を留めているゴムに目がいった。
「その花……」
「え?」
青い花弁に、黄色い瞳がこちらを見ているような花。
「昔、家の近くにその花がたくさん咲いている場所があったんです」
「……」
「友達と一緒に何回も、その花を摘みに行ったのを思い出しました」
「……仲が良い友達だったのね」
「さぁ……。もしかしたら、そうだったかもしれません」
「それも、思い出せると良いね」
彼女は最後にそう言うと、包丁で黙々とリンゴを剥き始めた。
あの花の名前は何だったっけ——。
思い出そうとしても、それすらも、俺は思い出せなかった。
お題:勿忘草(わすれなぐさ)
—晴れの方角—
「『靴飛ばし』しようよ」と彼女が言った。
「いいよ」
それは、ブランコに乗ってどちらが遠くまで靴を飛ばせるか、というゲームだ。
昔、俺たちが大好きな遊びだった。
「じゃあ、まずは私からね」
彼女は大きく勢いをつけて、ブランコを漕ぎ始める。あっという間に、それが描く弧は大きくなった。
「えいっ」
オレンジ色のサンダルが遠くまで飛んでいった。彼女は片足でそれを追いかけた。
「次、あなたの番よ」
彼女は振り返り、こっちを見て言った。
「うん」
俺も負けないように、力を入れて漕いだ。
風を正面から強く浴びて気持ちいい。
この公園まで足を運んできた『嫌な理由』も忘れられるようだった。
「とりゃあ」
「すごっ!」
黒い革靴が宙を舞った。
彼女のよりも、自分が子供の時よりも、ずっと遠い場所に着地した。
「私の負けかぁ。やっぱり強いなぁ」
俺はしばらくブランコに揺れていた。
懐かしい思い出に、胸が温かくなっていた。
「俺さ……」と呟いた。
「うん」
「『新しい場所』で頑張ってみようかな」
「それがいいよ」彼女は静かな声で言った。
俺は片足で立ち上がり、よれたスーツを着直した。靴の方までジャンプしながら進んだ。
「でも、また辛くなったら戻ってきなよ」
「わかった」
革靴の向きは『晴れ』だった。
俺は、足を入れて靴紐をきつく結んだ。
お題:ブランコ
—山頂の証明—
今日は山登りに来ていた。
頑健な登山服に身を包み、妻と二人で。
そして、長い旅路の果てに、私たちは山頂に辿りついた。
「わぁ……」
彼女は目を輝かせた。隣で私も息を呑んだ。
私たちは、雲の上にいた。
やや赤み掛かった靄の上には、幾つか輝く星が見える。
何よりも、肌で感じる空気が澄んでいて、心地いい。
「子供たちに自慢できるね」
彼女はにっこりとして言った。
私は高校で数学の教師をしている。妻はそのことを言っているのだ。
「あぁ」
私たちは手を握り合った。
「もう少し、ここにいたいな」妻が言った。
険しい道のりを歩き切ったこと。痛みや疲労に耐えてきたこと。二人で切磋琢磨しながらここまで来れたこと。
様々な要因が密接に絡め合い、ここからの景色は、より輝いてみえる。
それは、答えに至る過程の全てが意味を持つ、証明問題のようだった。
お題:旅路の果てに
—誕生日プレゼント—
お昼休みに友人と話しながら昼食をとっていると、偶然男子たちの会話が耳に入ってきた。
「そういえば明日、涼介誕生日じゃん」
「めっちゃ忘れてた。明日、菓子パでも開くか」
「別にいいよ」
涼介君が苦笑いしていった。
こうして私は偶然、明日が好きな人の誕生日であることを知ってしまったのだ。
皆が眠りについた夜の時間。
だから私は、料理をしている。渡せるかもわからないお菓子を黙々と作っていた。
「ちょっと苦いけど、おいしい」
赤いプラスチックの袋にガトーショコラを詰め込んだ。
そして次の日。
朝、いつもと同じように席に向かう。
「誕生日、おめでとう」
涼介の周りで、いつものメンツがそう声をかけている。
私も素知らぬ顔で、彼におめでとうと声をかけた。でも周りに男子が群がっているせいで、プレゼントは渡しづらい。
時は流れ、昼休み。
昨日の会話通り、お菓子パーティが開催していた。
チャンスは一向に訪れない。
気づけば帰りのホームルームになっていた。
私は正直諦めていた。
家で美味しく食べようと、そう思っていた。
「プレゼントは渡せたの?」
部室に向かう時、優菜が訊いてきた。
私はかぶりを振った。
「勇気が出なかった」苦笑いして見せた。
バスケ部の練習を終え、ついに一日を終えてしまった。
「じゃあね、また明日ー」
チームメイトたちと挨拶して、部室を出た。皆は駅の方に向かい、私は駐輪場に向かう。
「あれ、どうしたの」
グラウンドの近くを通ったときに、偶然涼介と出会した。
「血が出たから洗おうと思って」
膝から、血が流れていた。彼はサッカー部だからスライディングでもしたんだろう。
「痛そう。……これあげるよ」
私は赤い袋を手渡した。
「こういうのって普通、絆創膏をくれるんじゃないのか」
「持ってないんだから、しょうがないじゃない。カカオが多いから貧血予防になるわよ」
「まぁ、ありがとう」
彼は釈然としない顔で袋を開けた。
「うまい!どこで買ったの、これ」
「私が作ったんだ」
「へぇ、料理上手なんだな。美味しかったよ、ありがとう」
「そう……、また明日」
駐輪場に着くと、私は大きく息を吐いた。
長い緊張が解けたようだった。
ウキウキの気分で、自転車を漕ぎ始めた。
ペダルを踏み込む度に、彼の声が頭の中に響いていた。
お題:あなたに届けたい