—名のない記憶—
外の景色をぼんやり眺めていると、誰かがノックした。白い戸を引いて、女性が入ってきた。
色白の肌に、体の線が細い人だ。今日は珍しく、長い黒髪を後ろで一つに束ねている。
「こんにちは」と女性は言った。
「こんにちは」と俺も返した。
彼女は、ほぼ毎日この病室にやってくる。だが、この女性が何者なのかはほとんど知らない。
彼女は、ベッドの隣にある、丸椅子に腰を下ろした。
「今日は、学校はないんですか?」
毎回色々と話していくうちに、彼女は近くの高校に通っているということを知った。
「今日からテスト期間に入ったから、早く学校が終わるんだ」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「それなら、ここにいる場合じゃないんじゃないですか」
「別にいいの。——そうだ。今日はりんごを持ってきたんだ。剥いてあげる」
そう言って立ち上がると、長い髪が舞った。
俺は、髪を留めているゴムに目がいった。
「その花……」
「え?」
青い花弁に、黄色い瞳がこちらを見ているような花。
「昔、家の近くにその花がたくさん咲いている場所があったんです」
「……」
「友達と一緒に何回も、その花を摘みに行ったのを思い出しました」
「……仲が良い友達だったのね」
「さぁ……。もしかしたら、そうだったかもしれません」
「それも、思い出せると良いね」
彼女は最後にそう言うと、包丁で黙々とリンゴを剥き始めた。
あの花の名前は何だったっけ——。
思い出そうとしても、それすらも、俺は思い出せなかった。
お題:勿忘草(わすれなぐさ)
2/3/2026, 12:32:06 AM