—僕はいい子だから—
「いい子にして待っててね」
お母さんは玄関でそう言った。
「わかった!」
僕は大きく頷いた。
お母さんは最後に少しだけ悲しい顔をして、家を出ていった。
行き先はわからない。
でもさっきバッグに包丁を入れていたから、きっとご飯を作りに行ったんだと思う。
僕はいい子にして待っていた。
太陽が沈んで、昇って、沈んで……。
喉が乾けば、水道水を飲めば良いけれど、冷蔵庫には何もないから食べ物がない。
お母さん、お腹すいたよ——。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。
お母さんだ——。
僕は急いで立ち上がる。でも、足にうまく力が入らない。
ふらふらとした足取りで玄関までたどり着いた。鍵を開けて、ドアを押した。
「は、い」
声が掠れてうまく出せなかった。
「大丈夫か、君」
「おい、救急車だ!」
ドアの向こうに立っていたのは、二人の警察官だった。
僕、いい子にしてたよ。お母さん、待ってるから、早く帰ってきてよ——。
意識がゆっくりと闇の中へ沈んでいった。
お題:待ってて
—沈黙の恋—
私は、生まれつき声が出せない。
そのせいでみんなとの会話にも入れないし、私と関わる度に周りの人が遠慮しているのがわかる。
だから、友達は一人もできなかった。
「東條」
隣から男子の声がした。
そちらをみると、彼は両手を使って『おはよう』と言っていた。
私も手話で『おはよう』と返した。
高校に入ってから、初めて会話ができるようになった。
隣の彼は、手話ができる。
彼の母親がろう者のようで、手話を必死に勉強したと以前に言っていた。
『小テストの勉強した?』
『してきたよ。あなたは?』
『ゲームに夢中で、してくるの忘れた』
彼は眉を下げて、肩を落とした。
私は思わず笑みをこぼした。
楽しい。誰かと会話をするということが、これほど素晴らしいことだとは知らなかった。
『自業自得だね』
『テストで出そうなところ、教えてくれよ』
『いいよ』
私は、教科書を両机の中央に開いておいた。
彼との距離が近くなって、心臓の鼓動が速くなる。
この気持ちに、私はもう気づいている。
しかし、それを彼に伝えて拒まれたら。彼と会話できなくなってしまったら。
私は元の暗い生活に戻ってしまう。
いつかこの気持ちは伝えたい。
でも今はまだ言えない。だから、胸の奥に大切にしまっておこうと思う。
お題:伝えたい
—巣立ちの日—
記憶もないくらい小さい時から、ずっといた私の部屋。
——わたし、これがいい!
小さい頃、ホームセンターで選んだ勉強机。
宿題をする時も、受験の時も、とてもお世話になった机。
昔は大きすぎて、地面に足がつかなかった。
部屋の角にはベッドがある。
友達の家で寝ても、ホテルで寝ても、結局このベッドが一番寝心地が良いし、安心する。
嫌なことがあった日は、枕に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。
壁に立てかけた全身がみえる鏡。
デートの前も、就活の日も、何度も前髪を直して、この鏡から自分を睨んでいたっけ。
「あんた、準備できたの?」
下の階から母の大きな声が聞こえる。
「うん、すぐ行く!」
今日でこの部屋とはお別れだ。
机をそっと撫でる。
ベッドのシーツを整える。
鏡に映った最後の私は、昔よりもずっと大きくなっている。
「いってきます」
私は部屋を出て、静かにドアを閉めた。
お題:この場所で
—人気者の理由—
僕の担任の先生は、人気者だ。
「片桐さん、いいよ! だんだん足の動きが良くなってる!」先生が言った。
体育の時間。
今日は、ハードルの練習をしていた。
僕は、片桐をみた。運動神経の悪い彼女は、体育が嫌いだと以前言っていた。だから、練習はあまりやりたがらなかったはずだ。
彼女は、ニコニコしながら「はい!」と大きく返事をした。
「安藤くん、もっと歩幅を大きくしてみよう! 安藤くんは覚えるのが早いから、もっと練習すれば、もっと良くなるよ!」
僕は、安藤をみた。ぽっちゃりとした彼は、片桐よりも運動嫌いで、昨年は『見学』という名のサボりばかりだった。
そういえば、今年はそれをみていない。
彼は、頷いてまた列に並んだ。
「大津くん、ハードルを跳ぶ時に減速してるよ! 大津くんは足が速いから、もったいない! もうちょっと手前で跳んでみよう!」
僕は、大津をみた。彼はとにかく足が速い。運動会では、リレーのアンカーを走った。
先生の言葉で、彼はさらにやる気になっていた。
「じゃあみんな、一旦練習を止めよう!」
みんな、動きを止めて先生に注目する。
「みんな、動きは良くなってるんだけど、その中でもよかった人を紹介したいと思う。佐藤、お手本をみせてくれないか?」
先生は、僕をみた。みんなが僕をみた。
僕は「はい!」と返事をした。
先生が人気者な理由がわかった気がする。
誰もがみんな、自分を見てくれていると嬉しい。そして誰もがみんな、褒められると嬉しいのだ。
僕は、スタートラインに立ち、全力で走り出した。
お題:誰もがみんな
—二つの花束—
背丈の低い少年がやってきた。
「この花たちを花束にしたいです」
「はい、わかりました」
小さくて、色とりどりの花を少年は選んだ。
頬を赤く染めて、彼は続けた。
「僕は読み書きができなくて……、カードを代わりに書いてほしいです」
「もちろん、いいですよ。どんな言葉を書きましょうか?」
彼の表情がパッと明るくなる。
私は、彼の言葉をそのまま、綺麗な文字で書いた。
『お母さん、いつもありがとう!』
私は、白い紙で丁寧に包み、カードをちょこんと乗せた。
代金を払うと、その少年は、元気に店を去っていった。
それからしばらくすると、背広姿の若い男性が来店してきた。
「この花束をください」
「ありがとうございます」
彼は、この店の中でも、高価な花を選んだ。
なぜだか、彼は暗い表情をしている。
「カードはお書きになりますか?」
私がそう訊くと男性は頷いたので、カードを一枚、机に差し出した。
「これで許してもらえるかな……」
彼は、小さく独りごちた。
『ごめんなさい』
私は、花束を丁寧に包装する。
男性は支払いを済ませると、花束を抱えてとぼとぼ店を出ていった。
レシート入れにある、二枚のレシート。
安価な花束と、高価な花束。
だが、花束は『数字』じゃない。
どんな『想い』が込められているか。
大切なのは、たったそれだけ。
彼らの気持ちがうまく伝わればいいな——。
心の中で、私はそう呟いた。
お題:花束