—心の傷—
一週間前、父が亡くなった。まだ心の傷は癒えない。
「さぁ、洗濯物干さないと」
母は衣類を持ち、駆け足で階段を駆け上がった。
あの日、一日中泣いていたとは思えないほど、母はいつも通りに見える。
私も前を向かなくちゃ、そんな気持ちが微かに芽生えた。
ふと、キッチンのカウンターに飾られている写真が目に入った。手にとって見ると、家族写真だった。笑顔の三人が写っている。
「あれ?」
私は不思議に思った。
写真立てがじんわりと温かいのだ。部屋の中は寒いのに不思議だ。
しばらく考えた後、ハッと気がついた。
きっと、母がこの写真を見ていたのだ。
母もまだ立ち直れていない。辛いけれど、表に出さないように振る舞っているのだと分かった。
そんな想いを知って、いつまでも引きずっていちゃダメだ、と思った。
写真を元の場所に戻し、自室に向かった。
今日は少しだけ勉強してみよう。
お題:ぬくもりの記憶
—緊張の本番前—
大事なピアノの発表会が、目前まで迫っていた。緊張のせいで指先が震える。
自分の頬を両手で二度叩き、緊張を和らげようとするも、なかなか落ち着かない。
「カスミ、大丈夫かー」
父がやってきた。きっと外で煙草を吸っていたのだろう。コートから匂いがする。
「まぁ……」ぶっきらぼうに返事した。
「何だ寒いのか?」
私の手を見て、父は訊いた。
緊張のせいだよ、と言おうしたその前に、父の手が私の手を包み込んだ。
「指が動かないと大変だからな、あっためてやるよ」
「別にいいから!」父の手を振り解いた。
その手は意外と温かかった。
そしてすぐに私は呼ばれた。
「……いってきます」
「あぁ、頑張れよ。あっちで応援してるからな」
観客席の方を指さして、笑顔でそう言った。
別に見なくてもいいのに、と心の中で思った。
何故か緊張が少し和らいでいた。
私は大きく胸を張って、戦場に乗り込んだ。
お題:凍える指先
—山を越えた向こう側—
「戸部さんと会えるのも、今年は最後なんですね」
ポストの中の郵便物を回収していると、村人が僕に向けて言った。何人かが集まっている。
「ええ、そうですね。でも、また来年も来ますよ」
この村は山に囲われており、冬の間は雪が止まない。そのため、郵便物を回収できるのは今日までというわけだ。春になれば、またここに来ることができる。
「気をつけて」村の人々が言った。
「皆さんも、どうかお元気で」
一礼してから、バイクを走らせた。
僕がこの町に来るようになったのは、もう二十年も前である。若い人は皆、都市部に行ってしまうので、この地域の働き手は少ない。
だからこの地域のほとんどを、僕は回っている。その中の一つがあの村なのだ。
随分と仲良くなったなぁ、と思う。
「お疲れ様です」
郵便局に、回収した郵便物を届けた。この後に仕分けを行い、郵便物を送り出す。
局員と作業に取り掛かった。
「戸部さん宛の郵便物がありましたよ」
「僕宛の?」
局員から手紙を渡された。開けると、一枚の手紙と写真があった。
『今年もありがとうございました。また来年もよろしくお願い致します。』
達筆な字でそう書かれた手紙と、あの村の皆の写真だった。
仕分けを終え、外に出て村の方を見た。
皆の顔が、頭の中に浮かぶ。写真を見て胸が痛む。また人が減っている。
「どうか長生きしてください」
郵便物を乗せ、バイクにまたがる。
——皆が生き続ける限り、僕は運ぶから。
心の中でそう呟き、僕はバイクを走らせた。
お題:雪原の先へ
—白い恩人—
大学の同級生三人と雪山を登っていた。
雪山には危険が多いが、山頂で見える景色は美しい。何度か登った事もあるし、平気だろうと思っていた。
「みんなしっかりしろ!」
しかし吹雪の止まない悪天候に変わり、俺たちは遭難していた。途中で洞窟を見つけたのでそこで一時待機している。
皆、体温がかなり下がってきた。
「もうダメか……」
かくいう俺も危ない状態だという事は分かっていた。体が思うように動かない。
「神様、どうか助けてください……」
壁を背中に腰を下ろした。リュックにかけていた御守りを握る。
意識が遠のく直前、知らない女の姿が見えた。
(あなたは……?)
長い黒髪に白い着物姿の美しい女性。
彼女は洞窟の外に向かって、白い息をふっと吐いた。
——
目を覚ますと、病院にいた。
「みんなは⁈」
起き上がって周りを見ると、同じ病室のベッドに皆いた。もう皆、起きている。
「あの後さ、急に晴れたらしいぜ。それで救助隊が助けてくれたんだ」
前が見えなくなるくらい吹雪いていたというのに、急に晴れた事に疑問を持った。
ふと、あの綺麗な女性が頭によぎった。
「ない」
リュックに目をやると御守りがなかった。
「何が?」友達が訊いた。
「いや、何でもない」
何故か胸の奥が温かくなった。
今度お礼の品を持って、もう一度山を訪れようと思った。
お題:白い吐息
—船灯の恋文—
海の上の船灯が、不規則に点滅している。
「どんなメッセージを伝えているのかな」その灯りを見て、姉は言った。
「うーん、何だろう」当然弟も分からない。
二人の頭の中には、映画で見た愛を伝え合うシーンが浮かんでいる。そんな何かだろうな、と二人は考えた。
「どうしたんだい。こんな夜に、二人で外を見て」祖父がやって来た。
「おじいちゃん。あれ、何て言ってるの?」船灯を指差して、姉が訊いた。
祖父は灯りを見た。
——悪かった。
——もうすぐ帰れるから。
——仕方ないじゃないか。
片側のメッセージしか分からないが、きっと仕事が長引いているせいで夫婦喧嘩をしているのだろう、と祖父は踏んだ。
「何て言ってるの⁈」姉は興味津々だ。弟も目を輝かせている。
「これは……、『愛』だ」祖父は答えを絞り出した。
夫婦喧嘩、これも愛の一つだろうと考えたからだった。
「やっぱり!ロマンチックだね!」
「うん!」
姉弟は盛り上がった。
祖父は静かに部屋を出ていった。
お題:消えない灯り