熱湯をカップに注ぎ、コーヒーが完成した。これから昼休憩の時間。俺の至福のひと時が始まろうとしていた。
その始まりを邪魔するように、突然同僚の田辺から電話が掛かってきた。
「ごめん、山田。デスクの上に置いてある、クリアファイルを駅まで持ってきてくれないか」
田辺は、大事な取引先との商談があると言っていた。そんな時に忘れ物をするなよとは思ったが、もし失敗すれば会社に大きな影響が出る。つまり、行くしかない。
「分かった。駅前で待っていてくれ」
「本当にごめん」
俺はコーヒーが大好きだ。だが、冷めたコーヒーは好きじゃない。コーヒーが冷めるまでの時間は約二十分。駅まで歩いて往復すると三十分ぐらいかかるから、急がねばならない。
湯気がたった熱々のコーヒーを横目に見ながら休憩室を出て、クリアファイルを取って飛び出した。
走って駅まで向かうこと二、三分で、自分の体力のなさを痛感した。社会人になってから全く運動をしていないことを後悔した。
「なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだ……」
重い足を持ち上げて、前に進む。その時、魔法のアイテムを見つけた。
その名は、ループだ。電動キックボードのそれは、ハンドルを捻るだけで結構早いスピードが出る。
普段は絶対使わないが、コーヒーのために手を伸ばした。それに乗って三分ほどで駅に着いた。
「山田、本当にありがとう!」
「困ったときはお互い様だ。頑張れよ」
無事にクリアファイルを届け、会社に向かった。結局会社に着いたのは、出てから十分ちょっとだった。
休憩室に戻り、椅子に腰掛ける。コーヒーはまだ温かった。美味しい。頑張って良かったと思う。
だが、往復代に二百円。コーヒー一杯よりも高い。さっきは「お互い様だ」なんて言ったけれど、田辺を許さないと心の中で決めた。
お題:コーヒーが冷めないうちに
私はぼっちだった。運動は苦手だし、人と話すことは得意じゃない。
でも私は、そんな私を変えたかった。
だから、これから始まる高校生活では色々なことにチャレンジしてみようと思っている。
そして迎えた初日。
入学式を終えると、教室で自己紹介をした。前日まで一生懸命考えた自己紹介は、緊張で消えて水の泡になった。拍手があっただけマシだと思う。
初日は、次の日の予定を確認して解散となった。
私はメモ帳を広げて、『やることリスト』を見た。
・友達をつくる・部活動に入る
他にもたくさんあるが、この二つは絶対に達成したい。
これが達成できない世界線は、もう知っている。ぼっち街道まっしぐらだ。それだけは絶対にダメだ。
放課後は部活動見学の時間だった。
とりあえず文化部を回った。音楽はできないから吹奏楽部は除外して、絵が描けないから美術部は除外して、品がないから茶道部は除外して……。そんなことをしていたら、いつの間にか最後の教室に来ていた。
「はいっ!」
畳を叩く音が聞こえた。中を覗くと、二人が向き合って百人一首をしていた。ここは競技かるた部だ。
「あれ、新入生?見学していく?」
私に気がついた先輩が声をかけてくれた。
「はい」
即答だった。最後だから仕方ないとかではなく、純粋にやってみたいと思った。見学ではあったが、体験もさせてもらえた。それは予想通り、本当に楽しかった。
私は、競技かるた部に入部することにした。
きっと今までの私なら帰宅部になって、この部活に出会うことはなかっただろう。
『あの時、ああすれば良かった』なんて、後悔しないように全力で楽しもうと思った。
この調子で頑張ろう、私!
お題:パラレルワールド
「どうした、飯田?何かいいことでもあったのか?」
「いや……?特にいつも通りですけど」
どうやら現場監督の上村さんには、俺の機嫌がいいように見えたらしい。
「そうか。今日の飯田の働きっぷりは、いつにも増して素晴らしいから気になってな。女でもできたか?」
「いや、まさか。上村さん、今度いい人紹介してくださいよ」
俺は建設業の現場で働いている。木材やセメント袋なんかを運ぶのだが、そのスピードがいつもよりも早かったそうだ。
特に意識してはいなかったが、自分の評価が上がるのに悪い気はしない。
「はっはっは。この前行った店にな、いい女がいたんだ。今晩行くか?」
「はい、ぜひ」
今日はいい日だな、と心の中で思う。
上村さんは、上機嫌で仕事に戻った。
バッグに入れていた腕時計を見ると、もう少しで四と五の間で針が重なろうとしていた。
「飯田さん、そんなに時間を確認してどうしたんですか?」
休憩に来た、後輩の木村に話しかけられた。時間が気になりすぎて、腕時計をじっと見てしまっていたようだ。
「あぁ……、何でもないよ」
「もしかして、この後何か予定があるんですか?まさか彼女さんと」
時計をチラッと見た。時計の針は重なっていた。
「上村さんにも言われたけど、いないよ」
だって、いなくなってしまったから。
事件を起こしてからちょうど二十五年が経ち、時効が成立した。
俺は今、解放された。
お題:時計の針が重なって
高校三年生の秋のこと。僕たちは文化祭に向けて、クラス一丸となって着々と準備を進めていた。クラスの出し物は、お化け屋敷。
みんなで担当ごとに分かれて、ホームルームの前や、放課後に作業を行う。僕の担当は、装飾。驚かせる役もやるけれど、準備の時は特にやることはない。
完成が近づくにつれて、誰もが文化祭を楽しみに待った。僕もそうだ。
ただ、一つ不安があった。
もちろん、お化け屋敷について不安はない。この学校の文化祭には、三年生だけ、もう一つ大きなプログラムがある。
それは最終日の夜に行われる、フォークダンス。
学校内で流れている噂だが、そのペアになった人とは一生添い遂げられるらしい。
僕の不安は、幼馴染のあの子が一緒に踊ってくれるのかどうか。それだけだった。
そして文化祭前日の帰り道、僕は勇気を出して言った。
「明日のフォークダンス、僕と一緒に踊ってほしい」
彼女は僕の手を取ってくれた。
———
夢を見た。高校時代の懐かしい思い出。
妻が久しぶりにあの時の話なんてするから、告白のシーンだけではなく、その先の一緒に踊ったシーンまで夢に出てきた。今でもちょっと恥ずかしい。
でも僕は、声を大にしてみんなに伝えたい。
色々なことに挑戦してみるべきだ。結果はどうであれ、後から見ればきっとそれはいい思い出になる、と。
お題:僕と一緒に
灰色の雲が空を覆っている。それと同じように、佐々木さんの表情は珍しく曇っていた。
僕はいつもニコニコ笑っている彼女が好きだ。だからどうしても、その理由が知りたかった。とは言っても、親しく話す間柄ではない。授業中にグループワークがあれば話す程度。
つまり、まだまだ遠い存在ということ。ちなみに席は隣だから、物理的には近いんだけれど、間には何かに塞がれているような感じがする。それでも僕は、何かをしたいと思った。
周りに誰もいない時を狙って、話しかけるチャンスを伺う。
「はぁ……」
彼女の友達が席の周りからいなくなると、ため息が聞こえた。「今がチャンスだ!」と思って、隣を見る。
「佐々木さん……、どうしてため息をついているの?」
一回話しかければ、ちょっと心が落ち着く感じがした。でも、冷静になると恥ずかしくなってきて、だんだん心が熱くなっていく。
「佐野君……。あのね、ちょっと聞いてほしいんだけどさ——」
彼女の反応を見る限り、変に思われてはなさそうだ。彼女の言葉を、慎重に聞く。
「私の周りに、きのこの里派がいないの!」
「へ……?」
予想外の悩みで、返答に困る。
「ちなみに、佐野君はどっち⁈」
「僕は、た……、きのこ派だよ」
咄嗟に嘘をついた。頭の中をフル回転させて考えた、神の一手。名付けるならば、『君と一緒だよ作戦』
「やっぱり!今日の朝ね、コンビニでそれ買ったらさ、みんなきのこを否定するんだよ!ひどいよね……」
「うん……」
まぁ何とか作戦は成功した。彼女の笑顔を見ることができたから。
「でも、きのこ派に会えて良かった!ありがとう佐野君!さらば!」
「行っちゃった……」
彼女は弁当袋を持って、颯爽とどこかへ行ってしまった。
正直、関係は進展したとは思えない。それでも、今日が終わっていいくらいの満足感を味わえたのだった。
お題:cloudy
———
ちなみに私は、きのこ派です。