代わり映えのしない毎日は
まるで、ただひたすらにレベルアップのためだけに弱いモンスターを倒しまくる、あの地味な作業に似ていた。
だから、つまらなくて、だるくて、刺激がほしくなる。
こんな時間を費やす自分が馬鹿みたいに思えて、私は数学の問題集を閉じた。
階下に降りて、スニーカーを出す。
「こんな時間にどこ行くの?」
フェイスパック姿の母親が耳敏く気づいて、玄関まで出てきた。
そんな姿でこそ、玄関まで来ないでほしい。
「そこのコンビニで、模試の解答用紙コピーしてくる」
喉元まで出かかった言葉は、優良少女が使いそうなものにすり変わって投げられた。
「あら、だったら、拓磨についていってもらったら?」
母親は、上階を振り返って、いまにも弟に声をかけそうだ。
拓磨だって、部屋で思い思いに過ごしたいだろうに。
ほらね、受験勉強が絡むと態度が変わるんだよね。
「いいよ。部活で疲れてるだろうし。なんかレギュラー候補なんでしょ?大事な時期なんだし、ゆっくりさせてあげなよ」
私はすげなく答えて、スニーカーの靴紐を結ぶとトートバックを持って立ち上がった。
「そう?でも…」
母親は、また上階をちらりと見てから、私に視線を移した。まだ決めかねているようだ。
「コピーしたら戻って来るから。何か買うものがあったら、連絡ちょうだい。じゃあね」
長居は無用だ。
私は、母親が何か言い出す前に玄関を出た。
夜の空気は独特な感じがする。
毎日往復している通学路でさえ、朝の爽快さやまどろみが混在したものと、まるで空気感が違う。
薄闇が生き物だとしたら、知らずにその呼気を吸い込んで、自分が内側から侵食されていくような妄想すら描いてしまう。
コンビニは周囲の薄闇を退けて発光する、古びた宝箱みたいだった。
塾帰りの中学生たちが購入したホットスナックを噛りながら、小テストのできばえを話題に自動ドア付近に屯していた。
ああいう自由は、私の頃は無かったな。
私はコンビニの自動ドアを潜ると、雑誌コーナーを一瞥し、複合機に向かった。
#日常
通勤電車の喧騒にうんざりしながら、私は最近購入したばかりのワイヤレスイヤフォンをかばんから取り出した。
イヤフォン専門店のECサイトを眺めていた時に一目惚れして、考える間もなくポチっと購入ボタンを押していたのだった。
黒のボディにゴールドのラメが煌めいて、見るたびにテンションが上がる。
遮音性が高い仕様みたいで、一気に好きな音楽の世界に身を沈めることができるところも気に入っている。
車内が混雑しているのは嫌だけど、イヤフォンを使えばだいぶストレスはマシになる。
推しのアーティストがこの世に産まれてきてくれたことを、神さま仏さまに感謝するぐらいには、険が取れてしまうのだ。
ふと、推しのツアーTを着ている大学生風の大柄な男性が目に留まった。
さすがだね。見る目あるよ。
マスクで隠した口元がにやついた時、彼と目が合った。
形の良い眉根を寄せて、訝しそうに私を見返している。
まずい。
私は目線を横にずらし、スマホを取り出して通知をチェックしている風を装った。
すると、視界に表情を変えた彼が引っ掛かった。
視線を移すと、彼は口を「あ」のかたちにして、真っ直ぐに私の右手をロックオンしていた。
今度は私が訝しげな表情をして、スマホを握る右手を改めた。
「あ」
私の番だった。
スマホケース越しに推しの初期のステッカーが存在感をアピールしていたのだった。
次の停車駅を車内アナウンスが告げる。
職場の最寄り駅だ。
私は、スマホをかばんにしまい、降車ドア側に身体を向けた。
電車は次第に速度を緩め、車掌が停車駅名を繰り返しアナウンスした。人がドアに吸い寄せられ、密度が濃くなる。
エアロックが外されたような小気味よい音と共に、人が濁流のように流れ出していく。
後ろからの圧を感じながら、私も流れに身を投じようとしたその時…
「あの…」
横から声をかける人物がいた。
形の良い眉根を困ったようにハの字にしている
小柄な女性。
「はい?」
私は驚いて、声を上擦らせながらも、何とか返事をした。
そこで、ハッとした。
さっきはスマホに気を取られてしまったが。
彼女の身につけているTシャツ。
ファンクラブ限定シリアルナンバー入り再販無しのTシャツではないか。
「それ」
「それ」
2人の言葉が重なった。
足を止めてしまいたかったけれど、後ろからの圧には抗えない。
歩を進めながら
「改札出たところで」
と伝えて、私はICカードを持つ右手を振った。
彼女ははにかむように笑い、同じようICカードを持つ右手を振った。
体躯に恵まれたおかげで、小柄な彼女でも私はすぐに見つけてもらえることだろう。
推しのツアーTをそっと撫でた。
これから起こることは
きっと推しが偶然に起こしてくれた
作り話のような現実。
推しよ。
産まれてきてくれて
ありがとう。
#あなたがいたから
あの時、私が抱いていた感情に名前をつけるとするなら『哀れみ』、といえるだろう。
彼女は、祖先の特徴をその背に有していた。
空を舞う鳥たちに似た、白い翼を。
長い年月をかけて、祖先が点在していた群ごとに交配が進んでいくなかで、祖先の特徴を有することは重宝がられるどころか、退化と見なされ迫害の対象とされた。
彼女―シロヨクも、例外では無かった。
彼女の年が3つになる頃、年の近い子どもたちは彼女と遊ぶことを避けるようになった。
大人たちが明らかな侮蔑の態度を取るようになったからだ。
この頃、シロヨクの背には傍目から明らかに肩甲骨とは異なる盛り上がりが服の上からでも確認できる状態で、幼いシロヨクの小さな身体にはアンバランスな大翼が折りたたまれていてもなお、その存在感を現していた。
一人ぼっちで過ごすことが増えたシロヨクは、茂みに隠れ、時に必死に声を殺して嗚咽した。
その姿は、アカメの脳裏を焼き、胸に長針が刺さったような痛みを残した。
アカメは、視力の無い紅い瞳と銀色に近い白髪を持って生まれた。
稀有な容姿のアカメは、視力を持たずとも、全身の感覚をもって自分と外界とを理解し、見えないはずの世界を透視というかたちで頭の中に顕現させることができた。
さらに稀有な能力を宿していると知るや否や、群の大人たちは驚きおののいて、アカメを神格化し、不可侵の存在として囲うようになった。
アカメは自分の意思で自由に外に出ることも、誰かに会うことも難しくなった。いわゆる軟禁状態に置かれた。
ただ透視だけが、彼と外界との接点を唯一繋ぎ留めていた。
アカメは、自分に食事を運んでくる母世代の女性が下がると、手早く食事を喰らい、次に女性が訪れる半刻後まで透視に集中した。
シロヨクの状況を知ったのは、そんな時だ。
アカメ9歳、シロヨク3歳の頃だった。
『どうして泣いているんだい?』
頭の中に突如、男の子の声が響き、草むらに身を潜めていたシロヨクは、勢いよく顔を上げて左右を見回した。
誰もいない。
シロヨクしか。
「だぁれ…?」
シロヨクは、思わす声を漏らしていた。
続
#恋物語
じわりじわりと社会的な動物から、自分がかけ離れていくようだ。
それは、恐怖ではなく焦りに似ていた。
だから
人間で在るために、しがみついているのかもしれない。
彼の歌声に。
彼の歌声を初めて聴いたのは、定職に就けず、わずかな貯金と親の仕送りで何とか食いつないでいた時で、その日は当時にしては記録的な真夏日だった。
ただ足の爪を切る作業に集中することにすら、額に汗を浮き上がらせるほどに。
私は苦手な親指の爪の端に刃を食い込ませたまま、動きを止めた。
動悸がするほどの、叙情的な歌詞と、血を吐くようで、喉の血管が割けてしまうのではないかとぞっとするほどの声音だった。
この歌声は、この曲は、誰のものなのか。
あの日から、私は彼の虜になった。
妄執ともいえるだろう。
何者にもなれなかった私は、自傷の対価として聴力を失いかけていた。
私をこの世界に留めている唯一を喪いそうになって、私は自分の行いを悔いた。
妄執は盲愛に。
頭の中であの日の歌声が響く。
それは、私の存在が消滅するまで、忘れず、私と共にあり続ける。
#忘れられない、いつまでも
私は変態だろうか。
いつもの、前から5両目の、自動ドア付近で音楽を聴いている彼。
目を閉じて、身体を揺するでもなく、座席のエンド側に長身を少し預けている。
私は、彼とは対角線上の自動ドア付近に立ち、彼を横目でちらりと眺めていた。
今年最初の真夏日となった今日、車内はエアコンが稼働しているとはいえ、自動ドア付近に立っていると、湿気を含んだ生ぬるい外気とエアコン若干の冷気が混合して肌を撫で、べとつく嫌な感触がしていた。
車内全体が湿気を孕み、これ以上混雑すれば、衣服が肌に貼り付くような不快感が増すに違いなかった。
けれども、私の目に写る彼が纏う空気感は、別物だったように思う。
どこか俗世離れしたような、深緑の中のような心地よいひんやりした空気。
彼と彼の周りの空間だけが切り取られたような錯覚を起こしそうだった。
私は、眼鏡を外して額に浮いた汗をハンカチで拭いた。ついでに鼻の頭も、ぽんぽんと軽く叩く。
小学生の頃、あれも真夏日だった。
クラスの男子に、鼻の頭に汗をかいているところを嗤われたのだ。
「浜里の汗、樹液っぽくてきしょいわ~。」
それから、男子間での渾名は『浜里カブト』とか、ただの『カブト』とかになった。
第二次性徴期に差し掛かる時期だったこともあり、私にとってはあまり思い出したくもない苦い記憶だ。
私は眼鏡をかけ、改めて彼をちらりと見た。
相変わらず、エンド側に背を預けている。
その首筋が少し汗ばんでいることに、私は気づいた。
まるでオートフォーカスされたように、私の視線は彼の首筋に釘付けになり、「なんて、艶っぽいんだろう」と思った時には、頬が一気に火照りだした。
変態か、私は。
彼の汗ばんだ首筋に見惚れてしまうなんて。
汗の雫は、醜悪の対象でしかなかったのに。
彼の其れは、違って感じられた。
#雫