思い返すと、彼はいわゆるナルシストに分類されたのかもしれない。
常に自分が優位であろうとしたし、自分より
実力が上の相手には、女性経験の数で勝ると宣った。
田舎出身で男性に免疫の無かった私は、そんな彼を自尊心が高くて漢らしい人だと、すっかり誤った解釈をしていた。
彼と恋人関係になって、深夜に女の子達が来訪しても、彼はなんて後輩の面倒見が良い人なのだろうと思う始末だった。
盲目になっていた自分に気付かないふりをして過ごした私は、だんだんと彼のペースについていけなくなった。
好きならして当たり前のようなことの、認識のズレが、関係にヒビを入れ、修復不可能な域に達し、私たちは別れた。
踏切待ちが、二人でいる最後の場面となり、別れ際のキスさえ強く拒むほどに、私は彼と穏やか時間を過ごすことが出来なくなっていた。
それからお互い大学を卒業し、一度も連絡を取り合ったり、再会することはなかった。
彼の近況を知ったのは、ネットニュースだった。
人工授精の研究において、新たな技術試験を行い、予想以上の功績をあげたようだった。
"おしどり夫婦、念願の成功"
記事の表題を見つめ、私は、おめでとうと呟いた。
#届かぬ思い
「あっ、映人じゃん!久しぶり~、元気にしてた?」
突然の名指しと左肩に置かれた手に驚いた和映人は、立ち読みしていた漫画雑誌を落としかけ、あたふたしながら声の主を振り返り、さらに驚きの声をあげた。
「わっ、志波ちゃんだ!」
へへへっと、いたずらっ子のような表情を浮かべながら、志波和(しなみ のどか)は笑った。
ファッションビルのテナントとして出店している大型書店で顔を合わせた二人であったが、周りの喧騒が店内にも響いてくるおかげか、声のボリュームがやや大きくても、そこまで目立たず、批難の視線を浴びることもなかった。
それでも、映人は周囲を窺い、声のトーンを落とし、小声で話すことにした。
「びっくりしたよ。書店に来るなんて珍しいじゃん。探し物?」
志波は、持っていた数冊の単行本の表紙を映人の眼前に近づけた。
「これを買いに来たんだよ~」
「って、近い近い!もっと離して!ちゃんと見えないよ。」
その本は、それぞれオレンジや白抜きで『スポーツ健康栄養学』『スポーツ医学』…と表紙の1/3を埋めるほどの大きさでデカデカと書かれていた。
「これって…?」
「私、スポーツ推薦で入学したでしょ?いまね、ラクロス部のレギュラーになったんだけど、将来はスポーツに関わる仕事がしたいからさ。部活にも絶対役に立つ勉強をしようと思って。」
志波は、一息に喋ると、一冊の本のページをパラパラと捲って見せた。
ついこの間、入学式を終えたばかりだろうに、もう将来の職業を考えているのか…。
映人は漫画雑誌を閉じて、元の場所に戻した。
「あれ?もういいの?」
「うん…。そろそろ帰ろうかなって思ってたし。」
「あ!じゃあ、途中まで一緒に帰ろうよ!待ってて、いまお会計してくる!」
屈託なく志波は言うと、あっという間にレジ前に並ぶ列の最後尾に立った。
「敵わないなぁ」
映人は苦笑して、レジ近くのエスカレーター前に移動し、志波を待つことにした。
あの頃と変わらないように見えるのに、確かに時間は流れて、志波も自分も大人に近づいているのだ。
神様が存在するなら、自分はこう祈るだろう。
神様へ、志波と出逢わせてくれて感謝します、と―。
映人の父は転勤の多い仕事だった。
最短一年間で別の小学校へ転校することもあった。
映人は、クラスの同級生と浅く付き合う術を身に付け、自分の心の無防備な部分には何人たりとも立ち入らせなかった。
たった1人、志波を除いて。
映人は小学5年生に進級する時、志波が通う小学校に転入した。
小規模な学校で、一学年毎に2クラスずつ。
教員の数も前の学校よりだいぶと少なかった。
ただ、のんびりな校風が、都会の受験競争が苦手だった映人には好ましく感じられた。
志波は同じ五年二組のクラスメイトで、明るく、男女問わず輪の中心にいるような女子だった。
よく周りを見てて、なかなか会話に入れない子がいれば話をふったり、アフターフォローを欠かさなかったり、クラスメイトとの関わりに一線を引いている映人にとっては、感心はしても羨望の対象にはならなかった。
転機は、クラスで起こったある男子の財布盗難事件だった。
#神様へ
雲ひとつ無い空に、一筋の白い煙が登っている。
誰かが、弔われているのだ。
あの方角には、大きな石棺のような火葬場が完成したと、最近風の噂で聞いた。
祖先から引き継いだ、視覚、嗅覚、聴覚、それらの鋭敏さが、山二つほど越えた先の、靄のような煙の筋を当然のように感じ取る。
これが、我々という種族が、この世界で生き残るために獲得してきた、『進化』というものなのだろう。
だが、同じ種族であるからといって、争いが全く無いわけではない。
番となる別個体の奪い合いから始まり、住む場所、資材の確保、任務や役割の会得…数え出したら終わりが分からないほど、争いの種になるものは膨大に有る。
我々は、数十個体ほどで形成される群で生活しているが、群同士で争うこともある。
そういった時には、敵味方関係なく血が流れたり、命を落とす者が出たりすることもあるのだ。
あの煙は、おそらく群対群の争いで喪われた者に違いない。
群は基本的に最も優れた個体が長となって、統率する。
そのカリスマ性の前では、謀反の種も大きな脅威に成長することなく早々に摘み取られてしまう。つまり、群を維持するため、長は他の個体を難なく動かせてしまう力を持つ。
異分子に対しては特に敏速に。
したがって、群内の争いは小規模で、命が奪われるなど、これまで前例はなかった。
ふと、頭上を影が横切り、着地点に素早く顔を向けた。
「シロヨクか」
乳白色の翼を折り畳み、目の前に降り立つ女系の個体―シロヨクは、笑顔で小首を傾げた。
「タカヅメじゃないか。此処で何をしてるのさ?」
私は先ほどの煙が登っていた方角に顔を向けて言った。
「誰かが弔われているみたいだ」
シロヨクも同じ方角に顔を向けると、
「ふうん。また争いが起こってるんだね。こんな気持ちのいい快晴の日なんてあまり無いのに、争い事に使うなんてもったいない」
と、つまらなそうに言って、翼の手入れを始めた。
シロヨクは、この群の中でも珍しい一対の白い翼を背に生やしている。
我々の群は、翼が退化してしまった個体がほとんどを占める。
代わりなのかどうかは分からないが、タカヅメのように、尖った石槍以上の鋭さと硬さを持つ爪が両手に生えている者や、虫の羽音のような高周波の声音を持つ者など、ある部位が特異な変化をしていたり、高い能力を内包していたりするのだ。
その、個体の特異性を名前に反映するのが、
この種族のルールだ。
シロヨクは白い翼を持つが故、タカヅメは鷹という鳥類の一種に似た爪を持つが故に、それぞれ名付けられたのだった。
#快晴
大昔、私達の祖先が生まれた頃、彼らは背中に翼を生やし、自由に空を飛び回り、島から島へ拠点を移していったらしい。
ある時、豊かな陸地を見つけた祖先たちは、森を切り開き、田畑を耕し、天敵から群を守る術を編み出し、定住した。
後に、子孫に引き継がれてきた背の翼は退化し、二足歩行が当たり前の姿となった。
両手は、道具を器用に操り、様々な物を生み出し、文明開化が促進された。
末裔の私達は、学校で、私達の起源を学ぶ。
子どもたちは、大人たちから繰り返し、耳タコなほど聞かされてきた話だ。
この貧しい土地に留まるのは、やはり何も持たない、貧しい私たち。
豊かさを享受していた祖先の、末裔の中でも一握りだけ、秀でた能力を持つ者たちがいた。
彼らは知を結集して、この貧しい土地を捨てて豊かな土地へ移動する方法を考え出し、実行した。
残された者たちは、ますます土地とともに廃れていくのみと思われた。
今日も、名を知らぬ誰かを、生きている誰かが弔う。
一週間前には、私も親しい友人を弔った。
涙は出なかった。
ここはそういう場所だから。
天敵から逃れられても、ここは最も死と隣り合わせのところかもしれない。
獣の鳴き声がする。
耳を澄まし、空を見上げる。
かつて、祖先が自由に飛び回った空は、最早、遠すぎて、夢物語の産物にしか感じ得ない。
それでも年下の子ども、自分の弟や妹たちにとっては、いつか手が届く場所らしい。
その、遠くの空へ、私たちが飛び立てるのは一体いつになるのだろう。
#遠くの空へ
「お見合い…ですか」
西園寺鷹取と手合わせした後、入江虎太郎は額から流れる汗をタオルで拭きながら、動揺を隠せない様子で言った。
隣に立つ鷹取は、横目で虎太郎を見つつ、涼しげな顔で続けた。
「まぁ、あくまでも父親の意向で、本人はあまり乗り気じゃないんだけどね~」
西園寺小鳥がお見合いをする。
近い将来、そんな話があるだろうとは思っていたが、まさか大学入試前のこんなタイミングだとは…。
読みが甘かった。
虎太郎は、幼馴染みである西園寺小鳥の護衛役(見習い)である。
人目を引く外見や、歴史ある家柄出身でもあることから、小鳥には幼い頃からトラブルや不穏な事件に巻き込まれないよう護衛役が付いていた。
実は虎太郎の叔父・入江龍臣も、小鳥が高校へ入学するまでは護衛役を務めていた。
しかし、さすがに思春期真っ只中の愛娘に、年上でほどよく落ち着いて頼りになる、しかも異性の護衛役を付けることに逡巡した父・西園寺鷲智は、幼馴染みで同級生の虎太郎に、護衛役(見習い)として白羽の矢を立てたのだった。
つまり虎太郎は、鷲智が愛でる小鳥を摘み取る危険人物だと、たったの1%も認識されなかったということだ。
それはそれで、後に思い至った虎太郎は複雑な気分になったものだ。
小鳥と一緒に、龍臣の仕事ぶりを見てきた虎太郎は、憧れと共に焦りを感じていた。
小鳥の隣は、ずっと自分の指定席であってほしい。
そのためには、選ばれなければ。
隣に立つに相応しい人間だと。
幼少期の虎太郎は、身体が弱く、よく高熱を出して寝込んでいた。
そんな時は、西園寺家の庭園から色とりどりの花で作った花束を持った小鳥が、必ずお見舞いに訪れてくれたのだった。
小鳥は花束を花瓶に移すと、寝込む虎太郎の手をとっては「大丈夫?」と顔を覗き込んだ。
その心配そうな顔を、笑顔に変えたいと、虎太郎は思ったのだった。
春の陽気のような、温かな笑顔の方こそ彼女には似合っているのだから。
小学校の高学年になると、虎太郎は龍臣に相談し、身体を鍛え、武道を習うようになった。
すべては、小鳥の隣に立つ者として相応しいと認めてもらうため。
誰にも、この場所を取られたくない。
意地じゃない、出世欲でもない、プライドだ。
ただただ、長年彼女を慕っている一人の男としての。
この想いは、まだ言葉にはできない。
いつか、そう遠くない日に伝えるのだ。
言葉にできない、この想いを言葉にするのだ。
「もう一度、お手合わせ願えますか?」
さっきとは打って変わって、落ち着いた声音で、虎太郎は鷹取に尋ねた。
鷹取は微笑しながら返事をした。
「もちろん」
早速場内に戻る虎太郎の後ろ姿を追いながら、鷹取は呟いた。
「そうこなくっちゃ」
#言葉にできない