通勤電車の喧騒にうんざりしながら、私は最近購入したばかりのワイヤレスイヤフォンをかばんから取り出した。
イヤフォン専門店のECサイトを眺めていた時に一目惚れして、考える間もなくポチっと購入ボタンを押していたのだった。
黒のボディにゴールドのラメが煌めいて、見るたびにテンションが上がる。
遮音性が高い仕様みたいで、一気に好きな音楽の世界に身を沈めることができるところも気に入っている。
車内が混雑しているのは嫌だけど、イヤフォンを使えばだいぶストレスはマシになる。
推しのアーティストがこの世に産まれてきてくれたことを、神さま仏さまに感謝するぐらいには、険が取れてしまうのだ。
ふと、推しのツアーTを着ている大学生風の大柄な男性が目に留まった。
さすがだね。見る目あるよ。
マスクで隠した口元がにやついた時、彼と目が合った。
形の良い眉根を寄せて、訝しそうに私を見返している。
まずい。
私は目線を横にずらし、スマホを取り出して通知をチェックしている風を装った。
すると、視界に表情を変えた彼が引っ掛かった。
視線を移すと、彼は口を「あ」のかたちにして、真っ直ぐに私の右手をロックオンしていた。
今度は私が訝しげな表情をして、スマホを握る右手を改めた。
「あ」
私の番だった。
スマホケース越しに推しの初期のステッカーが存在感をアピールしていたのだった。
次の停車駅を車内アナウンスが告げる。
職場の最寄り駅だ。
私は、スマホをかばんにしまい、降車ドア側に身体を向けた。
電車は次第に速度を緩め、車掌が停車駅名を繰り返しアナウンスした。人がドアに吸い寄せられ、密度が濃くなる。
エアロックが外されたような小気味よい音と共に、人が濁流のように流れ出していく。
後ろからの圧を感じながら、私も流れに身を投じようとしたその時…
「あの…」
横から声をかける人物がいた。
形の良い眉根を困ったようにハの字にしている
小柄な女性。
「はい?」
私は驚いて、声を上擦らせながらも、何とか返事をした。
そこで、ハッとした。
さっきはスマホに気を取られてしまったが。
彼女の身につけているTシャツ。
ファンクラブ限定シリアルナンバー入り再販無しのTシャツではないか。
「それ」
「それ」
2人の言葉が重なった。
足を止めてしまいたかったけれど、後ろからの圧には抗えない。
歩を進めながら
「改札出たところで」
と伝えて、私はICカードを持つ右手を振った。
彼女ははにかむように笑い、同じようICカードを持つ右手を振った。
体躯に恵まれたおかげで、小柄な彼女でも私はすぐに見つけてもらえることだろう。
推しのツアーTをそっと撫でた。
これから起こることは
きっと推しが偶然に起こしてくれた
作り話のような現実。
推しよ。
産まれてきてくれて
ありがとう。
#あなたがいたから
6/20/2024, 1:42:00 PM