じわりじわりと社会的な動物から、自分がかけ離れていくようだ。
それは、恐怖ではなく焦りに似ていた。
だから
人間で在るために、しがみついているのかもしれない。
彼の歌声に。
彼の歌声を初めて聴いたのは、定職に就けず、わずかな貯金と親の仕送りで何とか食いつないでいた時で、その日は当時にしては記録的な真夏日だった。
ただ足の爪を切る作業に集中することにすら、額に汗を浮き上がらせるほどに。
私は苦手な親指の爪の端に刃を食い込ませたまま、動きを止めた。
動悸がするほどの、叙情的な歌詞と、血を吐くようで、喉の血管が割けてしまうのではないかとぞっとするほどの声音だった。
この歌声は、この曲は、誰のものなのか。
あの日から、私は彼の虜になった。
妄執ともいえるだろう。
何者にもなれなかった私は、自傷の対価として聴力を失いかけていた。
私をこの世界に留めている唯一を喪いそうになって、私は自分の行いを悔いた。
妄執は盲愛に。
頭の中であの日の歌声が響く。
それは、私の存在が消滅するまで、忘れず、私と共にあり続ける。
#忘れられない、いつまでも
私は変態だろうか。
いつもの、前から5両目の、自動ドア付近で音楽を聴いている彼。
目を閉じて、身体を揺するでもなく、座席のエンド側に長身を少し預けている。
私は、彼とは対角線上の自動ドア付近に立ち、彼を横目でちらりと眺めていた。
今年最初の真夏日となった今日、車内はエアコンが稼働しているとはいえ、自動ドア付近に立っていると、湿気を含んだ生ぬるい外気とエアコン若干の冷気が混合して肌を撫で、べとつく嫌な感触がしていた。
車内全体が湿気を孕み、これ以上混雑すれば、衣服が肌に貼り付くような不快感が増すに違いなかった。
けれども、私の目に写る彼が纏う空気感は、別物だったように思う。
どこか俗世離れしたような、深緑の中のような心地よいひんやりした空気。
彼と彼の周りの空間だけが切り取られたような錯覚を起こしそうだった。
私は、眼鏡を外して額に浮いた汗をハンカチで拭いた。ついでに鼻の頭も、ぽんぽんと軽く叩く。
小学生の頃、あれも真夏日だった。
クラスの男子に、鼻の頭に汗をかいているところを嗤われたのだ。
「浜里の汗、樹液っぽくてきしょいわ~。」
それから、男子間での渾名は『浜里カブト』とか、ただの『カブト』とかになった。
第二次性徴期に差し掛かる時期だったこともあり、私にとってはあまり思い出したくもない苦い記憶だ。
私は眼鏡をかけ、改めて彼をちらりと見た。
相変わらず、エンド側に背を預けている。
その首筋が少し汗ばんでいることに、私は気づいた。
まるでオートフォーカスされたように、私の視線は彼の首筋に釘付けになり、「なんて、艶っぽいんだろう」と思った時には、頬が一気に火照りだした。
変態か、私は。
彼の汗ばんだ首筋に見惚れてしまうなんて。
汗の雫は、醜悪の対象でしかなかったのに。
彼の其れは、違って感じられた。
#雫
思い返すと、彼はいわゆるナルシストに分類されたのかもしれない。
常に自分が優位であろうとしたし、自分より
実力が上の相手には、女性経験の数で勝ると宣った。
田舎出身で男性に免疫の無かった私は、そんな彼を自尊心が高くて漢らしい人だと、すっかり誤った解釈をしていた。
彼と恋人関係になって、深夜に女の子達が来訪しても、彼はなんて後輩の面倒見が良い人なのだろうと思う始末だった。
盲目になっていた自分に気付かないふりをして過ごした私は、だんだんと彼のペースについていけなくなった。
好きならして当たり前のようなことの、認識のズレが、関係にヒビを入れ、修復不可能な域に達し、私たちは別れた。
踏切待ちが、二人でいる最後の場面となり、別れ際のキスさえ強く拒むほどに、私は彼と穏やか時間を過ごすことが出来なくなっていた。
それからお互い大学を卒業し、一度も連絡を取り合ったり、再会することはなかった。
彼の近況を知ったのは、ネットニュースだった。
人工授精の研究において、新たな技術試験を行い、予想以上の功績をあげたようだった。
"おしどり夫婦、念願の成功"
記事の表題を見つめ、私は、おめでとうと呟いた。
#届かぬ思い
「あっ、映人じゃん!久しぶり~、元気にしてた?」
突然の名指しと左肩に置かれた手に驚いた和映人は、立ち読みしていた漫画雑誌を落としかけ、あたふたしながら声の主を振り返り、さらに驚きの声をあげた。
「わっ、志波ちゃんだ!」
へへへっと、いたずらっ子のような表情を浮かべながら、志波和(しなみ のどか)は笑った。
ファッションビルのテナントとして出店している大型書店で顔を合わせた二人であったが、周りの喧騒が店内にも響いてくるおかげか、声のボリュームがやや大きくても、そこまで目立たず、批難の視線を浴びることもなかった。
それでも、映人は周囲を窺い、声のトーンを落とし、小声で話すことにした。
「びっくりしたよ。書店に来るなんて珍しいじゃん。探し物?」
志波は、持っていた数冊の単行本の表紙を映人の眼前に近づけた。
「これを買いに来たんだよ~」
「って、近い近い!もっと離して!ちゃんと見えないよ。」
その本は、それぞれオレンジや白抜きで『スポーツ健康栄養学』『スポーツ医学』…と表紙の1/3を埋めるほどの大きさでデカデカと書かれていた。
「これって…?」
「私、スポーツ推薦で入学したでしょ?いまね、ラクロス部のレギュラーになったんだけど、将来はスポーツに関わる仕事がしたいからさ。部活にも絶対役に立つ勉強をしようと思って。」
志波は、一息に喋ると、一冊の本のページをパラパラと捲って見せた。
ついこの間、入学式を終えたばかりだろうに、もう将来の職業を考えているのか…。
映人は漫画雑誌を閉じて、元の場所に戻した。
「あれ?もういいの?」
「うん…。そろそろ帰ろうかなって思ってたし。」
「あ!じゃあ、途中まで一緒に帰ろうよ!待ってて、いまお会計してくる!」
屈託なく志波は言うと、あっという間にレジ前に並ぶ列の最後尾に立った。
「敵わないなぁ」
映人は苦笑して、レジ近くのエスカレーター前に移動し、志波を待つことにした。
あの頃と変わらないように見えるのに、確かに時間は流れて、志波も自分も大人に近づいているのだ。
神様が存在するなら、自分はこう祈るだろう。
神様へ、志波と出逢わせてくれて感謝します、と―。
映人の父は転勤の多い仕事だった。
最短一年間で別の小学校へ転校することもあった。
映人は、クラスの同級生と浅く付き合う術を身に付け、自分の心の無防備な部分には何人たりとも立ち入らせなかった。
たった1人、志波を除いて。
映人は小学5年生に進級する時、志波が通う小学校に転入した。
小規模な学校で、一学年毎に2クラスずつ。
教員の数も前の学校よりだいぶと少なかった。
ただ、のんびりな校風が、都会の受験競争が苦手だった映人には好ましく感じられた。
志波は同じ五年二組のクラスメイトで、明るく、男女問わず輪の中心にいるような女子だった。
よく周りを見てて、なかなか会話に入れない子がいれば話をふったり、アフターフォローを欠かさなかったり、クラスメイトとの関わりに一線を引いている映人にとっては、感心はしても羨望の対象にはならなかった。
転機は、クラスで起こったある男子の財布盗難事件だった。
#神様へ
雲ひとつ無い空に、一筋の白い煙が登っている。
誰かが、弔われているのだ。
あの方角には、大きな石棺のような火葬場が完成したと、最近風の噂で聞いた。
祖先から引き継いだ、視覚、嗅覚、聴覚、それらの鋭敏さが、山二つほど越えた先の、靄のような煙の筋を当然のように感じ取る。
これが、我々という種族が、この世界で生き残るために獲得してきた、『進化』というものなのだろう。
だが、同じ種族であるからといって、争いが全く無いわけではない。
番となる別個体の奪い合いから始まり、住む場所、資材の確保、任務や役割の会得…数え出したら終わりが分からないほど、争いの種になるものは膨大に有る。
我々は、数十個体ほどで形成される群で生活しているが、群同士で争うこともある。
そういった時には、敵味方関係なく血が流れたり、命を落とす者が出たりすることもあるのだ。
あの煙は、おそらく群対群の争いで喪われた者に違いない。
群は基本的に最も優れた個体が長となって、統率する。
そのカリスマ性の前では、謀反の種も大きな脅威に成長することなく早々に摘み取られてしまう。つまり、群を維持するため、長は他の個体を難なく動かせてしまう力を持つ。
異分子に対しては特に敏速に。
したがって、群内の争いは小規模で、命が奪われるなど、これまで前例はなかった。
ふと、頭上を影が横切り、着地点に素早く顔を向けた。
「シロヨクか」
乳白色の翼を折り畳み、目の前に降り立つ女系の個体―シロヨクは、笑顔で小首を傾げた。
「タカヅメじゃないか。此処で何をしてるのさ?」
私は先ほどの煙が登っていた方角に顔を向けて言った。
「誰かが弔われているみたいだ」
シロヨクも同じ方角に顔を向けると、
「ふうん。また争いが起こってるんだね。こんな気持ちのいい快晴の日なんてあまり無いのに、争い事に使うなんてもったいない」
と、つまらなそうに言って、翼の手入れを始めた。
シロヨクは、この群の中でも珍しい一対の白い翼を背に生やしている。
我々の群は、翼が退化してしまった個体がほとんどを占める。
代わりなのかどうかは分からないが、タカヅメのように、尖った石槍以上の鋭さと硬さを持つ爪が両手に生えている者や、虫の羽音のような高周波の声音を持つ者など、ある部位が特異な変化をしていたり、高い能力を内包していたりするのだ。
その、個体の特異性を名前に反映するのが、
この種族のルールだ。
シロヨクは白い翼を持つが故、タカヅメは鷹という鳥類の一種に似た爪を持つが故に、それぞれ名付けられたのだった。
#快晴