大昔、私達の祖先が生まれた頃、彼らは背中に翼を生やし、自由に空を飛び回り、島から島へ拠点を移していったらしい。
ある時、豊かな陸地を見つけた祖先たちは、森を切り開き、田畑を耕し、天敵から群を守る術を編み出し、定住した。
後に、子孫に引き継がれてきた背の翼は退化し、二足歩行が当たり前の姿となった。
両手は、道具を器用に操り、様々な物を生み出し、文明開化が促進された。
末裔の私達は、学校で、私達の起源を学ぶ。
子どもたちは、大人たちから繰り返し、耳タコなほど聞かされてきた話だ。
この貧しい土地に留まるのは、やはり何も持たない、貧しい私たち。
豊かさを享受していた祖先の、末裔の中でも一握りだけ、秀でた能力を持つ者たちがいた。
彼らは知を結集して、この貧しい土地を捨てて豊かな土地へ移動する方法を考え出し、実行した。
残された者たちは、ますます土地とともに廃れていくのみと思われた。
今日も、名を知らぬ誰かを、生きている誰かが弔う。
一週間前には、私も親しい友人を弔った。
涙は出なかった。
ここはそういう場所だから。
天敵から逃れられても、ここは最も死と隣り合わせのところかもしれない。
獣の鳴き声がする。
耳を澄まし、空を見上げる。
かつて、祖先が自由に飛び回った空は、最早、遠すぎて、夢物語の産物にしか感じ得ない。
それでも年下の子ども、自分の弟や妹たちにとっては、いつか手が届く場所らしい。
その、遠くの空へ、私たちが飛び立てるのは一体いつになるのだろう。
#遠くの空へ
「お見合い…ですか」
西園寺鷹取と手合わせした後、入江虎太郎は額から流れる汗をタオルで拭きながら、動揺を隠せない様子で言った。
隣に立つ鷹取は、横目で虎太郎を見つつ、涼しげな顔で続けた。
「まぁ、あくまでも父親の意向で、本人はあまり乗り気じゃないんだけどね~」
西園寺小鳥がお見合いをする。
近い将来、そんな話があるだろうとは思っていたが、まさか大学入試前のこんなタイミングだとは…。
読みが甘かった。
虎太郎は、幼馴染みである西園寺小鳥の護衛役(見習い)である。
人目を引く外見や、歴史ある家柄出身でもあることから、小鳥には幼い頃からトラブルや不穏な事件に巻き込まれないよう護衛役が付いていた。
実は虎太郎の叔父・入江龍臣も、小鳥が高校へ入学するまでは護衛役を務めていた。
しかし、さすがに思春期真っ只中の愛娘に、年上でほどよく落ち着いて頼りになる、しかも異性の護衛役を付けることに逡巡した父・西園寺鷲智は、幼馴染みで同級生の虎太郎に、護衛役(見習い)として白羽の矢を立てたのだった。
つまり虎太郎は、鷲智が愛でる小鳥を摘み取る危険人物だと、たったの1%も認識されなかったということだ。
それはそれで、後に思い至った虎太郎は複雑な気分になったものだ。
小鳥と一緒に、龍臣の仕事ぶりを見てきた虎太郎は、憧れと共に焦りを感じていた。
小鳥の隣は、ずっと自分の指定席であってほしい。
そのためには、選ばれなければ。
隣に立つに相応しい人間だと。
幼少期の虎太郎は、身体が弱く、よく高熱を出して寝込んでいた。
そんな時は、西園寺家の庭園から色とりどりの花で作った花束を持った小鳥が、必ずお見舞いに訪れてくれたのだった。
小鳥は花束を花瓶に移すと、寝込む虎太郎の手をとっては「大丈夫?」と顔を覗き込んだ。
その心配そうな顔を、笑顔に変えたいと、虎太郎は思ったのだった。
春の陽気のような、温かな笑顔の方こそ彼女には似合っているのだから。
小学校の高学年になると、虎太郎は龍臣に相談し、身体を鍛え、武道を習うようになった。
すべては、小鳥の隣に立つ者として相応しいと認めてもらうため。
誰にも、この場所を取られたくない。
意地じゃない、出世欲でもない、プライドだ。
ただただ、長年彼女を慕っている一人の男としての。
この想いは、まだ言葉にはできない。
いつか、そう遠くない日に伝えるのだ。
言葉にできない、この想いを言葉にするのだ。
「もう一度、お手合わせ願えますか?」
さっきとは打って変わって、落ち着いた声音で、虎太郎は鷹取に尋ねた。
鷹取は微笑しながら返事をした。
「もちろん」
早速場内に戻る虎太郎の後ろ姿を追いながら、鷹取は呟いた。
「そうこなくっちゃ」
#言葉にできない
「お見合い…ですか?」
ティーカップを口に運ぼうとしていた小鳥は、一旦カップをソーサーに戻し、父・西園寺鷲智に尋ねた。
休日のティータイム、珍しく家族揃って団欒の時間を持てると思ったら、こんな話題を出すなんて。
メイド達が焼いてくれたスコーンを頬張りながら、鷲智はすげなく答える。
「何も卒業したらすぐに結婚しろと言ってるんじゃない。卒業後は好きな大学に入って好きな研究をしたらいい。だが、小鳥には、西園寺家の直系としての役割を忘れないでほしくてな」
いわゆる政略結婚だ。
小鳥はきゅっと唇を引き結んだ。
「さすがに時代錯誤ではありませんか?今どき血縁なんか無くたって、業務提携して面白い事を始めてる所はそこそこありますよ」
兄の鷹取がふーっと溜め息をついて、ティーカップをソーサーに置いた。
紅茶の香りに対してか、それとも父の発言に対しての溜め息なのか、判別はつかない。
そっと鷹取が小鳥に視線を送る。
"異論が有るなら、自分の言葉で言うべきだ。"
分かっている。
西園寺家の長女として生を受けたからには、恵まれた環境を享受している立場にある者は、己が役割として、ひとの見本となり、社会の礎になるべきであると。
生前、母がよく小鳥に説いていたのだ。
四歳の小鳥の小さな手を優しく握って。
小鳥は居ずまいを正すと、鷲智を真っ直ぐに見据えた。
「お父様、私は学生の身分で婚約するなんて、前向きには考えられません。私が卒業するまで、相手方の時間を奪うことにもなります。それはお互いにとって、残酷な選択に思えてなりません。添い遂げる方としこりを残すような関係にはなりたくないのです。」
それに…。
小鳥は言い終えると、鷲智の言葉を待った。
鷲智は、じっと小鳥を見つめた後、深く息を吐いた。
珍しく葉巻に手が延び、咥えたところで、はたとライターを擦ろうとする手を止めた。
「燕が、小鳥によく話してくれたことがあっただろう。覚えているか?」
西園寺燕は、小鳥が幼少期の時に亡くなった実母の名だ。
小鳥は黙って頷いた。
「まぁ、いい。少し時間を置いて考えよう。」
鷲智はそう言うと、ガラス戸を開き、外靴に履き替えたと思えば、
「少し園庭を散歩してくる」
と、すっと影が地面を滑るように、足音もなく歩を進めていった。
「自分勝手なのか、過保護なのか、よく分からないね。うちの親は。」
わずかな時間、鷲智の背中を見つめたあと、鷹取は肩をすくめて小鳥に同意を求めるように言った。
小鳥は答えず、すっかり冷めてしまったティーカップに視線を落とし、琥珀色の液体に映る寂しげな自分の顔を見つめた。
「小鳥様、いかがなされましたか?」
生徒会役員の会議が終わり、資料の片づけをしていると、他の教室に借りたホワイトボードを返してきた入江虎太郎が小声で尋ねてきた。
来た。
虎太郎は幼馴染み兼、小鳥の護衛(見習い)であるだけあって、小鳥のわずかな変化を敏感に察していた。
流石ね、虎太郎さん。
虎太郎に尊敬の念を抱きつつ、小鳥は何でもないように笑顔を向けて答えた。
「私はいつもどおりよ?」
虎太郎が怪訝そうな顔をする。
「しかし…」
虎太郎は口の中でもごもごと言うと、頭を掻いて視線を外した。
困った時の癖だ。
長い付き合いだからこそ、知り得る癖だ。
小鳥はふふっと笑うと、虎太郎を見つめて言った。
「いつも心配してくれてありがとう」
相変わらず、虎太郎の顔には?が描いてある。
これからも、ずっと、この関係を続けていけたら…。
その、もしもの願いを、小鳥は胸に仕舞って立ち上がった。
#これからも、ずっと
『神々しい』とは、きっとこういう現象をいうのだろう。
私は、彼から目が離せなかった。
その日、母親に下校時に買い物を頼まれた私は、部活を早上がりし、書店で目的の雑誌を購入した。
「自分で買いに行けばいいのに」
ぶつくさ文句を言いながら、私は紙袋に入った雑誌をカバンにしまった。
母の推しが特集されているらしい雑誌は、女性向けのファッション誌で、私にとっては興味が沸かない部類だった。
でも、推しの特集誌が刊行される日を楽しみに待つ気持ちは分かる。すごく。
だから、本の虫である自分にとって書店は現実世界の疲労を癒すオアシスなのだが、今日は目的を終えると、後ろ髪を引かれる思いで最寄り駅へ向かった。
普段、部活が終わってからでは乗車することのない列車に乗る。
朝と同じ、前から5両目。
ふと、私は前方を見て、目を見開いた。
彼が、反対側のドア付近に居たのだ。
沈みかける夕日を浴びて、彼の金髪は淡く黄金色に輝いていた。
インナーイヤホンで音楽を聴いているのか、それとも居眠りしているのか、横並びの座席に背を預けながら、目を閉じて腕を組み、微動だにしない。
まるで彫刻のような美しさ。
私は思わず息をのんだ。
『神々しい』って、きっとこういうことなんだ。
#沈む夕日
「あんたって、髪きれいだよな」
朝の通学・通勤時間帯で込み合う5両目、彼のいつもの定位置で、私は出入口を背に、彼と向き合っていた。
否、正しくは、彼と私は身長差が40センチ位あるので、私は見上げて、彼は見下ろす構図だけど。
新学期が始まって、社会人も学生もいつもの顔ぶれが散見されるようになって、またいつもの毎日が始まるんだと思ったら、私は前日から待ち遠しくて、鼓動が速くなってなかなか寝付けなかった。
「え、あ、そう…ですかね?まだ、この髪型には慣れてなくて…」
私は、熱を帯びた両頬を隠すように俯いた。
セミロングから、肩に着かないギリギリのボブスタイルに変えたのは二日前。
祖母の形見であるシュシュを1学期に無くしかけたことを反省し、校則の事もあって、思い切ってアップにしなくて済む髪型にしたのだ。
あの時、彼がシュシュを拾ってくれていなかったら、私は落ち込んでしばらく学校を休んでいたかもしれない。
彼が見つけてくれた祖母の形見は、仏壇前の祖母の写真の横に飾っている。
朝、家を出る前に必ず「行ってきます」と挨拶をして、笑顔の祖母とシュシュを見てから玄関に向かうのが日課になっていた。
「その髪型、似合ってると思う。あんたの髪がどんだけキレイか、良さが出てる」
「そんな、言いすぎですよ…」
「俺のは…」
彼が長めの前髪をつまんで言う。
「軟らかくて、少しクセが有るから、あんたのストレートが羨ましい」
ふっと柔らかく笑う姿に、とびきり心臓が跳ねた。
ぎゅっと、制服の胸の辺りを掴む。
ふと、彼が怪訝な顔をした。
「なに?気持ち悪い?」
私の様子の変化にいち早く気づいてくれるのは嬉しいけど。けど、今はあまり訊かないでほしい。
私は、出来るだけ不自然にならないよう、出来得る限りの微笑を貼りつけて応えた。
「誉められ慣れしてなくて、緊張しちゃいました」
嘘ではない。でも、きっと、この動悸の種類が違うだろうことは分かる。
まだ、気持ちを伝えるには、早すぎる。
彼はほっとしたように、表情を緩めた。
「そっか。まぁ、俺みたいな男から誉められても、ビミョーだよな」
そんなことない。
私は、貴方の言葉が嬉しい。
「ま、髪質ってさ、ないものねだりだよな。言ったところで根本は変わる訳でもないし」
彼の両耳のピアスが太陽光を浴びて煌めき、深緑色が明るく鮮やかな緑色に変わる。
私に無いもの。
ピアスを開ける勇気も、彼と特別な関係になりたいと伝える勇気も、今の私には、まだない。
#ないものねだり