マナ

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「あんたって、髪きれいだよな」

朝の通学・通勤時間帯で込み合う5両目、彼のいつもの定位置で、私は出入口を背に、彼と向き合っていた。

否、正しくは、彼と私は身長差が40センチ位あるので、私は見上げて、彼は見下ろす構図だけど。

新学期が始まって、社会人も学生もいつもの顔ぶれが散見されるようになって、またいつもの毎日が始まるんだと思ったら、私は前日から待ち遠しくて、鼓動が速くなってなかなか寝付けなかった。

「え、あ、そう…ですかね?まだ、この髪型には慣れてなくて…」
私は、熱を帯びた両頬を隠すように俯いた。
セミロングから、肩に着かないギリギリのボブスタイルに変えたのは二日前。

祖母の形見であるシュシュを1学期に無くしかけたことを反省し、校則の事もあって、思い切ってアップにしなくて済む髪型にしたのだ。

あの時、彼がシュシュを拾ってくれていなかったら、私は落ち込んでしばらく学校を休んでいたかもしれない。

彼が見つけてくれた祖母の形見は、仏壇前の祖母の写真の横に飾っている。
朝、家を出る前に必ず「行ってきます」と挨拶をして、笑顔の祖母とシュシュを見てから玄関に向かうのが日課になっていた。


「その髪型、似合ってると思う。あんたの髪がどんだけキレイか、良さが出てる」

「そんな、言いすぎですよ…」

「俺のは…」

彼が長めの前髪をつまんで言う。

「軟らかくて、少しクセが有るから、あんたのストレートが羨ましい」

ふっと柔らかく笑う姿に、とびきり心臓が跳ねた。

ぎゅっと、制服の胸の辺りを掴む。


ふと、彼が怪訝な顔をした。

「なに?気持ち悪い?」

私の様子の変化にいち早く気づいてくれるのは嬉しいけど。けど、今はあまり訊かないでほしい。

私は、出来るだけ不自然にならないよう、出来得る限りの微笑を貼りつけて応えた。

「誉められ慣れしてなくて、緊張しちゃいました」

嘘ではない。でも、きっと、この動悸の種類が違うだろうことは分かる。
まだ、気持ちを伝えるには、早すぎる。

彼はほっとしたように、表情を緩めた。

「そっか。まぁ、俺みたいな男から誉められても、ビミョーだよな」

そんなことない。
私は、貴方の言葉が嬉しい。

「ま、髪質ってさ、ないものねだりだよな。言ったところで根本は変わる訳でもないし」

彼の両耳のピアスが太陽光を浴びて煌めき、深緑色が明るく鮮やかな緑色に変わる。


私に無いもの。

ピアスを開ける勇気も、彼と特別な関係になりたいと伝える勇気も、今の私には、まだない。


#ないものねだり

3/26/2024, 1:56:23 PM