善悪はその都度、人が判断しているだけなのだろう。
例えば、私は銀シャリが大好きで、これだけあれば生きて行けそうな気がするが、
本当にこればかり食べると肥るし、栄養が偏り、病気になり早死にするだろう。ご飯ですら善になったり、悪にもなる。
同じ事が薬にも言える。適量飲めば薬だが、飲みすぎれば毒にもなる。
アヘンは麻薬だが、薬としても活躍している。激痛を和らげ、眠れない人を休ませてくれる。
善と言えばウルトラマンだが、
大江健三郎は「破壊者ウルトラマン」と題して、ゴジラやウルトラマンを批判している。言いたい事は分からなくもないけど、
違うよ。ちょつとお待ちなさい、と窘めたくなってしまう。
マザー・テレサは聖人に認定されたそうだが、これに疑問符を付ける人もいる。
患者の苦痛に対して、宗教を押し付けるような態度で接したり、衛生管理があまりにもずさんであったなどと、批判の声があるようだ。
けれど、彼女が貧困に喘ぐ人々に優しく手を差し伸べ、真摯な態度で尽くしたのは事実だと思うのだが。
このような個々の問題を、1つ1つ、善いものなのか、悪いものなのか、丁寧に選ばなくてはならないのである。
そうそう、
永井豪の「デビルマン」は、最高傑作だとする人が多い。アニメではなく、原作の方だが。
気安く、読めとはススメられない程の問題作である。
いや、読むべきだろう。
ディズニーの『ピノキオ』の主題歌は「星に願いを」であった。
輝く星に 心の夢を
祈れば いつか叶うでしょう
きらきら星は 不思議な力
あなたの夢を 満たすでしょう 🎶
星には不思議な力がありそうな気がするのだろう。根拠は何もないけど、人々は星に祈りを捧げてきた。
永六輔の「見上げてごらん夜の星を」の一節だと
「ボクらのように 名もない星が
ささやかな幸せを 祈っている」
となる。これだと星は神のような祈る対象ではなく、むしろ人の、祈りの象徴となっている。
人は死ぬと星になると昔から言われて来た。そんなバカな話はないのだが、科学ではなく、
親しい人が亡くなった悲しみを、せめて夜空の星になって自分らを見守ってくれているのだと思えば、慰めになるから、何となくそう信じられて来たのだろう。
中島みゆきの「地上の星」では、
草原のペガサス 街角のヴィーナス
みんな何処へ行った
見守られることもなく
地上にある星を誰も覚えていない
としており、生きている人こそが正に星なのだと歌っているのである。
科学的な星の話は置いておく。
星とは人そのものを霊的な姿に変えたもの、なのかも知れない。それは、幽霊よりも好ましいイメージ。
神や天使には届かないが、それらの系譜の下の存在なのだろうか?
夜空に流れ星が降る時、天界の扉が開いて神が地上を覗いているから、その時だけは願い事を聞き届けてくれるという。
でも、神は人の願いを聞いてくれる存在ではないだろう。
せめて星は、ただきらきらと、
静かに輝いて、見守ってくれる。
『薬屋のひとりごと』は、中国唐時代の宮廷をイメージされて作られたマンガだが、
宮女達はガチガチのルールに縛られてか細く生きていたようだ。
そもそも皇帝の為の宮女であるから、ルールも皇帝ありきで作られている。宮女の人権など毛程も考えられていないのだ。
例えば、自由にトイレに行く事が出来ない。運悪く失禁などしようものなら死罪であるから、ご馳走があったとしても少しだけしか食べない、飲まない。それはルールにはないが、排泄しないためには結局そうせざるを得ない。
このように、昔作られたルールには酷いものもあるのだが。
ルールなんてなるべく決めない方が良い、人は自由が1番なような気がするが、案外、縛られて生きる方が楽だというパターンだってあるのだ。
私は、商売に失敗し、財産を全て失い、借金が山のように残った。
浮浪者にまで堕ちたが、冬になって寒くてどうしようもなくなり、結局は役所に泣きつき、ある施設の世話になった。
憲法第25条 生存権によって国民は守られているのである。
施設に入った日、A4で20頁程の冊子を渡された。施設内での禁止事項や、施設の目的、方針が書かれていた。
施設が私を支援してくれるのは最長で6ヶ月。その間に自立の道を見つけなければならなかった。
いや、自立と言うからには新居を見つけ、そこへ移らなくてはならず、家賃、敷金、礼金分くらいを貯蓄する為には、3ヶ月以内に再就職するのがリミットなのだ。
当時の私は55歳、再就職はそう簡単な問題ではないのだった。
その話はともかく、私は施設から渡された冊子を毎日、穴が開く程読み込んだ。
施設では夜10時消灯。1部屋に6人寝ていてベッドの間はカーテンで仕切られていたが、やることがないので豆電球で冊子を読んでいた(スマホは棄てていた)。
施設では毎日3食出たほか、1日400円支給された。400円で何が出来る??
俺たちを馬鹿にしてるのか?
いや、違う。
その冊子はホチキス止めされた粗末なものだったが、内容は素晴らしかった。
浮浪者は私1人ではない、世の中には、たぶん何十万人といる筈だ。それをそのまま放置するより、再生させて税金を回収した方が、国としても助かるのだ、
半年間せっかく世話した後に、また浮浪者に戻られては支援した意味がない、国だとて何とか我々に立ち直ってもらいたいのだ、そして立ち直る為の支援なら、国は喜んで出してくれる。
だから、徒手空拳の浮浪者が、どうにか再生する方法が、その道筋が、よく読むとそこには確かに記されていたのである。
施設の職員は、いちいち、ああです、こうですなどと説明はしてくれないが、実はお得な情報満載の冊子だったのだ。
私は2ヶ月で再就職し、5ヶ月と少しで施設を出たが、
その頃には内心では施設が居心地いいと感じていた。驚いた事に、共同生活も10時消灯6時起床も慣れたらどうと言う事もなかった。
それまでの私の生活は、だらしがなかった。お金も野放図に使っていた、施設での暮らしは、自分を見つめ直す良い機会であった。
そう、私はもちろん自由が好きだったが、本当は、
ある程度ルールに縛られていた方が自分を良く律して、むしろパフォーマンスが上がる男だったのだ。
その後の私は無駄遣いを排除し、山のような借金も、返済のこり僅かの状態に迫っている、多分、余裕で返せるだろう。
ルールに縛られながらも、ルールを熟知し、逆に利用する方法もあるはずだ。
ルールも、あんがい捨てたもんじゃないのかも知れないと思う。
茂木健一郎の「イマジン大学」というYouTubeでAI(人工知能)の話題で、
シアトルではWhat is your MOAT? などと訊く事が流行っているという話題が出ていた。
MOATとは「堀」のこと。堀はお城を守ってくれる重要な役割を担っているが、
この場合は「得意分野」とか「他人には負けない誇れるもの」などと訳す方が分かりやすいかも知れない。
その動画を要約すると、いま人工知能が熱くて、その進歩速度は何年単位ではなく、1日違えば大きく飛躍するという程のスピードで変わりつつあるそうだが、
我が日本はこの分野で世界に大きく水を開けられているのが現状だが、そのような技術面ではなく、ソフト面でリード出来るのではないか?
日本のMOAT(得意)は何かと言えば、例えば寿司がある。世界中で寿司が作られたとしても、寿司は日本のものが最高だと誰もが認めているではないか? 同じように、アニメや漫画も、今は日本のものが世界を席巻している。
優秀な人工知能は他国が作ったとしても、その使い方を考え出すのは日本人の得意分野なのでは?
てな趣旨だったと思う。
そんで、次に見たのが、
「日本のバブル崩壊時よりも酷い中国経済の現状」というタイトルの【中国まる見え情報局】というYouTubeだったが、
ここでも中国人が、
「今や日本の産業は、自動車などの工業製品から、アニメ、漫画のソフトへと移行し、実際に工業製品の需要を上回っている」と語っていたのである。
詳しい事実は分からないが、少し調べてみるとそのような実績もあるらしい。
何が言いたいのかと言えば、
やはり、今、日本のアニメ、漫画は凄いということだ。
私の文章には、殊更意識してアニメ、マンガの話題を挟めている。実はワザとそうしているのだが、
私の場合、必ずしも成功しているとは言い難いが、藤山寛美や本居宣長の話を書く時、アニメを引合いにした方が伝わると思うのである。
本居宣長を語るなら、尊皇攘夷の話とか書いても、誰も食いつかない。
だから最近は勉強に疲れると殊更見たことのないアニメやマンガを見て知識を増やしている。
今、日本文化を語るならアニメを見ずして何を語れるか?落語もいいけど、小林秀雄も好きだけど、今はマンガだろう?!
そうと確信して、今日の心模様は上々である。
オイラは何もないけれど、
右のポッケにゃ夢がある、
左のポッケにゃチューインガム♪
だ。
間違いだと気が付いている事があるなら、早く改めるべきだと思う。
それはとても簡単な結論なのに、それでも間違いを続けるのは、
何処かで、どうにかなって解決して欲しいと願っているからだ。
けれども、それは大抵どうにもなりません。
これは大事な事だから、いい加減な勢いでは書いたりは出来ない。
私は商売をして、失敗し、財産を全て失い、借金が山のように残った。
冷静に考えたなら、かなり早い段階で商売を止め、違う道を模索すべきだったのに、
ずるずると続けて、最悪の終わり方を迎えてしまった。ハッキリ言ってバカヤロウだった。
けど、自分の事は見えないものだ。
大東亜戦争で日本は敗戦国となったが、多くの犠牲を払った。歴史を習えば、
もっと早い段階で負けを認めていれば、どれだけの命が救えたか?
なんて嘆いたものだが、私は当時の大本営をナジル資格がないと思ってしまうのだ。
当時の指導者達だとて、このままなら勝てない、負けると早い段階で分かっていたのだ。
それを、元寇では神風が吹いて勝ち、日清戦争でも大国を下し、日露戦争でも勝ってしまった。どれも日本は負けると言われていた戦いに、勝って来たから、今回も結局は日本が勝つと思い込んでいた。
いよいよ負けるとなっても、
局地戦で、あと1勝だけして講和すれば有利な条件で停戦できるなどと考えているうちに、決定的に、完膚なきまでに負けてしまったのである。
私の商売の失敗も、構造は同じだった。
なんだか人生は、大して努力しなくても上手く運んで、転職する度に収入は跳ね上がって来た。
だから、商売でも失敗しないと思い込んでいた。
けれど、それは間違いなのだ。私の人生が上手く運んだのは、自分の実力ではなく、たまたま日本経済が上向きの時代に、乗っかっていただけなのだ。
間違いは、何処まで行っても間違いだ。
引き返すのも勇気だと思う。