香港、タイ、マレーシア、・・・東南アジアでは毎日スコールがあって、
急に空が暗くなったかと思うとザァーっと激しい雨が降って、少しするとそれが止んで、またウソのように晴れ渡る。
木々や草花がしっとりと濡れて、雫がぽたぽたと落ちる様は美しい。瑞々しく、匂い立ってくる。何もかもが生きてると感じる。
外国に行くと、そんな風に雨に出くわすが、傘をさしている人をあまり見かけない。
雨が降ったら、サッと軒に隠れてやり過ごせば、雨もそんなに長くは続かないし、
だいたいTシャツだから、かなり濡れても放っておけば、いつの間にやら乾いてしまう。
いつもトートバッグの中には、折り畳み傘が入っているが、少しくらいの雨では出さない。ちょつとくらいなら濡れても平気。
雨に打たれながら歩き、「俺はタフなアメリカ人なのさ」なんて心の中で呟いてみる。いや、もちろんジャパニーズだが。
むしろ、日本人が傘を異常に愛用する国民性なのかも知れない。
一時期、雨には酸性雨やら放射能が含まれているかもとニュースで騒いだ事もあったけれど、
そういうのも気にし過ぎる方が身体に悪いと思って無視している。
ずっと前に、家のベランダでトマトを育てた事もあったが、毎日水をやるのが楽しかった。
ジョウロでたっぷり水をあげるのだが、トマトが喜んでくれているようで、まだ実をつけていないのに、ほのかにトマトの香りがした。
収穫しても、食べるのがもったいなかった。
シャカ族の王子であったゴータマ・シッダールタは、何不自由もない暮らしをしていたが、人生に疑問を抱いて出家してしまう。その時29歳だった。
シッダールタは苦行林で激しい苦行を何年も続けるが、大した成果はなく、これ以上続けても無駄だと思い、一切の苦行を止めてしまう。
川で身を清め、乳粥の施しを受け、菩提樹の下に座り、ただ静かに瞑想し続けて、ついに悟りを開いたのである。この時35歳。
私は仏教について本格的に学んだ訳ではないが、上の⬆話は幼稚園の時に先生から習った、ほぼそのままである。
だから、仏教とはシンプルに考えれば、一切の雑念を捨てて、ただ、ただ瞑想に打ち込んで悟れば良いのである。
禅宗の道元という人も「只管打坐」と言っている。つまり、「ただ座って瞑想せよ」だ。坐禅する事が重要なのだ。
でも、人は食べないと死んでしまうので、午前中は托鉢などして施しを受ける。午後からはずっと坐禅するのである。
これは、つまり釈迦の真似をしているのであるが、
釈迦のオリジナルという訳ではなく、釈迦が生まれるずっと前からインドではバラモン達もそうしていたものらしい。
禅の修行では、出家する時に全ての財産や地位を捨て、「一衣一鉢」だけ持つ事を許される(衣は用途別に3枚)。本来は托鉢で得た供物をその鉢で食べるものであったらしい。
じゃあ、その悟りとは何かと言えば、私には到底答える事は出来ない。
でも、宇宙の真理を説き明かす何かであるらしい事は分かる。
仏典を勉強してみると、量子力学みたいな構造の話など出て来て驚いてしまう。
私が釈迦に漠然と憧れるのは、その生活スタイルなのかも知れない。
基本的に彼は「一衣一鉢」を生涯通した。
たまに説法する事もあったが、多くは独り座して瞑想に耽っていた。
釈迦くらいになると托鉢にも行く必要はなく、何日も瞑想し続けたり、食べてもほんの少しだけだった。
言葉はあくまで少なく、弟子が何か質問しても否定する以外は沈黙によって了承していたという。
ご承知の通り、いま仏教はたくさんの宗派に別れているが、突き詰めればシンプルなもので、
禅宗の修行の形がそれに近いのかも知れない。
真理を知れば、何もいらない。
未来は見たくない。見なくたって、最後は絶対に死ぬと、(誰もが)分かっているのだから。
『ワンピース』では、冥王レイリーと初めて会った時、ウソップが「じゃあ、ワンピースの事も知ってるんじゃ」なんて質問をしようとして、ルフィに激怒された。
先が分かってしまった冒険は、もう冒険ではなくなるからだ。
ゴヤの絵に『我が子を食らうサトゥルヌス』というのがある。
これはギリシャ神話で「貴方は子に殺されるだろう」なんて予言を信じて、次々に子を食べてしまう姿を描いているのである。おぞましい。
神話にはこのパターンがあって、結局は父と息子が殺し合いする羽目になってしまうのだが、
そもそも、そんな予言さえ聞かなければ悲劇は起きなかったかも知れないのだ。
『アルスラーン戦記』では、これの少し違うパターンだったが、やはり予言を信じたばかりに、名君の誉れ高いはずの王が愚行を選んでしまう。
未来なんて知っても、あまり得はないような気がする。
私自身は、パラレルワールドな世界観を持っているので、今、もしも未来を見てしまったとしても、
その後の生き方次第で未来は変わるだろうと予想してしまう、と思う。
だから、未来を見てもあまり思い悩まない筈だ。
仮に素晴らしい、栄光の未来を見たとしても、絶対にそうなるなんて保証は何処にもない。気が緩んでダメになるパターンもあるだろうし。(物語の鉄則だろう)
60歳も近いから、その辺はむしろリアルだ。暴飲暴食とまで行かなくとも、美味いものばかり食べ続けるだけで、肥り、体調は崩れるのではなだろうか?
本当の未来が見えてしまった時、
その人の人生はもう、そこで終わってしまっているのかも知れない。
冬になると、ムーミン谷は真っ白な雪に覆われて、無色の世界となり、静寂に包まれる。
ムーミン谷の住民はだいたい冬眠するからね。
私が小学生の頃、アニメ「ムーミン」
が初めて放送された。とても大好きだったが、
後に原作を読むと、その世界観には少しズレがあり、原作者のトーベ・ヤンソンも日本アニメ(昭和時代の)「ムーミン」を見て憤慨していたという。
トーベ・ヤンソンには嫌われたが、日本人にはムーミンの世界観が、やはり受けたのだろう、根強いラブコールもあってか、
その後ムーミンは何度もリメイクされて、原作にどんどん近くなって行ってるようだ。
でも、雪が降れば、どこでも世界は真っ白になるのだ。私の田舎は雪国だったから、冬にはムーミン谷みたいな冬景色に変わった。
家の裏手は高校のグランドだったが、グランドは何も無いのだから、雪が降り積もって空が曇っていたら、それだけで本当に無色の世界になる。
子供達は、その周りの土手を利用してソリやミニスキー(プラスチック製の短い板スキー)で滑って遊んでいた。山スキーと違って危険はほぼ無い。
今はたぶんフェンスで囲われて部外者は立ち入り禁止だろうが、昔は(50年前)何でもおおらかだった。
いつも子供達で賑わうグランドなのに、何故か誰も来なくて、自分独りだけで遊んでいる事も、時にはあった。
それはそれで、いろんな事を空想して遊べるから楽しいのだ。遭難ごっこして遊んだり、新雪の上に仰向けに倒れたり、バカみたいだが面白かった。
雪景色は、やっぱりある種の異世界だ。全てが氷り、冷たく、死んでしまったかのように見える(春には復活するのだが)。
死んだふりする遊びなんて不吉だが、雪景色の中で1人で遊んでいると、本当に自分が死んでしまったのではないかしらと錯覚してしまう。
もちろん、バカな子供でしかない当時の私は、死にたいだなんて、これっぽっちも考えてはいなかったが、
冬には死を連想させるものが多く含まれているのだろう。
ムーミン谷の冬には、モランという怪物も登場する。
大きくて、モッサリしていて、何を考えているのか分からない、モランが歩いた後は、道も、草や木も、全てが凍りついてしまう。
本当は、それほど恐ろしい怪物ではないのだが、その呪われたような特性によって、ムーミン谷の住人達からも恐れられていた。
目的は分からないが、何やら唸り声を出して、うろうろしてる怪物が居たら、それはとても怖い。
でも、やはり見てみたい、
トーベ・ヤンソンの世界のモランを。
咲いた桜になぜ駒つなぐ、
駒が勇めば花が散る~♪
てな唄がある。
私は落語ファンだが、落語には四季がある。
春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)にそれぞれ合う噺があるから、春になったら落語の枕に、よく上の文句を引用する噺家がいる。
駒と言えば、馬肉の事を「サクラ」と呼んだりする。切ったばかりの馬肉は綺麗なサクラ色をしているからそう呼んだのだとか、
或いは、「けとばし」とも称する。今は馬肉なんて高級食材だが、昔は安い肉の代表みたいなものだったようだ。
だいたい浅草辺りの古い人は「けとばし」と言った筈だ。他ではあんまり言わないのかな?
若い頃、落語にすっかり夢中になって、都内の寄席や落語会に足を運んだものだが、落語のテープも集めていた。当時はYouTubeなんてないですからね。
五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽、六代目三遊亭圓生は古典落語のBIG3と言って良い(全員、明治生まれ)。
この3人を中心に、とにかく買いまくった。高かったけど、惜しくなかったし、それぞれ何回聴いたか分からないくらい聴いたから、充分元もとれたのである。
浅草のレコード屋で落語のテープを6巻くらい買った時、ついでを装って、どうしても訊きたい質問を店の人にぶつけてみた。
落語によく出てくる吉原の大門(おおもん)が何処にあるのか、その頃の私は知らなかったのである。
落語の中でも廓噺(くるわばなし)は特に傑作が多い気がする。
落語ファンを自認しているクセに、大門も知らないなんて、恥ずかしいと思っていた。
「あのぅー、吉原の大門って、どういうふうに行けば良いですかね?」
レジのオジサンが、目を丸くして一瞬絶句したかと思うと、まあまあ広い店内中に聞こえるような大声で叫んだ!!
「おおおーい!吉原の大門はどう行ったら良いですか?だってよ!!!」
よっぽど嬉しい質問だったのだろう。店に居る人全員からニコニコした顔を一斉に向けられて、私は驚くやら恥ずかしいやら、ただ赤面するしかなかった。(このリアクション、さすが浅草である)
もちろん、その後店の人は道順を丁寧に教えてくれたのだが。
無事、大門を見つけた私は、桜肉の店も発見したので、ついでに入ってしまった。
そこは吉原にある有名な「けとばし」の老舗で、昔の評論家 安藤鶴夫(彼も明治生まれ)の本でも私は既に存在を知っていた。
中は座敷になっており、客はまだまばらであった。
胡座をかき、ひとりで酒を飲み、「桜鍋」をはふはふやっていると、なんだか急にパアっと店の入り口が明るくなったかと思うと、
上がり込んで来たのが漫才の内海桂子・好江の桂子師匠だった。
ちょいとお忍びで、なんて奥ゆかしくではない、漫才師らしく、明るく、賑やかに、それでいて堂々としたボスの風格で圧倒していた、
桂子師匠が現れたら、誰もがそっちを見るだろう、彼女はただ食事しに来ただけなのだが、場の空気はすっかり彼女が支配していた。
師匠もほんの30分くらいの短い時間で、ぱぱっと飲み食いして、店の事をさんざん褒めて、サッと帰って行った。
粋な人であった。