シャカ族の王子であったゴータマ・シッダールタは、何不自由もない暮らしをしていたが、人生に疑問を抱いて出家してしまう。その時29歳だった。
シッダールタは苦行林で激しい苦行を何年も続けるが、大した成果はなく、これ以上続けても無駄だと思い、一切の苦行を止めてしまう。
川で身を清め、乳粥の施しを受け、菩提樹の下に座り、ただ静かに瞑想し続けて、ついに悟りを開いたのである。この時35歳。
私は仏教について本格的に学んだ訳ではないが、上の⬆話は幼稚園の時に先生から習った、ほぼそのままである。
だから、仏教とはシンプルに考えれば、一切の雑念を捨てて、ただ、ただ瞑想に打ち込んで悟れば良いのである。
禅宗の道元という人も「只管打坐」と言っている。つまり、「ただ座って瞑想せよ」だ。坐禅する事が重要なのだ。
でも、人は食べないと死んでしまうので、午前中は托鉢などして施しを受ける。午後からはずっと坐禅するのである。
これは、つまり釈迦の真似をしているのであるが、
釈迦のオリジナルという訳ではなく、釈迦が生まれるずっと前からインドではバラモン達もそうしていたものらしい。
禅の修行では、出家する時に全ての財産や地位を捨て、「一衣一鉢」だけ持つ事を許される(衣は用途別に3枚)。本来は托鉢で得た供物をその鉢で食べるものであったらしい。
じゃあ、その悟りとは何かと言えば、私には到底答える事は出来ない。
でも、宇宙の真理を説き明かす何かであるらしい事は分かる。
仏典を勉強してみると、量子力学みたいな構造の話など出て来て驚いてしまう。
私が釈迦に漠然と憧れるのは、その生活スタイルなのかも知れない。
基本的に彼は「一衣一鉢」を生涯通した。
たまに説法する事もあったが、多くは独り座して瞑想に耽っていた。
釈迦くらいになると托鉢にも行く必要はなく、何日も瞑想し続けたり、食べてもほんの少しだけだった。
言葉はあくまで少なく、弟子が何か質問しても否定する以外は沈黙によって了承していたという。
ご承知の通り、いま仏教はたくさんの宗派に別れているが、突き詰めればシンプルなもので、
禅宗の修行の形がそれに近いのかも知れない。
真理を知れば、何もいらない。
4/21/2024, 4:03:11 AM