子供のころは、エイプリルフールが楽しみだった。どんな嘘をついてやろうかと、ワクワクしながら考えたものだが、
いつからか虚しくなって、4月1日に嘘をつくのを止めてしまった。口へんに虚しいで「嘘」だから、当たり前だが。
嘘をつくのは、才能だと思う。
うん、紛れもなく才能だ。
『推しの子』の星野アイは、アイドル(嘘つき)で、「キレイな嘘をつく」のが身上だ。
彼女が嘘をつく事で、彼女の魅力は倍化する。彼女は自分の為だけでなく、ファンの為にも嘘つきを続けるのだ。
明石家さんまは、笑いの為なら平気で嘘をつく。彼が高言しているのは、「8割まで盛ってエエねん!」だ。
でも、それで笑わせられるなら、誰も損はしない。
さんまにしてみれば、それが彼のスタイルであり、「腕の見せどころ」なのだから、
逆に、面白い話を盛りもしないで素のまま語る奴は「腕がない芸人」となってしまう。
ただ、ビートたけしは嘘が嫌いである。直言不遜が彼のスタイルなのだ。芸人やアイドルも様々なのだ。どっちを選ぶかはあなた次第である。
しかし、嘘には悪質なものもある。詐欺事件のような犯罪は憎むべき嘘だが、それを「芸だ」とうそぶく詐欺師が居ても不思議はない。
「偉大な嘘つきは、偉大な魔術師だ」と名言を吐いたのは、アドルフ・ヒトラーである。
彼は、目的のために言葉を巧みに操り、事実を歪めて伝えたり、嘘をついて人々を扇動した。
恐ろしい。
間違った才能も、世の中にはある。
幸せで思い出す詩がある。
「山のあなた」
カール・ブッセ作
上田 敏 訳
山のあなたの空遠く 「幸さいはひ」住むと人のいふ。
噫ああ、われひとと尋とめゆきて、 涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く 「幸さいはひ」住むと人のいふ。
これは明治時代に日本でたいへん流行った詩で、私も小、中いずれかの国語の授業で習った覚えがある。
今は分かるだろうか?
一応、超訳すると、
【山の彼方の、ずっと向こうに行けば、幸せがあると誰かが言っていたから、私は人と探に行ったけれども、見つからなくて涙ぐんで帰って来ました。けれど、山の彼方の更にずっと向こうには、「幸せがきっとある」と誰かが云うのです】
かな?
何故これが流行ったのやら?
今読むと古くさい詩だが、明治の頃は新しかったらしい。
つまり、当時の日本人は「幸せ」なんて抽象的なものを詩にするのは珍しかったそうだ。
けれど、この気分は「南無阿弥陀仏」の気分とかなり近い。
つまり、阿弥陀如来は西方に、極楽浄土を開いて待っていて下さる。そこには、どうやったら行けるのか?
「南無阿弥陀仏」と唱えれば、極悪人ですら、そこへ行けるらしい。ずっと遠くとは、死んでのち行ける世界なのだ。
これは日本人に受けた、浄土宗、浄土真宗に入る人がたくさんいた。簡単だしね。
私も、最初に行った外国はインドだった。浄土宗は信じてないが、ブッタに心惹かれていたから、彼が悟りを開いた国をどうしても見てみたかった。
ガンジス川で沐浴もしたし、ブッタが初めて説法を説いた地、サルーナートへも行った。
ベナラーシー(ベナレス)から人力のリキシャー(人力車そのもの)で1時間くらいだった。
途中、スコールがあって、水捌けの悪い土地らしく、すぐに冠水した。
これって、宗教心というより、「山のあなた」的行動じゃないかと思う。
行ったからと言って、別にどうという事もないのだ(かなり楽しかったから涙ぐんだりはしなかったが)。
そう、
山のあなたまで行ったら、それだけで良いじゃないか?気がすむのだから。
なにも、涙ぐまんでもねぇ。
珈琲が好きなのでカフェで何時間も過ごしてしまう。
私は気を使う性質なので、珈琲1杯で何時間も粘ったりはしない。
一定の時間でお代りをしたり、食べ物を頼むから良い常連のはずだ。
クレームも言った記憶は無い、
多少迷惑な他の客がいても、事を荒立てず我慢してやり過ごす。
その店は広く、流行っているのでいろいろな客が来た。
サークル活動らしきかしましいグループ、
初老の女性同士が込み入った人間関係の話をしていたり、
そんなのはありふれた風景で、多少うるさくとも勉強や読書をしてればノイズとして聞き流して過ごせる。
だが、そんな私が驚くぐらい、物凄いスピードで喋る人を見た。
年齢は50代後半の男で、聞き役は対面に座っている60代後半の男性だった。
とにかく早口で、全盛期の古舘伊知郎、ツービートよりも早くて、うるさい。
それでも私は、何気ないふりを続けるしかなかった。声もでかかったので丸聞こえだ。
話題は宇宙開発について、UFO、宗教、国防、政治、芸能界と次々と目まぐるしく変わった。喋っているのは50代の方だけで、相手はただふむふむと頷いているだけであった。
早口で、落着き無く、油っ紙に火がついたように喋りに喋って、40分くらいで2人とも帰ってしまった。
全部耳に入ったけれども、印象に残る話は1つも無かった。
あれは何者か検討もつかないけれども、
もしかすると、あれが躁病の人ではないだろうかと、勝手に思って、府に落ちる事にした。
モチロン、私は医師ではないので本当の事は分からない。
私自身は、躁でも鬱でもないと思う。1度医師の友達が、テストをやってみないかと言うのでやってみたが、その結果は軽い鬱だと言うことだった。
でも私は鬱の傾向があったとしてもぜんぜん気にしていない、
人間誰しも気分が上がったり、落ち込む事はあって当然だ、
そもそも世の中には沢山のシリアスな問題がゴロゴロ転がってるのだから、マトモな人なら鬱気味になるのが正常な証拠だろうと思っているくらいた。
しかし、そんな私も「躁」状態になってしまう事はある。
そんな時の方が却って危ないのである。
雀聖 阿佐田哲也風に表現するなら、好調過ぎて自分のフォームを崩し、大失敗してしまうのである。
例えば10億円の宝くじに当たった人が、経済感覚が狂って、気が付いたら借金生活送っていたなんて例があるように、
躁状態はふわふわして危険なのである。
事実、私は商売をして大失敗した経験を持つが、
商売を始めた頃は、思い返すと躁状態が続いていたような記憶がある。
こんな事書いてるのは、今、私が好調過ぎて自分のフォームを崩しそうになっているからなのである。
何気ない、
何気ないふりをして、
じっとやり過ごさなくては……
私は今年59歳になるが、いま、勉強が楽しく、春から新しい勉強を始める準備をしているところだ。
強制されてする勉強は、拷問のようかも知れぬが、好きでするなら道楽の1種なのである。
江戸時代に本居宣長(もとおりのりなが)という人がいた。彼は町医者であったが、国学者として名を残した。最も有名な仕事は「古事記伝」だろうか?彼はそれを書き上げるのに34年費やした。
宣長は私塾も開いて、沢山の弟子に教えた。彼は教師としても優秀だったらしく、その講義は「ため息が出るほど面白い」と弟子が評したくらいだった。
弟子には商人が多かった。商人は金を持っている。遊びもいろいろあった筈だ。
•*¨*•.¸¸♬︎達磨さん、こちら向かんせ世の中は、月、雪、花に、酒と、三味線•*¨*•.¸¸♬︎
なんて、さんざん遊んだ末に、結局勉強がオモロいと気が付いたのだ。
宣長の、勉強に対する情熱は、大和の魂を伝えたいと言うことに尽きると思う。
「大和魂」とは勇ましさではない、逆だ、「もののあはれ」なのである。
つまり、「雄々しさ」とは輝かしく、立派に見えるが、そんな価値観よりも、わが国の人々は「めめしさ」をこそ大事にして来たのだと、宣長さんは『源氏物語』を読んで気が付いたのだ。
『源氏物語』の評価も「淫乱の書である」とか「性をテーマに見せかけて政争を描いているのだ」などと言う解釈がなされていたが、宣長はそうではない、そのまま読め、「もののあはれ」を感じなはれ。と、言いたかったのである。
最近、日本の文化が他国から高い評価を受けるようになった。『SPY×FAMILY』『薬屋のひとりごと』『葬送のフリーレン』『鬼滅の刃』にしろ、共通する価値観はなにかと言えば、「めめしさ」なのではないかと思うのだ。
めめしさを尊ぶ文化は、他国ではなかなか見られない、特に米国の価値観では強いものが偉く、尊く、弱いものが蔑まれてしまう。
ハリウッド映画はハッピーエンドが多いというのが一般認識だが(そうでない作品もいろいろあるけど)、正義が勝ち、悪が滅びる、だけでは何かが足りなかったのだ。
偽装家族を本当に好きになってしまうスパイや、消滅する鬼に情けをかける戦士はめめしい。
けれど、そこが良いのだ。「めめしさ」こそ、大事にしなくちゃいけないのだと、世界は日本を見て気が付いて来たのではないだろうか?
見つめられた事って、そんなに記憶がない。鑑賞に耐えられるようなビジュアルではないので、もし、見つめられたら石になってしまうかも知れない。
昔、寄席に通っていて週1以上のペースで行ったものだが、
その寄席は客の入らないので有名なくらいだったから、とうとう閉める事になったが、
そんなある日、いつものように暗い階段を3階まで登ると、入口に、どん!とテレビカメラが構えてあり、マイクを向けられてしまった。
不意打ちもいい所だか、閉鎖する寄席について、何か一言と訊かれて、恥ずかしい話し、一言も答えられなかった。
馴染みの お茶子のお婆さん達も、「ガンバレ」という暖かい視線を送ってくれていたが、それがなおさら重圧となった。
私はただ固まって、やけに大きく丸いレンズの前で、強いライトを浴びて、まるで蛇に睨まれたカエルみたいに、目を白黒させるほかなかった。
私だって、人前で話をする事はあるし、弁論大会にも出たりしたが、無機質な大きなレンズの前に立たされると、異様な緊張感があるものだと、この時はじめて知った。
見つめてしまうと石になるのは、ギリシャ神話のメデューサだが、彼女は恐ろしい顔をしており、髪の毛の1本1本がヘビで、その顔を見てしまうと石になってしまう。
もともと彼女は美しい娘で、海神ポセイドンの恋人だった。自分の容姿を自慢したり、アテナ神殿でポセイドンと仲睦まじい行ないをしたために、
アテナの怒りを買い、恐ろしい怪物に変えられてしまったという。
ペルテウスに首を切られ、切り落とされた後も見るものを石に変える効力は失われる事はなく、その首はアテナに捧げられて、
アテナはその首を自分の盾に用いた。最強の盾である。アテナもすごい事をするのである。
しかし、本当のメデューサは、コリントスの豊穣の女神であり、デメテルと同一の女神であった。
征服者の都合で、殊更みにくいバケモノに変えられてしまうのは、キリスト教が、魔女を異教徒として醜い悪魔の使いみたいにイメージ化したのと同じだ。
けれどメデューサはキャラが立っているので今も人気がある。
魔除けに使われたり、マンガやゲームにもよく登場する。それこそビジュアルが醜くて、かえって素敵なのである。むしろユーモラスなくらいだ。
バケモノ好きな私としても、無機質なカメラの眼よりも、よっぽど愛着を覚えてしまう。