白眼野 りゅー

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6/23/2025, 2:05:59 AM

「世界一大好きだよ、どこにも行かないでね」

 世界一大好きな君からの願いを、無碍にできるわけないじゃないか。


【どこにも行かないで待っている】


「ねえっ、本当にどこにも行かないでよね」
「行かないってば」
「そう……? 本当に? 隙を見て逃げようとか思ってない?」
「思わないよ」

 そもそも、逃げられないし。足枷くらい外してくれないかなあ。僕は逃げないからさ。

「私、仕事行ってくるけど、本当の本当に絶対絶対逃げないでね!」
「うん、行ってらっしゃい」

 子供が使うような言葉の繰り返しで必死に僕を繋ぎ止めようとする姿が愛おしい。君を不安がらせてしまうのは、本意ではないけれど。

 がちゃり、と部屋の鍵を外から閉める音が無機質に響いた。



「どこにも行かないでね、絶対だよ」
「分かってるって」

 僕の足が枷から解放された。それは君が不安から解放されたことの証左なので、とても嬉しい。

「買い物行ってくるけど、買ってきてほしいものある?」
「お肉とじゃがいも。今日は君の肉じゃがが食べたい」
「じゃあ、玉ねぎも買ってこないとだ」

 なんて日常会話を交わしてくれる程度には、僕に心を許してくれている。相変わらず鍵は二本持ち歩いているので、部屋の鍵はかけるつもりなのだろうが。

「行ってきます、逃げちゃダメだよ~」
「逃げないよ、行ってらっしゃい」

 がちゃり、と部屋の鍵を外から閉める音が柔らかく響いた。



「どこにも行かないよね、君は」
「もちろん。今日はいつ頃帰るの?」
「ちょっと友達と会うだけだから、夜には戻るよ」
「晩ごはん作っておこうか?」
「うん、お願い」

 君が僕の部屋に鍵をかけずに外出するようになってだいぶ経つ。鍵のかかっていない扉は見た目以上に軽くて、こんなに頼りないものだったのかと未だに新鮮に驚く。

「友達、どんな人なの?」
「どんなって言われると、説明が難しいなあ……。もう出かけたいから、この話後でいい?」
「うん、ごめんね引き止めて」

 僕が自由を得るのに比例して、君の秘密が増えていくような気がする。僕は今更どこにも行けないのに、君は僕の知らない誰かに会いに行くのだ。

「行ってらっしゃい」
「ああうん、行ってきます」

 がちゃり、と扉を閉める音が無機質に響いた。



「お願い、どこにも行かないでね」
「久々に聞いたかも、そのフレーズ」

 今更僕が逃げ出すことを恐れる君ではないと思っていたが。何か不安にさせるような行動や言動をとってしまっていただろうか。

 不安になるほどの執着が君に残っていたことに、僕は深く、深く安堵していた。

「……信じてるよ。君は私の約束、絶対守ってくれるもんね」
「当然さ」

 何にも縛られない足で立ち上がり、扉の前まで行く。本当は玄関まで見送りたいけれど、君に「行かないで」と言われたから、僕は絶対にこの部屋から出ない。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい」

―――
――


 そうして、それが最後の会話になった。僕はまだ、この部屋で待っている。君の帰りを待っている。君の言い付けを守って、どこにも行かずに。

 がちゃり、君が閉め忘れた扉を閉める音が虚しく響いた。

6/21/2025, 3:44:26 AM

「花占い、ってあるじゃない?」

 地面にしゃがみ込んで、こちらを見もせずに君は言う。

「あれでしょ。君は僕のことが好き、嫌い、好き、嫌い……ってやつ」
「そう」


【好き、嫌い、嫌い、嫌い……?】


「でもさあ」

 つん、と足元に咲いた花を指先でつついて、君は続ける。

「あれ、おかしいよね」
「おかしいって、何が?」
「好き、嫌い、好き、嫌いって、交互に繰り返していくじゃん。でも、好きと嫌いって、そんなに何度も往復するような感情じゃないと思うんだ」

 君が、足元の花を摘み取って、その小さな花びらに手をかける。

「好きの次が嫌いは、分かる。でも普通、一回嫌いになったら、その先はずっと、嫌い、嫌い、嫌い……」

 はらはらと、残基が減るみたいに花びらが散らされていく。

「それじゃあ、占いにならないじゃん。最初から結末が決まっているなら」

 ふわ、と風が吹いた。ちぎり取ったばかりの花びらが君の手をすり抜け、髪に絡んだ。

「あ……」
「はは、似合ってる」

 笑いながら君に近づき、髪についた花びらに手を触れる。それを抜き取るとき、ふと思い付いて

「好き」

 と、言ってみた。花占いに使う花の花弁が、全部一枚だったらいいのに。一度心変わりしたら取り返せないと言うなら、好きから変わらなければいいのに。

「そうね、結末は、決まってる。何もしなければ続いていくだけの感情も、きっかけ一つで裏返るから」

 ねえ、花占いって普通、好きから始まるでしょ? と君は続ける。花びらは残り一枚。

「好きから始まる感情は、優しく髪を触られるだけで元のところに戻る呪いよ」

 最後の花弁が地面へ落ちる。「好き」の言葉がそれに重なる。

6/20/2025, 7:40:45 AM

「今朝、玄関の扉を開けたらふわっと雨の香りが舞い込んできてさ。あ、知ってる? 雨が降ったときに地面から立ち上るあの香りは、ペトリコールって言うんだって」
「……」
「雨に濡れたアスファルトとか雫を支える若葉を見るよりも早く、僕はその匂いで『ああ、昨晩雨が降ったんだ』って悟った」
「……そんな話どうでもいいから、早く私の前から消えてくれない?」
「これは手厳しいね」


【雨の香り、涙の跡、服の下の火傷痕】


「どうして君は、僕にそんなひどいことを言うのかな」
「うるさい、どうでもいいでしょ」
「顔を見られたくないのかな。さっきから一度もこっちを向いてくれない」
「関係ないでしょ」
「関係ないといえばそうだ、これは今の状況とは全く関係ない独り言なんだけど」
「……『関係ないといえば』で話繋げようとする人、初めて見た」
「ユニークでしょ。僕、雨の香りって好きなんだ。世界が、冷たい雨に静かに耐えた証だから」
「だったら何」
「雨が降っている現場には、立ち会えなかったけど。せめて君が戦った証を、知りたい」
「何の話。私、別に……」
「火傷痕みたいに長く残るわけじゃない。乾いたら見えなくなってしまうインスタントな傷跡が消えてしまう前に、僕に見せてくれないかな」
「…………馬鹿」
「やっと、こっち向いてくれたね」

6/17/2025, 8:37:39 AM

 記憶の地図を辿るように、目を閉じて君との日々を思い返す。君と付き合い始めたあの日から始まって、現在地まででこぼこ道が続いている。そして、僕らの目の前の道は、行き止まり。

 進むためには、通行止めになっていない右の道に行くしかない。だけどそれは、別れへと続く道。


【記憶の地図に載らない輝き】


「どうしてこうなっちゃったんだろうね、私たち」

 君の笑顔は、他に適切な表情がわからないから仕方なくそうしている、というような収まりの悪さをどことなく感じさせた。

 どうしてなのだろう。この道を閉ざしたのは僕たちではない。好きで行き止まりにたどり着いたわけではない。

 だけど、行き止まりに続く道を選んできたのは、他でもない僕たちだ。

「選択肢一つ違っていたら、別の未来があったかな」

 僕と同じようなことを考えている君は、きっとこれから、僕と同じように記憶の地図を見返して、僕と同じように「あのとき、ここで右に曲がっていればよかったんだ。馬鹿だなあ」と後出しで思うのだろう。

 どうして、こんな別れへと続くだけの選択を繰り返してしまったのだろう。記憶の地図を見返してみても、どうしてこの道を選ぼうと思ったのかがよくわからない。地図で見る限り、僕らが選ばなかった道の方が広くて、歩きやすそうに見える。

 ……あ、思い出した。確か、僕たちはあのとき。

「綺麗な花が咲いてる方を選び続けて、取り返しのつかないことになっちゃったね」

 そうなのだ。あるときは一面の向日葵畑。あるときは花壇のチューリップ。あるときは一輪のたんぽぽ。地図に載らない程度の「綺麗」を選び続けてここにいるんだ、僕たちは。

「……まだつくよ、取り返し」

 思わず、僕は言っていた。

 東京タワーでも、富士山でも、太陽の塔でもない。地図に載らない「綺麗」を共有できる相手って、すごく貴重だと思うから。行き止まりに当たったくらいで手を離してしまうなんて、やっぱり、嫌だ。

「道がなければ、切り拓けばいい。綺麗な花のある方へ、道なき道を進んで行こう」
「……馬鹿じゃないの。簡単に言っちゃってさあ」

 別れの道は、都会への道だ。アスファルトで整備された平坦な道には、きっと花なんて一輪もない。

「地図に花のある場所は載ってないから、僕は君とそれを見つけたい。『こんなところに花畑あるんだね』って、地図に丸をつけようよ」
「きっと辛く厳しい旅になるよ」
「地図を見返しても花がある場所もわからない方が、ずっと辛いよ」

 ひとまずは、行き止まりの向こうにちらりと見えるあの花を。ちゃんと近づいて、種類を確かめて、地図上に赤いペンで書き込んでみない?

6/16/2025, 6:47:37 AM

 付き合って一年の記念にプレゼントしようと、マグカップを一つ買った。

 どうやら君も同じことを考えていたようで、テーブルの上にラッピングされたマグカップが二つ並んだ。

 僕らは笑って、それを交換した。


【自己都合のマグカップ】


 僕が買った飲み口の厚いマグカップでココアを飲む君が好きだった。両手でカップを包み込んで、その縁に小さな口をつける姿。その隣で、僕は君からもらったマグカップを片手で持ち、少し物足りない量のコーヒーを飲み干す。

 幸福な時間だった。愛おしい時間だった。

 今、この家にマグカップは一つしかない。

 私は君の水分になりたいと、いつか君は言っていた。変なことを言うなあとあの時は聞き流したが、記念日にわざわざマグカップを買うあたり、僕も心のどこかで同じようなことを思っていたのかもしれない。

 生きている限り喉は乾く。まして、思いっきり泣いた直後ならなおさら。

 そのときに思い出してもらえるように、なんて無意識に考えていたのかもしれない。

 あのときから、僕らは終わりに向かって歩いていたのかもしれない。

 だってこの先も二人で生きていくつもりだったら、記念日のあの時、テーブルの上にマグカップは四つ並ぶべきだったのだ。

 僕が君に買ったマグカップは小柄な君が扱いやすいようにもっと軽く、飲み口の薄いものであるべきだった。君が僕に買ったマグカップは僕が飲む量に合わせてもっと容量の多いものであるべきだった。

 お互いに、相手に呪いを残すことしか――自分のことしか――考えていなかったのだ、結局。

 僕ら二人、どっちにとっても使いやすいマグカップを二つ買って「これからもよろしくね」と言うだけで、回避できた程度の別れだったのではないか。

 君と過ごした日々の残滓が両目から溢れて、だから僕は、今日も君からの呪いに手を付けるのだろう。

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