「世界一大好きだよ、どこにも行かないでね」
世界一大好きな君からの願いを、無碍にできるわけないじゃないか。
【どこにも行かないで待っている】
「ねえっ、本当にどこにも行かないでよね」
「行かないってば」
「そう……? 本当に? 隙を見て逃げようとか思ってない?」
「思わないよ」
そもそも、逃げられないし。足枷くらい外してくれないかなあ。僕は逃げないからさ。
「私、仕事行ってくるけど、本当の本当に絶対絶対逃げないでね!」
「うん、行ってらっしゃい」
子供が使うような言葉の繰り返しで必死に僕を繋ぎ止めようとする姿が愛おしい。君を不安がらせてしまうのは、本意ではないけれど。
がちゃり、と部屋の鍵を外から閉める音が無機質に響いた。
■
「どこにも行かないでね、絶対だよ」
「分かってるって」
僕の足が枷から解放された。それは君が不安から解放されたことの証左なので、とても嬉しい。
「買い物行ってくるけど、買ってきてほしいものある?」
「お肉とじゃがいも。今日は君の肉じゃがが食べたい」
「じゃあ、玉ねぎも買ってこないとだ」
なんて日常会話を交わしてくれる程度には、僕に心を許してくれている。相変わらず鍵は二本持ち歩いているので、部屋の鍵はかけるつもりなのだろうが。
「行ってきます、逃げちゃダメだよ~」
「逃げないよ、行ってらっしゃい」
がちゃり、と部屋の鍵を外から閉める音が柔らかく響いた。
■
「どこにも行かないよね、君は」
「もちろん。今日はいつ頃帰るの?」
「ちょっと友達と会うだけだから、夜には戻るよ」
「晩ごはん作っておこうか?」
「うん、お願い」
君が僕の部屋に鍵をかけずに外出するようになってだいぶ経つ。鍵のかかっていない扉は見た目以上に軽くて、こんなに頼りないものだったのかと未だに新鮮に驚く。
「友達、どんな人なの?」
「どんなって言われると、説明が難しいなあ……。もう出かけたいから、この話後でいい?」
「うん、ごめんね引き止めて」
僕が自由を得るのに比例して、君の秘密が増えていくような気がする。僕は今更どこにも行けないのに、君は僕の知らない誰かに会いに行くのだ。
「行ってらっしゃい」
「ああうん、行ってきます」
がちゃり、と扉を閉める音が無機質に響いた。
■
「お願い、どこにも行かないでね」
「久々に聞いたかも、そのフレーズ」
今更僕が逃げ出すことを恐れる君ではないと思っていたが。何か不安にさせるような行動や言動をとってしまっていただろうか。
不安になるほどの執着が君に残っていたことに、僕は深く、深く安堵していた。
「……信じてるよ。君は私の約束、絶対守ってくれるもんね」
「当然さ」
何にも縛られない足で立ち上がり、扉の前まで行く。本当は玄関まで見送りたいけれど、君に「行かないで」と言われたから、僕は絶対にこの部屋から出ない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
―――
――
―
そうして、それが最後の会話になった。僕はまだ、この部屋で待っている。君の帰りを待っている。君の言い付けを守って、どこにも行かずに。
がちゃり、君が閉め忘れた扉を閉める音が虚しく響いた。
6/23/2025, 2:05:59 AM