【愛-恋=ゼロになる?】
「これ。早く書いてね」
机の上に、緑の紙。悲しそうな顔をする君にも、心は動かない。僕は新しい恋を見つけたのだ。
「私のこと、嫌いになったの?」
「そうじゃないよ。でも、もう僕は君に恋してない」
僕が言うのもなんだが、彼女は何も悪くない。
「プロポーズのとき、愛してるって言ってくれたのに」
「言ったよ。でも、愛から恋を引いたら、後には何も残らないから」
何も残らないのに、関係を続ける理由はない。それだけだ。
「……そんなことないよ」
「何が?」
「愛から恋を引いたら、ってやつ。きっと、愛の残骸くらいは残るよ」
「残骸ねえ」
そんなものが残ったから、何だと言うのか。こうやっていちいち僕の言うことに突っかかってくるところは、少し嫌いだったかもな。
「知ってる? 何にだって名前はあること。私と君の間にあったものの名前は愛。あなたが会社の後輩に抱いている感情は、恋」
言いながら、君はふらふらと部屋を出ていく。……頭がおかしくなって妙な言動や行動を取るのは勝手だが、離婚届を書いてからにしてほしい。
「愛の残骸にもね、ちゃんと名前があるの」
隣の部屋からの声。足音がこちらに戻ってくる。ようやく書く気になったか。もしかしたら、部屋を出たのは単にボールペンか印鑑を取りに行くためだったのかもしれない。
「……あれ」
でも、君の手に握られていたのは、そのどちらでもなかった。
「きっと、愛から恋を引いたら、」
ああ、隣の部屋って、台所だったじゃないか。
「殺意になるの」
【秋の訪れを何で知る?】
秋の訪れを、君の表情で知る。
「ご機嫌だね。昨日の晩ごはんはサンマの塩焼きか栗ごはんってところかな」
「残念、松茸ごはんでした」
「松茸かー」
この季節は、紅葉が色づくように君の頬が幸福の色に染まるので、僕はそれを見て、ああ今年も秋が来たのかと思う。
「でも君の話を聞いて完全にその口になったので、今夜はサンマをおかずに栗ごはんを食べます」
「幸せそうでなにより」
幸せを探すのが得意な君は、きっとどんなに小さい秋も見つけ出してしまうのだろう。
「あっ、さすがに食べ過ぎかなあ。最近目に見えて体重が増えて、秋の訪れを感じていたところなのに」
「君は体重の増加で秋の訪れを知るんだ」
「うん。君は?」
「……秘密」
【コーヒーが冷めないうちに、一息に】
「結婚してください」
僕が言っても、君はすました表情を崩さない。なんにも気にしてないみたいな顔で、コーヒーカップをソーサーから持ち上げる。
「熱っ!?!?!?」
だけどその実、自分が猫舌なことも忘れるくらいパニックになっていること、付き合いの長い僕は知っている。
「大好きです、僕と結婚してください」
コーヒーが冷めないうちに、もう一度言う。だってこのコーヒーが冷めたら、君の口はカップで塞がってしまう。そうして照れ屋な君は返事を誤魔化してしまう。
「……コーヒー、飲まないの? 冷めちゃうよ」
話を逸らそうとする君。
「君の返事を聞いたらね」
だってコーヒーを飲んだら、沈黙が埋まってしまう。君が口を開くまで、何も口にせず待っててあげる。
君と違って、僕は熱々のコーヒーが好きだから。コーヒーが冷めないうちに、どうか返事を聞かせて。
【空白なんて、どこにも】
「授業中、ずっと君のこと考えてた」
……こんな言葉に一喜一憂してはいけない。
「授業で一番楽しい時間は演習問題を解いてる時だ。問題のことを考えてれば、頭の中が空白にならずにすむ。先生の話は退屈で、あんな時間が五十分も続けば私の頭は空白で満たされてしまって、それは、私にとってすごく怖いことだ。頭を空っぽにしておきたくないんだ、私は」
隙間なく、ぎゅっと詰まった言葉。
「……そっか、うん…………」
言葉ひとつ探すのに全力の僕には、縁遠い状態。
「だから、君のことを考えている時間は楽だ。少なくとも空っぽにはならない」
喜んではいけない。僕は所詮、君の空白を埋める梱包材。誰でもいい役割。それがたまたま僕だった、だけ。
「……だから、君がいてくれてよかった」
こんな言葉ひとつで、僕の脳内は僅かな空白も残さず君で満たされる。
【好きのフィルターだけを残して】
好きのフィルターを通して見る君は、あまりに綺麗だ。
そういえば、僕が恋におちたのは、君の笑顔を初めて見たときだった。
君の笑顔を好きになったから、笑顔じゃない君も好きになった。今でもそうだ。笑っていても困っていても憂いていても、君は誰より美しい。
……こんな気持ちにさせるくらいなら、別れるときにフィルターごと持っていってくれればよかったのに。