「へえ、クリスタルの石言葉は『純粋』『無垢』『完全』か」
君が、僕があげたクリスタルの箱に付いてきた説明書きを読みながらそう呟いた。
【不純不完全クリスタル】
「『純粋』で『無垢』であることが、『完全』であるための条件なのかな」
「うーん……」
君の言葉に、どうだろうと首を捻る。そもそも、宝石にも花言葉みたいな概念があることを今初めて知った。それに……。
「それだと、純粋さを失った瞬間に完全ではなくなるってことにならない?」
「違うの? 純粋無垢って完全のパーツだと思ってた」
「えー」
あまりピンとこない。僕個人が純粋さをさして重視していないせいだろうか。
「……私は、私が純粋で――完全でいられないことに、かなり負い目を感じているよ」
「うーん……」
君の手からクリスタルの説明書を取り上げて、頭の中で説明を構築しながら少しずつ喋る。
「僕が君に買ったのは、クラッククリスタルってものでね」
説明書の該当の部分を示しながら、続ける。
「ほら、クリスタルの内部のここ、割れてるでしょ」
「うん」
「これは人工的にわざと付けられたもので、光が当たると……ほら」
鏡のようになったクラックの断面が、電灯の明かりを強く跳ね返す。
「綺麗……」
「でしょ?」
うっとり目を細める君に、僕は微笑みかける。
「だから、傷ついて完全じゃなくなっても、きっと大丈夫だよ」
励ましたつもりなのだが、君はなぜか難しい顔をしている。
「……でも、傷があったら、そこから割れやすいんじゃない?」
「うぐ……」
さすが君、いいところに気がつく。実際、この傷の部分からクリスタルが割れてしまったという話はそれなりに聞く。
どう返答したものかと言葉を詰まらせる僕に、君はくすくすと楽しそうな笑い声を浴びせてきた。子供のような純粋なものではなく、傷つきながらもここまで生きてきた大人の笑い方。
「だから、割れないように、大事にしてよね!」
畳に仰向けに寝転がる。ふわりと立ち上る藺草の匂いに、ああ、夏が来たと思った。
【夏の匂いは青空まで染み込んで】
「おーい、おきてるー?」
鍵のかかっていない玄関の扉を開ける音。母の実家、ド田舎、夏休みにだけ会える君。麦わら帽子。隙間なく編まれた植物の、ぎゅっとした匂い。
「ほら、虫取り行くよ!」
「めっちゃ家の中入ってくるじゃん」
腕を掴まれる。肌の白い君が全身に塗っている、日焼け止めの匂い。
「え、見て、めっちゃおっきいクワガタいる! やったー!」
「ちょ、近い……」
テンション高く僕の肩に手を掛ける、君の汗の匂い。
――祖父母が相次いで亡くなり、あの場所に行く機会がなくなってからも、ずっと忘れられない夏。きっと、あちこちにビーズのように散りばめられた夏の匂いが、きらきらと輝くせいだ。
一度だけ、大人になってから一人であの場所に訪れて、知った。君は、お見合いで知り合ったどこかの家のなんとかって人に嫁いだんだって。
夏の影を振り切るように、あの日々を彩る匂いから距離を取る。住んでるアパートの床は全部フローリングだし、冷房の効いた室内で生活することがほとんどだから、麦わら帽子も日焼け止めもいらない。君の体から発される匂いなんて、もはや僕には縁遠いものだ。
――それでも、どうしてもあの日々を忘れられないのは、きっとこの突き抜けるような青空の匂いのせいだ。
「みーつけたっ」
幼い頃、君はかくれんぼをするとき、決まってカーテンの裏に隠れていた。
「どうしていつもおなじところにかくれるの」
「えへへ」
と無邪気に笑い合った君は、今もカーテンの向こう側にいる。
【カーテンの向こう側】
「みーつけた」
と言って、あの頃みたいにカーテンをめくることができたら。伸ばした手は、透明な壁に阻まれる。
君の顔を見るにはカーテンが邪魔で、カーテンをどけるには窓ガラスが邪魔だ。
「ごめんね、今は、誰にも会いたくないの」
彼女が世界全部を拒絶するには、薄い布切れ一枚で十分だった。
こつこつと窓を叩く。カーテンは揺れもしない。君の気持ちは尊重したい。でもやっぱり、僕は君の顔が見たい。やつれていないかな。怪我してないかな。泣いていないかな。
「ねえ……」
君が世界からのシェルターにこんな薄い布切れを選んだのは、僕に見つけてほしいからじゃないの? 僕の自惚れだったのかな。風一つで舞い上がりそうなカーテンが、僕と君を永遠に隔てる。君の影がカーテンに映るほど近くにいるのに。
「……泣かないでよ」
ふわり。重機でも動かなそうだった障壁を、君は片手で払い除けた。室内の明かりが目に飛び込んできて、君が世界を照らす神様に見えた。
――思い出した。子供の頃、君がいつもカーテンの裏側に隠れてた理由。君を見つけられないと、僕が不安で泣いてしまうからだ。だから、僕が手を伸ばせば見つけられる場所に隠れていてくれたんだ。
君と僕を隔てる壁が柔らかいのは、全部僕のためだったのだ。
「みーつけたっ」
カーテンの向こうから、晴れ間が見える。
生命の根元的な安堵感を呼び起こすような、同時になにか、本能的な恐ろしさを掻き立てるような。君の瞳は、そんな深い深い青色をしていた。
【青く深く沈んでゆく】
「ねえおばあさん」
「誰がおばあさんだ」
「おばあさんのお目目は、どうしてそんなに綺麗なの?」
「……心が澄んでるからじゃない? 自分の彼女をいきなりおばあさん呼びする君と違って」
電灯の光を反射させて僕にぶつけるみたいに、君はその瞳を僕に向けた。
「おばあさんのお目目は、どうしてそんなにぱっちりしてるの?」
「昨日睫毛サロンに行ったから。気づくなんてやるじゃん」
さらりと長い君の睫毛は、世界一美しい青を飾る額縁にこれ以上なく相応しい。
「おばあさんのお目目は、どうしてそんなに深い青色をしているの?」
「目の話ばっかりだねさっきから!? 赤ずきんってそんな感じだったっけ!?」
「別に赤ずきんごっこはしてないよ」
「じゃあなおさらなんでおばあさんって呼ぶんだよ」
青色の瞳。君がまばたきをすると、一瞬世界に夜が訪れたと錯覚する。空と同じ色をしているから、こんなにも安心するのだろうか。
「ねえ、どうしてそんなに深い青色をしているの?」
「うーん……」
一歩。君が詰め寄るようにずいと僕に近づく。僕の視界を、青色で埋める勢いだ。
「海みたいでしょ」
僕が空と思っていたそれを、君は海と呼んだ。少し想定外で、返答が思い浮かばない。
「海の青に、君が浮かんでいる」
言葉通り瞳の中に僕の困惑顔を映し取って、言葉を継ぐ。
「たとえば、私の目に映る君が後ろ姿になっても。たとえば、その背中が離れていっても。私が君を見つめる限り、君の姿は私の海の中にある」
君の目に映る僕の像が、君のまばたきで閉じ込められるようだった。
「そして、君が私から離れれば離れるほど、君の虚像は私の目の奥深くに沈んでいく」
海の色。深海の青。遥か昔、僕らの祖先が生まれた、始まりの場所の色。だから、君の持つ青は安心するのかと思った。
……今の人間の科学力では完全に暴くことのできない未知の色だから、こんなに恐ろしいのかと思った。
「だからね、私の目が青いのは、君を沈めるためだよ」
ああ、狼なんかよりずっと、強欲じゃないか。
夏の気配は、白色をしていた。
それは照りつける太陽光の色であり、君が纏ったワンピースの色であり、僕の失恋の色だった。
【手繰り寄せたい夏の気配】
夏が来るな、と僕が何となく思うタイミングと、君が春服から夏服に衣替えをし、真っ白なワンピースをはためかせながら教室に入るタイミングは面白いほどに一致していた。教室にはまだ長袖に身を包んでいる人も少なくない中、ノースリーブのそれは妙に涼しげに映って、思わず
「夏ですもんね」
と声をかけてしまった。
「夏ですからね」
君は笑って言った。
涼しそうでいいな、と思ったのはその時が昼間だったからで、下校する時に偶然鉢合わせた彼女は、表情に出さないようにしていたが明らかに寒そうだった。まだ夏は気配だけで、彼女を助けられるほどしっかりこの世に根を張っていたわけではなかった。思わず
「夏前ですもんね」
と声をかけてしまった。
「夏前ですからね」
君は苦笑して言った。
「明日は、春用の服で来た方がいいかもですね」
翌日はさらに寒くなると天気予報で知っていたのでそう言ったが、
「でも、夏の気配はもう来ていますからね」
と、君はあっさりと返した。明日も同じような服装で来るな、と直感した僕は、お節介と思いつつも
「気配がするだけで、すぐに来てくれるわけじゃないからなあ」
と、さりげなく暖かい格好で来るよう誘導してみる。
「だからですよ」
君は笑って言った。
「夏の気配がしたら、思いっきり夏っぽい服を着て、夏っぽいものを食べて、夏っぽい曲を聴くんです。そうして、夏に『来ていいんだよ』って言ってあげるんです」
彼女は、夏を待っていた。僕が目を惹かれた装いは、夏を歓迎するためのものだった。
何となく。本当に何となくだけど、君が待っているのは夏だけではないのだな、と納得に近い思いがあった。「来ていいんだよ」という響きが、ただ季節に向けるにはあまりに優しすぎたせいか。白に映える薄紅色の頬が、恋する乙女じみていたせいか。
「……夏が、お好きなんですね」
それは想像にしか過ぎなかったので、確実にわかる事実だけを口にした。
「ええ。一年で、一番好き」
――それ以来、君に話しかけることはないまま学校を卒業し、僕らはそれぞれの進路に進んだ。僕は今でも、夏の気配が世界に忍び寄ると、あの白色を思い出す。そして、夏の訪れを歓迎するように麦茶をグラスに注いで一気飲みしてみたりする。