「今朝、玄関の扉を開けたらふわっと雨の香りが舞い込んできてさ。あ、知ってる? 雨が降ったときに地面から立ち上るあの香りは、ペトリコールって言うんだって」
「……」
「雨に濡れたアスファルトとか雫を支える若葉を見るよりも早く、僕はその匂いで『ああ、昨晩雨が降ったんだ』って悟った」
「……そんな話どうでもいいから、早く私の前から消えてくれない?」
「これは手厳しいね」
【雨の香り、涙の跡、服の下の火傷痕】
「どうして君は、僕にそんなひどいことを言うのかな」
「うるさい、どうでもいいでしょ」
「顔を見られたくないのかな。さっきから一度もこっちを向いてくれない」
「関係ないでしょ」
「関係ないといえばそうだ、これは今の状況とは全く関係ない独り言なんだけど」
「……『関係ないといえば』で話繋げようとする人、初めて見た」
「ユニークでしょ。僕、雨の香りって好きなんだ。世界が、冷たい雨に静かに耐えた証だから」
「だったら何」
「雨が降っている現場には、立ち会えなかったけど。せめて君が戦った証を、知りたい」
「何の話。私、別に……」
「火傷痕みたいに長く残るわけじゃない。乾いたら見えなくなってしまうインスタントな傷跡が消えてしまう前に、僕に見せてくれないかな」
「…………馬鹿」
「やっと、こっち向いてくれたね」
記憶の地図を辿るように、目を閉じて君との日々を思い返す。君と付き合い始めたあの日から始まって、現在地まででこぼこ道が続いている。そして、僕らの目の前の道は、行き止まり。
進むためには、通行止めになっていない右の道に行くしかない。だけどそれは、別れへと続く道。
【記憶の地図に載らない輝き】
「どうしてこうなっちゃったんだろうね、私たち」
君の笑顔は、他に適切な表情がわからないから仕方なくそうしている、というような収まりの悪さをどことなく感じさせた。
どうしてなのだろう。この道を閉ざしたのは僕たちではない。好きで行き止まりにたどり着いたわけではない。
だけど、行き止まりに続く道を選んできたのは、他でもない僕たちだ。
「選択肢一つ違っていたら、別の未来があったかな」
僕と同じようなことを考えている君は、きっとこれから、僕と同じように記憶の地図を見返して、僕と同じように「あのとき、ここで右に曲がっていればよかったんだ。馬鹿だなあ」と後出しで思うのだろう。
どうして、こんな別れへと続くだけの選択を繰り返してしまったのだろう。記憶の地図を見返してみても、どうしてこの道を選ぼうと思ったのかがよくわからない。地図で見る限り、僕らが選ばなかった道の方が広くて、歩きやすそうに見える。
……あ、思い出した。確か、僕たちはあのとき。
「綺麗な花が咲いてる方を選び続けて、取り返しのつかないことになっちゃったね」
そうなのだ。あるときは一面の向日葵畑。あるときは花壇のチューリップ。あるときは一輪のたんぽぽ。地図に載らない程度の「綺麗」を選び続けてここにいるんだ、僕たちは。
「……まだつくよ、取り返し」
思わず、僕は言っていた。
東京タワーでも、富士山でも、太陽の塔でもない。地図に載らない「綺麗」を共有できる相手って、すごく貴重だと思うから。行き止まりに当たったくらいで手を離してしまうなんて、やっぱり、嫌だ。
「道がなければ、切り拓けばいい。綺麗な花のある方へ、道なき道を進んで行こう」
「……馬鹿じゃないの。簡単に言っちゃってさあ」
別れの道は、都会への道だ。アスファルトで整備された平坦な道には、きっと花なんて一輪もない。
「地図に花のある場所は載ってないから、僕は君とそれを見つけたい。『こんなところに花畑あるんだね』って、地図に丸をつけようよ」
「きっと辛く厳しい旅になるよ」
「地図を見返しても花がある場所もわからない方が、ずっと辛いよ」
ひとまずは、行き止まりの向こうにちらりと見えるあの花を。ちゃんと近づいて、種類を確かめて、地図上に赤いペンで書き込んでみない?
付き合って一年の記念にプレゼントしようと、マグカップを一つ買った。
どうやら君も同じことを考えていたようで、テーブルの上にラッピングされたマグカップが二つ並んだ。
僕らは笑って、それを交換した。
【自己都合のマグカップ】
僕が買った飲み口の厚いマグカップでココアを飲む君が好きだった。両手でカップを包み込んで、その縁に小さな口をつける姿。その隣で、僕は君からもらったマグカップを片手で持ち、少し物足りない量のコーヒーを飲み干す。
幸福な時間だった。愛おしい時間だった。
今、この家にマグカップは一つしかない。
私は君の水分になりたいと、いつか君は言っていた。変なことを言うなあとあの時は聞き流したが、記念日にわざわざマグカップを買うあたり、僕も心のどこかで同じようなことを思っていたのかもしれない。
生きている限り喉は乾く。まして、思いっきり泣いた直後ならなおさら。
そのときに思い出してもらえるように、なんて無意識に考えていたのかもしれない。
あのときから、僕らは終わりに向かって歩いていたのかもしれない。
だってこの先も二人で生きていくつもりだったら、記念日のあの時、テーブルの上にマグカップは四つ並ぶべきだったのだ。
僕が君に買ったマグカップは小柄な君が扱いやすいようにもっと軽く、飲み口の薄いものであるべきだった。君が僕に買ったマグカップは僕が飲む量に合わせてもっと容量の多いものであるべきだった。
お互いに、相手に呪いを残すことしか――自分のことしか――考えていなかったのだ、結局。
僕ら二人、どっちにとっても使いやすいマグカップを二つ買って「これからもよろしくね」と言うだけで、回避できた程度の別れだったのではないか。
君と過ごした日々の残滓が両目から溢れて、だから僕は、今日も君からの呪いに手を付けるのだろう。
もしも君が天使だったら、君に追い付くために善行という善行を積むだろうな。
もしも君が死神だったら、僕の魂をあげるだろうな。
【ねえ、もしも君が……】
もしも君が蝶だったら、僕は君のためだけの花になりたいな。
もしも君が花だったら、僕は君を照らす一瞬の光になろうかな。
もしも君が泣いていたら、僕は黙って隣にいたい。
もしも君が困っていたら、僕は君の道具になろう。
もしも君が笑ってくれたら、僕は目をカメラにするつもりでその一瞬を焼き付けるよ。
もしも君が僕より先に死んだら、僕は残りの人生を人形として生きるだろうな。
もしも僕が君より先に死んだら、君の最期の瞬間に僕は寄り添えないってことになるから、それはすごく嫌だな。
もしも君と僕が同じタイミングで死んだら、「奇跡だね」ってあの世で笑い合いたい。
――もしも君が僕の恋人だったら、こんな他愛ない「もしも」を分かち合えたのだろうか。
「そう、それでさあ……あ」
休み時間、十分の刹那。友人との談笑に興じていた僕はしかし、彼らに「ごめん」と一声かけ、廊下へと駆け出した。
「あ、やっぱり君だった」
「待って、今足音だけで私だって判断して教室から出てきた?」
【僕だけが知る君だけのメロディ】
「だって君、足音わかりやすいじゃん。すごく独特のメロディを刻んでる」
「今までの人生で一度も言われたことないよ、それ」
なんてやり取りをそばで見ていた、恐らくは君の友人が「彼氏さん?」なんて笑い混じりに彼女に確認する。
「もぉー……。友達といるときは出てこないでよ、恥ずかしいじゃん」
「そんな思春期の娘みたいな態度を取られると、少し傷つくなあ。せっかく君の顔が見られる機会なんだから、教室くらい飛び出すでしょ」
「ぐぬぅ……。今度から君の教室の前だけ三三七拍子で歩こうかな」
「そんなリズミカルに歩いてる人がいたら、僕じゃなくても見に行くと思うけど」
斜め上の方法で問題の解決をはかろうとするところが可愛らしい。
「私、この子の足音なんて気にしたことないや。愛されてるんだね」
彼女の横にいた友人がそう言ってころころと笑う。鈴の音みたいに美しく響くそれはだけど、たぶん明日には忘れてしまうだろう音だ。
「私の足音を気にする奴がこの世に二人もいてたまるか。一人だって抱えきれないのに……」
君の言葉に、心の中で同意する。僕だけでいいのだ。君が奏でる旋律、その価値を知っているのは。