「どうしてこの世界は、こんなにも不公平なんだろう」
「雨の日に傘を忘れた程度で大げさな」
僕の真剣な呟きを、君はたやすく笑い飛ばした。
【どうしてこの世界は、僕にばかり】
「でも、僕が傘を忘れた日にピンポイントで雨が降ったんだよ」
「そういうこともあるでしょ」
「さっきはトラックが跳ねた水がかかったし」
「それは災難だったけど」
「おまけに電柱にぶつかるし」
「不公平とかかなあ、それ。ただの不注意じゃない?」
ほら、そうやって僕に苦笑いの表情を向けてくるのも、不公平だ!
「そんなこと言ったって、世界は変わってくれないよ」
「それでも嘆かずにいられないんだよ! どうしてこの世界は、僕にばかり幸せを集めてしまうんだ!」
「……?」
あ、今度はキョトン顔。不公平だ!
「……傘、忘れちゃったんだよね?」
「おかげで君と相合傘ができた」
「トラックに水をかけられたし」
「おかげで君の優しさに触れられた。『大丈夫?』なんて素敵な言葉までもらえた」
「電柱に頭を思いっきりぶつけてたけど……」
「おかげで君の笑顔を独り占めできた。ああ、思い返すほどに不公平だ! 世界よ、僕が何をしたって言うんだ!」
心から困惑した君の表情まで独り占めなんて、世界はどこまで不公平になれば気が済むのだろう。
「……この世界はって君は言うけど、君となら、どの世界でも楽しめそうな気がするよ」
もはや不公平を呪う気すら起こらないほどに柔らかい笑顔で君は言った。
「あの月さあ……」
月を仰ぎ見る君の横顔は、夜の冷気のせいか、少し頬が赤く色づいている。
「ちょうど手で掴みやすそうな欠け具合で、綺麗じゃない?」
僕も君と同じように夜空を降り仰いで、言った。
「君、体から何か分泌してたりする?」
「は???」
【君と歩いた道はどうしてこんなに綺麗なの?】
「なに、なんか表現気持ち悪っ! 分泌って言葉選びが絶妙に怖いよ……」
「いや、ほんとにそうとしか考えられないんだって」
「真面目な顔で言わないでよぉ……。っていうか、話変わりすぎじゃない? 私、ロマンチックな話してたんだけど。月が綺麗って言ったんだけど」
ちら、と何かをねだるような上目遣いが僕に向けられる。
「別に、話は変わってないよ。君の言う通り、確かに月は綺麗だ。僕はそれがおかしいと言いたいんだ」
「……?」
「月だけじゃない。君と歩いた道にはいつもたんぽぽが咲き誇って綿毛が飛び交ってるし、小鳥が楽しそうな歌声を高らかに響かせてるし、太陽や月の光の差し込み方すら、余さず美しい。これはもう、君の体から花を咲かせ鳥を喜ばせ、月や太陽の輝きを強くする物質でも出てないと説明がつかないよ」
何かを説明するときに長々と畳み掛けるように話してしまう僕の癖を、君は笑ったり嫌がったりしたことがない。驚いたように二、三度瞬きをしてから、君は言葉を探すようにおずおずと口を開いた。
「……君、そもそも花も鳥も月も、そんなに興味ないでしょ」
「え……?」
「私と一緒にいないとき、こうやって夜空を見上げたり、足元の花に目を向けたり、鳥や風の声に耳を傾けたこと、ある?」
「言われてみれば、ない、かも……?」
僕は無駄なことがあまり好きではない。好きではないというか、わざわざ無駄なことをしようという発想がない。だから君の言う通り、君がいないときにわざわざ世界の美しさに意識を向けようとは、あまり思わないかもしれない。
「つまり、月は最初から綺麗だった、ってこと……!?」
人生最大の衝撃かもしれない。そうか、月って綺麗なのか。月だけじゃない。花も、鳥の歌声や風のそよぐ音も全部綺麗だと知っているから、君はその美しさを、いつも僕に教えてくれていたのか。
隣を見ると、君も僕に負けず劣らず、衝撃を受けたというような表情をしていた。
「……君、文学にも興味なかったよね」
「え? まあ、あまり意味を見いだせないね」
「はあ……」
君が教えてくれた世界の分だけ、僕も美しいものを教え返せるだろうか。なんて、ふと思う。教わりっぱなしは性に合わないのだ。こう見えて、勉強(理数系に限る)は得意なんだ。
「今のため息、すごく澄んでいて、綺麗だった!」
「は!? ば、馬鹿じゃないの!?」
「あ、今の君の顔色。僕が今まで見た赤の中で、一番好きだな」
「なんなのもぉー……!」
君ほどに世界に興味を持つことはできないけれど、君の綺麗なところなら、君よりわかると思うから。
夢見る少女と、恋する少女の違いってなんだろう。
テレビの向こうに映る俳優にまるで夢でも見ているみたいなとろんとした目を向ける君の横顔を眺め、ふとそんなことを思った。
【夢見る少女のように見ないで】
「……君はさ、もしもその俳優さんと結婚できるってなったらどうするの?」
「なあに、急に。ずいぶん夢のある話題だね」
彼女にとってこれが「夢のある話題」にカテゴライズされるという当たり前の事実にすら妬いてしまう。それほど僕の度量は狭くて、情けないなあと時折思う。
「しないんじゃない? 多分だけど」
テレビから目を離さず、君はあっけらかんとそう言った。
「え? な、なんで? 君って結婚願望なかったっけ」
結構焦る。僕は割とあるんだけど。
「や、あるけど、この人とは別にいいかなって」
僕が知っている限り、この俳優は日本でトップレベルのイケメンで、彼女にとって一番好きな俳優だったはずだ。それがこうもあっさり……となると、どうしても期待に近い感情が沸き上がってしまう。
「それは、僕と結婚する予定だから他の男は眼中にないみたいな……?」
「んー、まあそれもなくはないけど」
「なくはないくらいの感じなんだ……」
「夢は、叶ったらそこで終わっちゃうじゃん。私はこの人にずっと夢を見ていたい。だから、結婚はしたくない」
「ずっと」という言葉の強い響きを、脳内で味わう。「ずっと」を求めてしまうその気持ちには、僕にも覚えがあった。
「僕とも……?」
「ん?」
「僕とも、結婚したらそこで終わっちゃうの?」
意図せず震えてしまった声の余韻を吹き飛ばすように、君の軽やかな笑い声が響いた。
「馬鹿だなあ」
と笑う彼女は、僕が画面の向こうの俳優に嫉妬していたためにこんな話題を持ち出したということに、今更気づいたらしかった。
「恋が叶ったら、愛になるんだよ」
てきぱきと化粧を済ませた君は、鞄を手に取り、財布と携帯が入っていることを確認してひとつ頷いた。やや不機嫌そうな足取りで玄関へと向かう。扉に手を掛けながらゆっくりとこちらを振り向き、
「さあ、行こっか」
と、さも当たり前のように君は言った。
【さあ行こう、いつも二人で】
「……えーと、行くって僕も?」
「他に誰がいるの?」
「誰もいないから困惑してるんだよ」
僕としては当然の疑問だったが、早く出掛けたいらしい君は少し苛立った様子だ。仕方がないので、状況を一から確認する。
「君は、ええと、今少し機嫌が悪いから、外に出て気持ちをリフレッシュしたいんだよね?」
「そう。行きつけのカフェが、最近新メニューを始めたの。ちょうどいい機会だから食べに行こうかと」
「それは素敵だね。……ところで、どうして君は、リフレッシュが必要なほど不機嫌になったんだっけ?」
「そりゃもちろん、君と喧嘩になっちゃったからだね。……ねえこの問答まだ続く? カフェに着いてからじゃ駄目?」
「自分で言ってておかしいと思わない?」
僕の問いかけを無視し、勝手に僕の鞄を持ってきた君は「ほらもう行こうよお」と頬を膨らませた。どうやらおかしいとは思わないらしい。
「……あのね、私は気持ちの切り替えが下手だからね、嫌なことがあった時は、とびきり嬉しいことで上書きしたいの」
「うん、だからお気に入りのカフェで、一番気になってるメニューを食べに行くんだよね?」
「…………そのとき、目の前に一番好きな人がいたら、この世の全部の不幸を塗り替えちゃうくらい、最高の時間になるでしょ?」
「はあ……」
本当は、君が出かける準備を始めた時点で、喧嘩がグダグダになることは予想していた。だって、僕が君の「行こう」を断れるはずがないじゃないか!
「さあ、さっさと行こう。もたもたしてたら売り切れちゃうよ」
扉の先に待つ最高を予感しながら、君の手を取った。
「一つ約束してほしいの」
なんて君が言うから何事かと身構えた。
「私とした約束は、絶対に守るって」
なんて、頓狂なことを言われた。
【世界とだって、約束だよ】
「……なんかそれ、『願い事を一つ言え』って言われて、『願い事を全部叶えて』ってお願いする人みたいだね」
「そうだよ。私は強欲なんだ」
「そんな堂々と……」
「ねえお願い、この一つだけ守ってくれればいいからさあ」
「実質的に無限個なんだよな……」
でも、なかなか可愛らしいことを言うなあとも思ってしまうのは、僕が彼女を好きすぎるせいかな。
「いいけど、代わりに僕とも一つだけ約束してよ」
「いいよ、なあに?」
「これからの日々、僕とたくさんの約束を紡いでほしい」
それは、僕と君がずっと約束を紡げるような関係でありますように、という願いに等しかった。君がその意図に気づいたかどうかは分からないが、
「当たり前でしょ。せっかく無限約束チケットを手に入れたんだから、たくさん使わなきゃ損だよ」
なんて、気の抜けるような答えが返ってきた。
「そんなサブスクみたいなノリなんだ……」
と脱力する僕の手を取った君は、自らの小指を僕のものと絡めた。
「じゃあ、お互いに約束だね。指切りげんまん、嘘ついたら……」
この世界に指はない。だから、世界は僕と君の未来を、永遠を約束してはくれない。
だからこそ君と、指を切る。君との約束は、そのまま世界への願いだった。