一つの傘の下で、男女二人の肩が並ぶ。僕はそれを後ろから見つめている。
その傘の中で、いったいどんなドラマが繰り広げられているのだろうか。
【傘の中の秘密は雨によってしか暴かれない】
雨が降る直前まで、あの二人は少し喧嘩をしていた。今の二人の背中からは、そんなことは微塵も感じられない。
雨が降らなければきっとずっと秘密のままだった、お互いへの思い、愛……。その温かさを思う。僕には縁遠い温もり。僕の手から離れてしまった温もり。
僕も行くか、と折り畳み傘を手に取る。そういえば、これを開くのは久しぶりだ。いつも、君の小さな傘に入れてもらっていたから。「忘れちゃったの? しょうがないなあ」なんて笑う君に甘えていたから。
……つまり、君と会わなくなってから初めての雨なのだ、と今更気づく。
傘の中で内緒話をするみたいに、ちょうど雨に掻き消されて傘の外に出ないような声で笑いあった日々が過去となったことを思い知る。
それを振り払うように、ばさり! と勢いよく傘を開いた。
「……雨?」
傘の下に一筋、雨が降った。……と、一瞬錯覚してしまった。その正体は短冊形に切られた白い紙切れで、どうやら閉じた傘の中に隠されていたらしいと気づく。地面に落ちたそれを拾う。
『愛していました』
濡れた地面に落ちたせいで、僅かに滲んだ文字。別れてから、もう一度触れたいと思い続けてきた君の筆跡。過去形に成り下がった気持ち。
傘を打つ雨の音だけが、過去に飛びたがる僕の心をかろうじて現在に繋ぎ止める。
「……ばかだなあ」
こんなところに隠したら、雨が降るまで気づけないじゃないか。晴れ間の裏側で何が起きているか、愚かな僕は考えもしなかった。温かく朗らかな君の笑顔が、傘を求めているだなんて想像もしなかった。
君がまだ隣にいた頃に、一度でも自分から傘を開いていたら。開くのが遅すぎた傘は、僕を濡らしてもくれない。
さらりと濡れた青葉。鏡のようになったアスファルト。柔らかい日の光が、世界全部を抱き締めるように優しく照らす。
僕はつくづく思う。雨上がりの光景って、長い雨を耐え抜いた褒美にしては、割に合わないよな。
【雨上がりの景色を紡いで】
「ほら、雨上がったよ」
「…………うん」
地面に染み入るような小さな声。君は、雨に濡れた肩をきゅっと抱くような姿勢を崩さずに、それだけ言った。
雨の中、下校中の彼女から傘を取り上げるなんて、あの子たちも酷いことを考えるものだ。僕が傘を持ってきていればもっとスマートに助けられたのだろうが、あいにくと準備が悪く、昇降口で共に晴れ間を待つことを提案するのが精一杯だった。
「……送っていくよ。家、どっち?」
「……」
申し訳なさそうに指さされた方向は僕の家とは逆だったが、感情を顔に出さないよう努める。もっとも、僕がどんな表情をしていようが俯いた君には関係なかっただろうが。
「……」
気のきいた会話なんてないまま、歩き出す。あの子たちは友達なの? ……訊けるわけがない。頼れる人はいるの? ……僕はどの立場だ。帰ったら何するの? ……白々しすぎるし、多分入浴だ。
「…………あ」
僕が感じている気まずさなどに一切囚われる様子もなく、君はふらりと道の脇に逸れる。洞窟の中で光を見つけたような、発見の驚き以上に希望に満ちた「あ」だった。
「どこ行くの」
と、僕が引き止めようとしたとき、彼女はその場でぺたんとしゃがんだ。ビー玉を見つめるカラスみたいな真ん丸な目が向けられた先には、
「たんぽぽ……?」
一輪。電柱の影に隠れるように咲くそれは、誰かに踏まれたのか茎が折れていた。雨の雫に濡れていたがそれ以上に泥で汚れていて、はっきり言ってみすぼらしい。
けれど何となく、このたんぽぽもいつか綿毛をつけて、いくつもの種を風に乗せるんだよな、と想像した。濁った雨水を吸い上げて、明日を生きていくんだよなと思った。黄色い花弁に乗った雫が、妙に強く日光を跳ね返すせいだろうか。
「…………頑張れ」
ぽつり。地面に落とすように、君はそれだけ呟いた。……ああ、そうか。
割に合うように、生きていくしかないのか。雨上がりの景色が、ちゃんと綺麗に輝くように。あの雨だってこのためにあったんだと、いつか胸を張って言えるように。今はただ、まっすぐ立つ。
「……君が一人になる時間がなくなれば、嫌なことをされずに済むかな?」
「? 」
「休み時間に君に話しかけてもいいかな? 明日も一緒に帰りたいって言ったら迷惑? ……噂になっちゃうかな」
「どうだろう。雨に濡れるよりは、いいのかな」
湿った君の髪が、日の光にゆるく縁取られる。
「僕は思うんだ。勝ち負けなんて下らないもの、気にする方が馬鹿だ」
「レースゲーム三連敗の言い訳はそれで終わり?」
君は、人生で一度も敗北なんて経験したことがないような透き通った瞳に僕を映した。
【勝ち負けなんてどうだって】
「違うよ、真剣に言っているんだ。世の中の人がみんな勝ち負けなんて気にしなければ戦争なんて馬鹿なことは起こらない」
「話が壮大になったね」
「勝ち負けの概念がなければ、負けることによって生じる全ての悲しみも生まれずに済むんだ」
「勝つことで生じる喜びも生まれないけどね」
「喜びはいいんだよ、別のことで補填できるから。例えば僕は君と出かけることができれば行き先はゲームセンターじゃなくて映画館でもよかったし、君にゲームで勝つ喜びなんて最初から求めていないんだ」
「そういえばこれ、負け惜しみだったね」
「だから違う!!!」
負けを繰り返した僕はもう君の顔もまともに見られない。恋愛は惚れた方が負け、なんて誰かが言うから。
「本当に勝ち負けが下らないと思うなら、素直に私が好きだって認めればいいのに」
「それも違う!!!」
本当、勝ち負けなんて君が勝ち誇るためだけにあるような厄介な概念、なくなればいいのに!
君に振られたらその瞬間、全部がリセットされればいいのに。
【終わるはずだった、まだ続く物語】
振られることそのものよりも、その後も僕の人生が続いていくことが耐えられない。ゲームだってそうだろう。勇者が敗北した後の、魔王に支配されていく世界なんて誰も見たくない。潔く『game over』とでも表示して、さっさと次の冒険を始めさせてくれりゃいいんだ。
「……それが、君が二日連続で告白してきた理由?」
君は心底鬱陶しそうに言った。
「変かな」
「とりあえず、君が振られたばかりだということを忘れた記憶喪失のヤバい奴ではなくて安心したよ。記憶喪失に強い医者ではなくて、精神障害に強い医者を紹介すれば良さそうだからね」
そういう皮肉っぽいところも僕が好きになった君の一部なので、思わずひゅうと歓声を上げた。「……そういうところが嫌いなんだけど」と苦言を呈されたので「直したら付き合ってくれる?」と返す。舌打ちされた。
「君、こういうのもストーカーだよ」
「でも、僕は君を害さないよ」
「どうだか。ゲームで負け続けた子供は、やがてゲーム機をぶん投げるだろうね」
「僕は冷静にゲーム機を置いて、机に怒りをぶつけるタイプだったよ」
「それもそれで怖いね」
でも、そのおかげか僕のゲーム機は友人のそれがぼろぼろになっていく隣で、ずっと新品同然の輝きを放っていた。自分で言うのもなんだが、僕の持ち物になれたゲーム機は幸運だったと思う。
「そもそも、ゲームに例えるなら負けた後にするべきはレベルアップでしょう。なんで同じレベルのまま同じ敵に挑んでるのよ」
「現実とゲームは違うんだよ」
「君が持ち出した例えでしょうが」
「ゲームと違って、僕のレベルアップには君が不可欠だからね。好感度を上げるために遊園地にデートしたり一緒に映画を見たり……。振ったばかりの相手とそんなこと、君もしたくないでしょ」
「……」
「え、してくれるの?」
「誰を振っても振られても、物語は続いていくものだからね」
「……つまり?」
「振られたらそれで全部終わりだからリセットしようだなんてつまらないこと、考えなくてもいいよってこと」
そういう、こちらに優しく手を差し伸べてくれるところ、僕が大好きな君の一部だ!
「もちろん、君が諦める気がないならの話だけど」
「魔王討伐を諦める勇者がいるわけないでしょ。手始めに、今日は一緒に帰りませんか?」
「はいはい」
夕日が、明日も完璧なコンディションで僕らの前に顔を出すために、山の向こうへ隠れていく。
「渡り鳥はどうして渡ってくるの?」
と僕は訊く。
「生きるためだよ」
と君は答える。
【生きて生かして渡り鳥】
「道中で死んでしまう個体もいるのに?」
と僕は問いを重ねる。
「同じ地に留まって、凍え死ぬ個体もいるだろうね」
とあっさり返される。
「それなら、渡り鳥はどうして帰ってしまうの?」
と僕は訊く。
「生かすためだろうね」
と君は答える。
「生かすため?」
僕が訊いて、
「子供の餌となる虫なんかは、暖かい時期なら故郷の方が多いからね。そこで繁殖して、寒くなったら暖かい場所へ渡る」
君が解説する。
「……それなら、自分以外の命を生かそうなんて思わなければいいのに」
僕が呟く。
「……」
君が黙る。
「ずっと暖かいところにいればいいのに」
僕は苦しくなる。
「……」
君は笑っている。
「…………じゃあね」
君が渡っていく。故郷へ、子供の元へ、帰っていく。