「君のさらさらとした髪が嫌いだ」
とこぼせば
「珍しい価値観してるね」
と苦笑されてしまった。
【さらさらと流れゆく】
「こんなに美しい彼女を捕まえて、罰当たりだな君は」
質量のなさそうな髪に空気を含ませるみたいにふわりと掻き上げて、呆れたように君は言う。
「この髪で悩殺できない男なんていないと思ってた」
「いや悩殺はされてる」
「されてるんかい」
柔らかい風に緩やかに弄ばれて、君の髪は決まった形を持たないみたいに変幻自在に揺れ動く。僕はそれを見つめる。
手を伸ばす。僕の指は髪のどこにも引っ掛からず、あっさりと毛先まで滑り落ちていく。
「こうしてさらさらと、君の存在ごとどこかに流れていきそう」
形のない水は、岩に引っ掛かることなくさらさらと下流に落ちていくものだから。
「そうなったら、掬い上げてよ。掴むんじゃなくてさ」
一歩。君は笑って僕に近寄る。唇同士が触れ合うより先に、風に舞った君の髪がさらりと僕の首筋に触れる。それをそっと手で掬って、僕も笑った。
「私たち、いがみ合うのはこれで最後にしましょう」
君にそう言われて、ああやっと理解してくれたのか、と思った。
【喧嘩はこれで最後にしよう】
「そうだね。まあ僕にも悪いところがなかったとは言わないよ。ここで手打ちにして、またお互い仲良くやっていこう」
と、僕が差し出した右手を君は不思議そうに見つめる。
「どうしたの? 仲直りの握手だよ」
僕は少し苛立った。付き合い始めてから、喧嘩の絶えなかった僕ら。君は一度言い出したら聞かない性格で、僕が何を言っても自分の意見を曲げたがらなかった。
「いがみ合いは最後にしよう」なんて言うから、ようやく僕といがみ合うなんて不毛で、僕の言う通りにしていれば間違いないと気付いたんだと思った。それなのに。
「何を勘違いしているの? 私は、『いがみ合いをするような関係は、これで最後にしましょう』と言ったの」
毎日小さいことから大きいことまでいちいちいがみ合うこの関係の、最後。……それは。
「それはつまり、いがみ合う関係はやめて、仲良しのカップルになろうって意味だよね」
「……」
「…………まさか、最後って、全部終わらせようって意味じゃないよね?」
否定疑問文が、怯えの色を帯びて口から溢れる。君はゆっくりと顔を上げ、首をかしげ
「どっちだと思う?」
と、微笑んだ。
「……冗談はやめてくれよ」
と、怯えの色が抜けないままの声音で僕は言う。
「そう、冗談」
微笑みを崩さず、君は言う。「なんだ」と、恐怖が安堵で塗り替えられそうになった時、
「だって、どっちでも同じじゃない」
と、色のない声に貫かれた。
「君の言う『仲良しのカップル』って、私が自己主張せず、君の後ろを歩くことでしょう? そんなの、私と別れて人形と付き合うのと、何が違うの?」
君の目はまさしく人形のそれみたいに無機物的な光り方をしていて、ああ、本当にこれで最後なんだ、と思った。
『[環境音]心が落ち着く雨の音 ○月✕日公開』
さあ。イヤホンを刺した両耳から、雨音が流れ込んでくる。僕は思い出す。僕の人生の中で、一番優しい雨音のことを。
【世界で一番やさしい雨音】
「もう、でていくっ!」
そんなことを口走ったものの、五歳の僕に家から出ていくあてなんてあるはずもなかった。そのことは当時の僕も分かっていたが、それでも、引くに引けなかった。
「なんでそうなるのよぉ。普通に、私のプリン食べちゃったって白状すればいいのに」
「ぼくじゃないもんっ!」
……僕だった。姉の物かもしれないと思いはしたものの、目の前のプリンの誘惑に抗えなかったのだ。そんなことをしておきながら、姉の前で素直に罪を認めて謝る程度のこともできなかったのだから、我ながらなかなかろくでもない子供だったと思う。
「おねえちゃんがイジワルいうなら、もうでていくもんっ!」
「えぇー……。外は危ないよぉ。車だって通ってるし、悪い大人に捕まっちゃうかも」
「うっ……」
「それに、今日の晩ごはんはすき焼きにするって、お母さんが言ってたよ。家出したら、食べられなくなっちゃうねえ」
「うぐぅうううぅ!」
出ていく、という半ば衝動的に吐き出した気持ちはあっさりと翻って、むしろ出ていきたくないという気持ちが強くなった。
……けど、「やっぱりでていくのやめる!」なんてカッコ悪いこと、あの状況で言えるわけがなくて
「ほんとにでていくもんねっ!」
なんて正反対の言葉を口にして、僕は勝手に後悔していた。
「……そう。じゃあもう勝手にしな」
姉の言葉に絶望した。何だかんだ、止めてもらえるだなんて甘えたことを考えていたのだ。ついに、姉にも見放されてしまったのか……。部屋を出ていく彼女の背中を黙って見送るしかできなかった。
「う……」
ひとりぼっちになった部屋で、もう本当に出ていくしかないのか……とうちひしがれていた時だった。
――さああぁぁ。
「……?」
「わあっ大変、外、雨降ってるよ!」
部屋を出ていったばかりの姉が、慌てた様子で戻ってくる。
「これじゃ家出できないねぇ。ツイてないね」
姉の言葉に、僕は飛び付くように
「う、うんっ、そうだねっ! あーあ、ついてないなあ! でていきたかったのになあ!」
「雨じゃあ、仕方ないよねぇ」
「うん、シカタナイ」
さあ、さあぁ。世界全部を包み込むみたいな柔らかい音が、幼い僕を抱きしめるみたいに響きわたる。
「……プリン、かってにたべてごめんなさい」
安堵でほどけた心は、固く結ばれていたはずの口をもたやすく緩めた。驚くほどあっさりと、謝れた。こんなに簡単なことだったのか、と思った。
「んっ!」
姉の笑顔が、雨とは無縁の晴天みたいに明るく広がった。
■
ある程度大人になって、親にスマホを買い与えられた今の僕は知っている。
「イヤホンしてるの珍しいね。何聴いてんの?」
「世界で一番、優しい雨音」
あの日僕が聴いた雨音が、庭の土も、道路脇の草花も、世界中の何をも濡らさなかったことを。僕を引き留めるためだけに、鳴り響いた音であることを。
年の離れた姉は、確かあの頃には既にスマホを買い与えられていたはずだから。
「何それ」
そう言って笑う姉の顔は、やっぱり雨とは無縁だなと思う。
「ぷっりんぷりん~うれしいな~」
僕たちのすぐ横を、母親に手を引かれた子供が通り過ぎていく。
「あれは将来大物歌手になるぞぉ」
なんて軽率なことを言って笑う君は、まさにその「大物歌手」なのだった。
【歌の定義】
「歌っていうか……ただ嬉しい気持ちを口に出してただけって感じがするけどね」
確かにところどころ節がついてはいたが、多分本人も歌っているつもりはなかったんじゃないかと思う。
「ええ、でも、そしたらどこからが『歌』なの?」
「そういうのは、歌手の君の方が詳しいんじゃない?」
「知れば知るほどわかんなくなることって、あるじゃん」
「何それ、なぞなぞ?」
「なぞなぞではないよ」
ぴしりと突っ込みを入れてから、君は何かを思案する顔になる。
「私が思うに、この世に歌じゃない音なんてないんじゃないかな」
「……つまり?」
「風が木々を揺らす音も歌。幼い子供の足音も歌。君が私の耳元でささやく、『好きだよ』って言葉も、歌。私にとっての歌って、世界を輝かせてくれるものだから」
彼女らしい答えだなあ、と思う。素敵な答えだなあ、と思う。……受け入れがたいな、と、思う。
「……じゃあ、君が僕に言う『好きだよ』も歌なの?」
「そうだね」
「君の歌は、みんなのものなのに?」
大物歌手である彼女の歌を、世界中の人が求めている。君の表情や感情を独り占めできても、歌だけはそうできない。
「なあに、拗ねてるの?」
くすくす、歌うような響きで、君は笑う。
「知ってる? ラブソングって、世界中の人に聴かれて、愛されても、みんなのものにはならないんだよ」
君が、僕の耳に顔を寄せる。
「私の歌はみんなのものだけど、ラブソングだけは、君が独り占めしていいんだよ」
世界で一番美しいラブソングが、響く。
ぎゅう、と君に抱きすくめられる。誰よりも優しい君。誰よりも愛しい君。
――そんな君に抱きしめられるのが、僕は本当に嫌だった。
【棘ごとそっと包み込んで】
「なんで嫌そうな顔するの」
心を読んだみたいに、君は言う。
「……君が」
「ん?」
「君が僕にこうするのは、僕じゃなくて、世界のためじゃないか」
「どういうこと?」
僕のちょっと下で君の頭が動いて、首を傾げたのだとわかる。
「例えば、苦い薬をオブラートでそっと包み込むみたいに。例えば、飛び出た針金で怪我をしないよう、テープをぐるぐる巻くみたいに。君が僕にしているのは、つまりそういうことでしょ?」
オブラートで包んで飲めば、苦い薬は人間を害することができなくなる。棘だらけの僕を綿で包めば、僕は世界を傷つけることができなくなる。きっと、それだけなのだ。
「違うよ」
密着しすぎてわからない表情は、でも多分、笑っていた。
「棘が刺さって抜けなくなれば、君は私から逃げられないでしょう? 私は力が弱くて、そっと包み込むことはできても、放さないよう締め付けることはできないから」
……「本当に嫌」とまで思っておいて、君のことを力ずくで振り払えない自分に、今更気がついた。