夢見る少女と、恋する少女の違いってなんだろう。
テレビの向こうに映る俳優にまるで夢でも見ているみたいなとろんとした目を向ける君の横顔を眺め、ふとそんなことを思った。
【夢見る少女のように見ないで】
「……君はさ、もしもその俳優さんと結婚できるってなったらどうするの?」
「なあに、急に。ずいぶん夢のある話題だね」
彼女にとってこれが「夢のある話題」にカテゴライズされるという当たり前の事実にすら妬いてしまう。それほど僕の度量は狭くて、情けないなあと時折思う。
「しないんじゃない? 多分だけど」
テレビから目を離さず、君はあっけらかんとそう言った。
「え? な、なんで? 君って結婚願望なかったっけ」
結構焦る。僕は割とあるんだけど。
「や、あるけど、この人とは別にいいかなって」
僕が知っている限り、この俳優は日本でトップレベルのイケメンで、彼女にとって一番好きな俳優だったはずだ。それがこうもあっさり……となると、どうしても期待に近い感情が沸き上がってしまう。
「それは、僕と結婚する予定だから他の男は眼中にないみたいな……?」
「んー、まあそれもなくはないけど」
「なくはないくらいの感じなんだ……」
「夢は、叶ったらそこで終わっちゃうじゃん。私はこの人にずっと夢を見ていたい。だから、結婚はしたくない」
「ずっと」という言葉の強い響きを、脳内で味わう。「ずっと」を求めてしまうその気持ちには、僕にも覚えがあった。
「僕とも……?」
「ん?」
「僕とも、結婚したらそこで終わっちゃうの?」
意図せず震えてしまった声の余韻を吹き飛ばすように、君の軽やかな笑い声が響いた。
「馬鹿だなあ」
と笑う彼女は、僕が画面の向こうの俳優に嫉妬していたためにこんな話題を持ち出したということに、今更気づいたらしかった。
「恋が叶ったら、愛になるんだよ」
てきぱきと化粧を済ませた君は、鞄を手に取り、財布と携帯が入っていることを確認してひとつ頷いた。やや不機嫌そうな足取りで玄関へと向かう。扉に手を掛けながらゆっくりとこちらを振り向き、
「さあ、行こっか」
と、さも当たり前のように君は言った。
【さあ行こう、いつも二人で】
「……えーと、行くって僕も?」
「他に誰がいるの?」
「誰もいないから困惑してるんだよ」
僕としては当然の疑問だったが、早く出掛けたいらしい君は少し苛立った様子だ。仕方がないので、状況を一から確認する。
「君は、ええと、今少し機嫌が悪いから、外に出て気持ちをリフレッシュしたいんだよね?」
「そう。行きつけのカフェが、最近新メニューを始めたの。ちょうどいい機会だから食べに行こうかと」
「それは素敵だね。……ところで、どうして君は、リフレッシュが必要なほど不機嫌になったんだっけ?」
「そりゃもちろん、君と喧嘩になっちゃったからだね。……ねえこの問答まだ続く? カフェに着いてからじゃ駄目?」
「自分で言ってておかしいと思わない?」
僕の問いかけを無視し、勝手に僕の鞄を持ってきた君は「ほらもう行こうよお」と頬を膨らませた。どうやらおかしいとは思わないらしい。
「……あのね、私は気持ちの切り替えが下手だからね、嫌なことがあった時は、とびきり嬉しいことで上書きしたいの」
「うん、だからお気に入りのカフェで、一番気になってるメニューを食べに行くんだよね?」
「…………そのとき、目の前に一番好きな人がいたら、この世の全部の不幸を塗り替えちゃうくらい、最高の時間になるでしょ?」
「はあ……」
本当は、君が出かける準備を始めた時点で、喧嘩がグダグダになることは予想していた。だって、僕が君の「行こう」を断れるはずがないじゃないか!
「さあ、さっさと行こう。もたもたしてたら売り切れちゃうよ」
扉の先に待つ最高を予感しながら、君の手を取った。
「一つ約束してほしいの」
なんて君が言うから何事かと身構えた。
「私とした約束は、絶対に守るって」
なんて、頓狂なことを言われた。
【世界とだって、約束だよ】
「……なんかそれ、『願い事を一つ言え』って言われて、『願い事を全部叶えて』ってお願いする人みたいだね」
「そうだよ。私は強欲なんだ」
「そんな堂々と……」
「ねえお願い、この一つだけ守ってくれればいいからさあ」
「実質的に無限個なんだよな……」
でも、なかなか可愛らしいことを言うなあとも思ってしまうのは、僕が彼女を好きすぎるせいかな。
「いいけど、代わりに僕とも一つだけ約束してよ」
「いいよ、なあに?」
「これからの日々、僕とたくさんの約束を紡いでほしい」
それは、僕と君がずっと約束を紡げるような関係でありますように、という願いに等しかった。君がその意図に気づいたかどうかは分からないが、
「当たり前でしょ。せっかく無限約束チケットを手に入れたんだから、たくさん使わなきゃ損だよ」
なんて、気の抜けるような答えが返ってきた。
「そんなサブスクみたいなノリなんだ……」
と脱力する僕の手を取った君は、自らの小指を僕のものと絡めた。
「じゃあ、お互いに約束だね。指切りげんまん、嘘ついたら……」
この世界に指はない。だから、世界は僕と君の未来を、永遠を約束してはくれない。
だからこそ君と、指を切る。君との約束は、そのまま世界への願いだった。
一つの傘の下で、男女二人の肩が並ぶ。僕はそれを後ろから見つめている。
その傘の中で、いったいどんなドラマが繰り広げられているのだろうか。
【傘の中の秘密は雨によってしか暴かれない】
雨が降る直前まで、あの二人は少し喧嘩をしていた。今の二人の背中からは、そんなことは微塵も感じられない。
雨が降らなければきっとずっと秘密のままだった、お互いへの思い、愛……。その温かさを思う。僕には縁遠い温もり。僕の手から離れてしまった温もり。
僕も行くか、と折り畳み傘を手に取る。そういえば、これを開くのは久しぶりだ。いつも、君の小さな傘に入れてもらっていたから。「忘れちゃったの? しょうがないなあ」なんて笑う君に甘えていたから。
……つまり、君と会わなくなってから初めての雨なのだ、と今更気づく。
傘の中で内緒話をするみたいに、ちょうど雨に掻き消されて傘の外に出ないような声で笑いあった日々が過去となったことを思い知る。
それを振り払うように、ばさり! と勢いよく傘を開いた。
「……雨?」
傘の下に一筋、雨が降った。……と、一瞬錯覚してしまった。その正体は短冊形に切られた白い紙切れで、どうやら閉じた傘の中に隠されていたらしいと気づく。地面に落ちたそれを拾う。
『愛していました』
濡れた地面に落ちたせいで、僅かに滲んだ文字。別れてから、もう一度触れたいと思い続けてきた君の筆跡。過去形に成り下がった気持ち。
傘を打つ雨の音だけが、過去に飛びたがる僕の心をかろうじて現在に繋ぎ止める。
「……ばかだなあ」
こんなところに隠したら、雨が降るまで気づけないじゃないか。晴れ間の裏側で何が起きているか、愚かな僕は考えもしなかった。温かく朗らかな君の笑顔が、傘を求めているだなんて想像もしなかった。
君がまだ隣にいた頃に、一度でも自分から傘を開いていたら。開くのが遅すぎた傘は、僕を濡らしてもくれない。
さらりと濡れた青葉。鏡のようになったアスファルト。柔らかい日の光が、世界全部を抱き締めるように優しく照らす。
僕はつくづく思う。雨上がりの光景って、長い雨を耐え抜いた褒美にしては、割に合わないよな。
【雨上がりの景色を紡いで】
「ほら、雨上がったよ」
「…………うん」
地面に染み入るような小さな声。君は、雨に濡れた肩をきゅっと抱くような姿勢を崩さずに、それだけ言った。
雨の中、下校中の彼女から傘を取り上げるなんて、あの子たちも酷いことを考えるものだ。僕が傘を持ってきていればもっとスマートに助けられたのだろうが、あいにくと準備が悪く、昇降口で共に晴れ間を待つことを提案するのが精一杯だった。
「……送っていくよ。家、どっち?」
「……」
申し訳なさそうに指さされた方向は僕の家とは逆だったが、感情を顔に出さないよう努める。もっとも、僕がどんな表情をしていようが俯いた君には関係なかっただろうが。
「……」
気のきいた会話なんてないまま、歩き出す。あの子たちは友達なの? ……訊けるわけがない。頼れる人はいるの? ……僕はどの立場だ。帰ったら何するの? ……白々しすぎるし、多分入浴だ。
「…………あ」
僕が感じている気まずさなどに一切囚われる様子もなく、君はふらりと道の脇に逸れる。洞窟の中で光を見つけたような、発見の驚き以上に希望に満ちた「あ」だった。
「どこ行くの」
と、僕が引き止めようとしたとき、彼女はその場でぺたんとしゃがんだ。ビー玉を見つめるカラスみたいな真ん丸な目が向けられた先には、
「たんぽぽ……?」
一輪。電柱の影に隠れるように咲くそれは、誰かに踏まれたのか茎が折れていた。雨の雫に濡れていたがそれ以上に泥で汚れていて、はっきり言ってみすぼらしい。
けれど何となく、このたんぽぽもいつか綿毛をつけて、いくつもの種を風に乗せるんだよな、と想像した。濁った雨水を吸い上げて、明日を生きていくんだよなと思った。黄色い花弁に乗った雫が、妙に強く日光を跳ね返すせいだろうか。
「…………頑張れ」
ぽつり。地面に落とすように、君はそれだけ呟いた。……ああ、そうか。
割に合うように、生きていくしかないのか。雨上がりの景色が、ちゃんと綺麗に輝くように。あの雨だってこのためにあったんだと、いつか胸を張って言えるように。今はただ、まっすぐ立つ。
「……君が一人になる時間がなくなれば、嫌なことをされずに済むかな?」
「? 」
「休み時間に君に話しかけてもいいかな? 明日も一緒に帰りたいって言ったら迷惑? ……噂になっちゃうかな」
「どうだろう。雨に濡れるよりは、いいのかな」
湿った君の髪が、日の光にゆるく縁取られる。