『[環境音]心が落ち着く雨の音 ○月✕日公開』
さあ。イヤホンを刺した両耳から、雨音が流れ込んでくる。僕は思い出す。僕の人生の中で、一番優しい雨音のことを。
【世界で一番やさしい雨音】
「もう、でていくっ!」
そんなことを口走ったものの、五歳の僕に家から出ていくあてなんてあるはずもなかった。そのことは当時の僕も分かっていたが、それでも、引くに引けなかった。
「なんでそうなるのよぉ。普通に、私のプリン食べちゃったって白状すればいいのに」
「ぼくじゃないもんっ!」
……僕だった。姉の物かもしれないと思いはしたものの、目の前のプリンの誘惑に抗えなかったのだ。そんなことをしておきながら、姉の前で素直に罪を認めて謝る程度のこともできなかったのだから、我ながらなかなかろくでもない子供だったと思う。
「おねえちゃんがイジワルいうなら、もうでていくもんっ!」
「えぇー……。外は危ないよぉ。車だって通ってるし、悪い大人に捕まっちゃうかも」
「うっ……」
「それに、今日の晩ごはんはすき焼きにするって、お母さんが言ってたよ。家出したら、食べられなくなっちゃうねえ」
「うぐぅうううぅ!」
出ていく、という半ば衝動的に吐き出した気持ちはあっさりと翻って、むしろ出ていきたくないという気持ちが強くなった。
……けど、「やっぱりでていくのやめる!」なんてカッコ悪いこと、あの状況で言えるわけがなくて
「ほんとにでていくもんねっ!」
なんて正反対の言葉を口にして、僕は勝手に後悔していた。
「……そう。じゃあもう勝手にしな」
姉の言葉に絶望した。何だかんだ、止めてもらえるだなんて甘えたことを考えていたのだ。ついに、姉にも見放されてしまったのか……。部屋を出ていく彼女の背中を黙って見送るしかできなかった。
「う……」
ひとりぼっちになった部屋で、もう本当に出ていくしかないのか……とうちひしがれていた時だった。
――さああぁぁ。
「……?」
「わあっ大変、外、雨降ってるよ!」
部屋を出ていったばかりの姉が、慌てた様子で戻ってくる。
「これじゃ家出できないねぇ。ツイてないね」
姉の言葉に、僕は飛び付くように
「う、うんっ、そうだねっ! あーあ、ついてないなあ! でていきたかったのになあ!」
「雨じゃあ、仕方ないよねぇ」
「うん、シカタナイ」
さあ、さあぁ。世界全部を包み込むみたいな柔らかい音が、幼い僕を抱きしめるみたいに響きわたる。
「……プリン、かってにたべてごめんなさい」
安堵でほどけた心は、固く結ばれていたはずの口をもたやすく緩めた。驚くほどあっさりと、謝れた。こんなに簡単なことだったのか、と思った。
「んっ!」
姉の笑顔が、雨とは無縁の晴天みたいに明るく広がった。
■
ある程度大人になって、親にスマホを買い与えられた今の僕は知っている。
「イヤホンしてるの珍しいね。何聴いてんの?」
「世界で一番、優しい雨音」
あの日僕が聴いた雨音が、庭の土も、道路脇の草花も、世界中の何をも濡らさなかったことを。僕を引き留めるためだけに、鳴り響いた音であることを。
年の離れた姉は、確かあの頃には既にスマホを買い与えられていたはずだから。
「何それ」
そう言って笑う姉の顔は、やっぱり雨とは無縁だなと思う。
「ぷっりんぷりん~うれしいな~」
僕たちのすぐ横を、母親に手を引かれた子供が通り過ぎていく。
「あれは将来大物歌手になるぞぉ」
なんて軽率なことを言って笑う君は、まさにその「大物歌手」なのだった。
【歌の定義】
「歌っていうか……ただ嬉しい気持ちを口に出してただけって感じがするけどね」
確かにところどころ節がついてはいたが、多分本人も歌っているつもりはなかったんじゃないかと思う。
「ええ、でも、そしたらどこからが『歌』なの?」
「そういうのは、歌手の君の方が詳しいんじゃない?」
「知れば知るほどわかんなくなることって、あるじゃん」
「何それ、なぞなぞ?」
「なぞなぞではないよ」
ぴしりと突っ込みを入れてから、君は何かを思案する顔になる。
「私が思うに、この世に歌じゃない音なんてないんじゃないかな」
「……つまり?」
「風が木々を揺らす音も歌。幼い子供の足音も歌。君が私の耳元でささやく、『好きだよ』って言葉も、歌。私にとっての歌って、世界を輝かせてくれるものだから」
彼女らしい答えだなあ、と思う。素敵な答えだなあ、と思う。……受け入れがたいな、と、思う。
「……じゃあ、君が僕に言う『好きだよ』も歌なの?」
「そうだね」
「君の歌は、みんなのものなのに?」
大物歌手である彼女の歌を、世界中の人が求めている。君の表情や感情を独り占めできても、歌だけはそうできない。
「なあに、拗ねてるの?」
くすくす、歌うような響きで、君は笑う。
「知ってる? ラブソングって、世界中の人に聴かれて、愛されても、みんなのものにはならないんだよ」
君が、僕の耳に顔を寄せる。
「私の歌はみんなのものだけど、ラブソングだけは、君が独り占めしていいんだよ」
世界で一番美しいラブソングが、響く。
ぎゅう、と君に抱きすくめられる。誰よりも優しい君。誰よりも愛しい君。
――そんな君に抱きしめられるのが、僕は本当に嫌だった。
【棘ごとそっと包み込んで】
「なんで嫌そうな顔するの」
心を読んだみたいに、君は言う。
「……君が」
「ん?」
「君が僕にこうするのは、僕じゃなくて、世界のためじゃないか」
「どういうこと?」
僕のちょっと下で君の頭が動いて、首を傾げたのだとわかる。
「例えば、苦い薬をオブラートでそっと包み込むみたいに。例えば、飛び出た針金で怪我をしないよう、テープをぐるぐる巻くみたいに。君が僕にしているのは、つまりそういうことでしょ?」
オブラートで包んで飲めば、苦い薬は人間を害することができなくなる。棘だらけの僕を綿で包めば、僕は世界を傷つけることができなくなる。きっと、それだけなのだ。
「違うよ」
密着しすぎてわからない表情は、でも多分、笑っていた。
「棘が刺さって抜けなくなれば、君は私から逃げられないでしょう? 私は力が弱くて、そっと包み込むことはできても、放さないよう締め付けることはできないから」
……「本当に嫌」とまで思っておいて、君のことを力ずくで振り払えない自分に、今更気がついた。
「毎日、昨日と違う私になれたら、素敵だと思わない?」
「全く思わないな」
君の問いに、僕はそう即答した。
【昨日と違う私と、世界】
「なんでだよ、思えよぉ」
「そう思ってほしいなら、疑問文の形なんて取らずに『素敵だと思って』って頼んでくれればよかったのに」
「乙女心の分からん奴だなあ」
「悪かったね」
言いながら、コンビニのショーケースにあるプリンを一つ手に取った。
「変わんないより、変わる方が絶対いいでしょ」
「ええ、でも」
無駄に高級路線のプリンを、見つめる。
「変化って、大抵劣化のことじゃん」
『おいしくなって新登場! お子さまや女性の方でも食べやすい!』と銘打たれたそれは、手に馴染むのを通り越して物足りないようなサイズと重量感。
「でも、世界の経済って緩やかにインフレしていくものだって言うじゃん」
「はあ……?」
君個人の変わる変わらないの話に、なぜ世界の経済が巻き込まれるのか。と思ったが、一旦聞き手に徹することにした。
「今ら私は君にその二百円ちょっとのプリンを買ってあげるかどうかで悩んでいるわけだけど」
「そうなの? 別に買ってくれなくてもいいのに。見てただけだし」
「君が大人になったとき、君の周囲の人たちは君に二万円の時計を買ってあげるかどうかで悩んでいるかもしれない」
「ごめん、何その仮定」
「そのとき、私がまだ二百円のプリンを買う買わないで悩んでたら、そんなの勝ち目がないでしょ?」
「はあ……」
わかるような、わからないような。
「だから、私は私が君に対して抱いているこの愛を、緩やかにインフレさせていく必要があるわけ。アンダスタン?」
「アンダスタン、と言われても……。量だけ増えて、質が落ちるんじゃ意味ないんじゃない?」
かといって、量が減ったら寂しいし。我ながら、なかなか面倒くさいことを言ってるな。
「でも、変わるリスクを取らないと手に取ってすらもらえないかもだよ。『おいしくなりました!』って、『変わりました、だからこっちを見て!』って、ポップを貼って目立たせる理由になって、それで君に手に取ってもらえるなら、それでいいじゃん」
君は、僕の手からプリンをするりと奪い取った。
「そういうわけだから、これは私が買ってあげよう。意外と、本当にちゃんと『おいしくなって新登場』してるかもよ」
だから別にいいって、という言葉を飲み込む。ポップが貼ってないと手に取る気も起きないなら、それって、最初から好きじゃないじゃん。僕は、僕がいつも食べているメーカーのプリンなら、どんなに雑然としたショーケースからでも見つけ出せるのに。
どんな朝も平等に日は上る。夜の闇を振り払うため。
どんな朝にも平等に日は上る。草木の成長を促すため。
どんな朝にも平等に日は上る。雨に濡れた大地を乾かすため。
どんな朝にも平等に日は上る。君が好きだと言った花を見つけやすくするため。
どんな朝にも平等に日は上る。小鳥の鳴き声を世界に響かせるため。
どんな朝にも平等に日は上る。涙の跡を乾かすため。
どんな朝にも平等に日は上る。長く伸びる影が、昨日と違って一人分しかないことを浮き彫りにすふため。