テーマパークで、綺麗な水色の風船をもらった。最初は本当に嬉しくて、風船の紐をぎゅっと握って意気揚々と歩いていたのだけれど、ふとその風船と、その背景に広がる青空を見たとき、思った。
この風船が空に溶けて、僕の手元から失われてしまうんじゃないか……って。――子供の頃の思い出だ。
【空に溶ける色なんて】
「ねえ見て、この服、色味が気に入って買っちゃった」
水色の服を着る君が嫌いだ。昼下がりの青空に溶けてしまいそうだから。
「普段あんまり選ばないデザインなんだけど、似合う?」
橙色の服を着る君が嫌いだ。黄昏時の夕焼けに溶けてしまいそうだから。
「どう? ちょっと地味すぎるかなあ……」
黒い服を着る君が嫌いだ。真夜中の暗闇に溶けてしまいそうだから。
「可愛いでしょ、この服」
黄色い服を着る君は……黄色い空はないから、大丈夫か……? でも、それならどうして、心が不安でざわつくんだろう。
「あ、見て!」
君が指差す先は、空。僕の怯えも知らずに、と理不尽な怒りと共に見上げた先には
「虹……」
「綺麗でしょ」
なぜか得意気な君の声が、隣から響く。
「あ、見て、あの色! 虹の黄色い部分! 私が今着てる服とおんなじ色じゃない?」
言われて、ようやく気づいた。ああ、空の上には、全部の色があるのか。君が溶けてしまわない色なんて、ないのか。
「わ、急に何するの」
手を繋ごう、と思った。風船の紐を握れば飛んでいかないように、そうしていれば、君が空に溶けずに済む。と、信じたい。
「……もぉ~、君はいつも行動が急なんだよ」
君の頬は朝焼けに溶けてしまいそうな桃色に染まっていたけど、もう嫌いだとは思わなかった。
「どうしても、私と付き合ってほしいです!」
と君が懇願するので、僕は君と付き合うことにした。
【どうしても、「どうしても……」には抗えない】
「どうしても、私の作ったお弁当を食べてほしいの!」
と君が懇願するので、僕は購買でパンを買うのをやめた。
「どうしても、一緒に帰りたいの!」
と君が懇願するので、僕はレギュラーになれそうだった部活をやめた。
「どうしても、この鞄がほしいの!」
と君が懇願するので、僕はアルバイトを始めた。
君の「どうしても……」は、僕が全部叶えてあげたかった。だから、
「どうしても、私と別れてほしいの」
という君の言葉に、どうしても抗うことができなかった。
「待って!」
と、僕は君に向かって手を伸ばす。君は振り向きもせず、川の水に足を浸した。
【取り返しがつかなくなるまでまっていて】
「ねえお願い待って、行かないで!」
僕はなおも懇願する。いまいち深さの分かりにくい川。君はもう川の中腹まで進んでいて、膝下まで水に埋まっていた。
「そっちに行っちゃダメだ!」
正直なところ、どうしてダメだと思ったのか、僕自身にもわからない。川で隔てられた両岸がそれぞれどこに繋がっているのか、僕には分からない。だけど、ダメだ、と明確に思った。
「……」
「ねえ、一人にしないでよっ……!」
君が止まってくれそうもないので、僕は覚悟を決めて、川の水に足を突っ込んだ。君のもとまで駆け寄ろうとして……
「は……!?」
ずぶり、とその体は大きく沈んだ。おかしい。だって、そんなに深いはずがないじゃないか。せいぜい、君の膝下までが水に浸かる程度だったじゃないか。
どこまでも深く、奥底まで沈んでいきそうになるのに、必死でもがいて抗う。遠く、あと一歩で向こう岸まで届きそうというところにいる君が、こちらを振り返った。
「いい加減にして」
「……」
「勝手にここまで連れてきたのは、君でしょ? 一人にしないでほしいなんて、勝手すぎる」
「…………」
「私は、帰るから」
何か、言い返そうとした。たぶん、「まって」と言いたかった。だけど、そうしようと開いた僕の口に濁った川の水が流れ込んで、ゴポッと情けない音になっただけだった。
―――
――
―
『続いてのニュースです。○○県××市のアパートで、男女が意識不明の状態で発見されました。二人は病院に搬送されましたが、このうち男性の方はまもなく死亡しました。二人は練炭を用いて心中をはかったと見られ……
……続報が入りました。先ほどお伝えした、病院に搬送された女性が意識を取り戻しました。警察は、彼女の容態を見ながら事情聴取を進めていく方針で……』
「あ、これ、彼女に買っていったら喜ぶかな」
と、ゴマ豆乳プリンのカップを手に取った直後に思い出す。……もう、そんなことをする必要もないのか。
【まだ知らない世界に、一人】
もう、好きでもないプリンをわざわざ買って帰る必要はないし、知らないアニメとのコラボ商品をわざわざ選ぶ必要もなければ、タバコを買うときに『不健康だ』と怒る君の顔を思い浮かべる必要もないのだ。
それは、君と出会う前の僕と全く同じ状態に戻っただけのはずで、だから世界が変わったなんて言ったら大袈裟になってしまうのだろう。……けれど驚くべきことに、昨日から、僕は僕の知らない世界に迷い込んでしまったみたいだ。
そんな冒険、僕は求めていなかったのに。こんな景色を見たいだなんて、いったい誰が願ったというのだろうか。
「……ゴマ豆乳プリンって、どんな味がするんだろう」
一面見知らぬ景色の中で、少しでも見たいと思える世界を必死で探す。きっと君ならよく知っているだろう景色。僕がもっと早くそれを知っていたなら、こんな見知らぬ世界に迷い込むこともなかったのだろうか。……なんて。
「手放す勇気も大切だよ」
と、僕はあえてなんでもないことのように、軽々しく言った。
「一人の人が抱えられるものの量は、決まってるから」
「そう、だけど……」
「だからさ、もう……」
「いやだ!」
「この辺の洋服は手放そうよ」
「嫌だあああ!」
【引っ越しに手放す勇気は不可欠】
「いや、でも君、どんどん新しい服買ってくじゃん。この辺のやつとか、最近着てるとこ見たことないよ僕」
「そうだけどぉ……」
「全部捨てろとは言わないけど、新居に持ってくやつは厳選しなよ。段ボールが余分に二つくらい増えちゃうよ、このままだと」
「厳選してこれなの!」
「厳選してこれかあ……」
君が物を捨てられないタイプなのは知っていたが、ここまでひどいともはや呆れを通り越して尊敬の念すら湧いてくる。
「ほら、これとこれとかほぼ同じじゃん。どっちか片方は捨てれば……」
「全然違うよ!」
何が違うというのか、僕にはさっぱりわからない。
「こっちは君が可愛いって褒めてくれた方で、こっちは君が綺麗だねって喜んでくれた方」
「……え、そうだっけ」
「君、女の子の洋服のことなんて全然わからないくせにいつも私のために言葉を尽くしてくれるから、そのせいで捨てられなくなっちゃってるんだよ」
「……」
……そんな風に僕のせいにするのは、さすがに卑怯じゃないか?
「だからさあ、この子たちも新居に連れていかせてよお……。他の物でよければなんでも……できるだけ減らすからさあ……」
「……それでも、手放す勇気は大切なんだよ」
「そんな殺生な!」
「だから、僕もお金を手放す勇気を持つべきだね」
「……!」
「ま、まあ、段ボールがちょっと増えるくらい、引っ越し料金全体からしたら誤差みたいなもんだし、業者を選べばそこまでの金額にはならないと思うし、僕も新居に持っていきたいものあったし、別に君のためじゃないっていうか……」
「じゃあ、前に君がすごいセンスだねって褒めてくれた、私より大きいチョウチンアンコウのぬいぐるみも持っていっていい?」
「それは置いてって」