終電を逃してしまったので、君の部屋に泊まることになった。
「……僕は床で寝るよ。この部屋、使って大丈夫?」
「え、でも、私今光るパジャマ着てるよ?」
「は?」
【光輝け、暗闇でこそ】
「えーっと……話の繋がりが見えないんだけど」
「だから、私のパジャマが光るところ、見たくないの?」
「えぇっと……」
見たい見たくないで言えば、いい年した大人のパジャマが光輝く様はだいぶ見てみたい。
「……遠慮しときます」
が、そこは理性で踏みとどまった。彼女の部屋に足を踏み入れたときは、まさかこんな理由でどぎまぎする羽目になるとは思っても見なかった。
「えっでも、結構がっつり光るよこれ。見たくないの?」
「この状況で光の強さはあんまりアピールポイントにならないかな……」
「ほら、この、目のところだけがらんらんと光るんだよ!」
「なんでそんな不気味なデザインにしたのかだいぶ気になるけど、遠慮しとく」
追加のアピールもかわしつづけていると、彼女はややムキになった表情で
「間接照明代わりにもなるよっ!」
などと、頓珍漢なことを言う。
「……えーっと、だから?」
「あっ、あれっ? その、真っ暗だと、やりづらいのかと思って……」
「…………何が?」
「……」
「やっぱり、そういうことをする目的で僕を寝室に連れ込もうとしてるだろ君! だから行きたくないんだよ! 僕はここの床で寝るから!」
「えー、意気地無し」
「あと、光るパジャマは間接照明代わりにはならない!」
「じゃあ、今度二人で買いに行く?」
「もうそれでいいから僕の腕を引っ張って寝室に行こうとするの止めてもらえる!?」
「え、でも、まだパジャマが光るとこ見せてないし」
「もうそれはいいから!」
「映画とかでさ、宇宙船の中で『争い合うのはやめろ、酸素の無駄だ』みたいに窘めるシーンあるじゃん」
「ああ、あるね」
「あれ、私たちの場合だと『惚気合うのはやめろ、酸素の無駄だ』になるのかなあ?」
「君は何を言っているの?」
「なると思う?」
「……ならないんじゃない? 僕らなら、目線だけで会話できるし」
「それもそっか」
「君の記憶の海の一番深いところには、なにがあるの?」
と、君は陽光を跳ね返す水面のような瞳を僕に向けて、言った。
【記憶の海底】
「……何、急に」
「私のはね、小さい頃に家族と遊園地に行った思い出とか、初めて一人で作ったクレープの味とか、親友と誕生日プレゼントを贈りあった記憶とか、そういう綺麗なものがいーっぱい、サンゴ礁みたいにキラキラしてるの」
「…………それは、何より」
と言うより他に、どう返答すればいいのかわからない。
「……そういえば、君から過去の話ってあんまり聞かないなーって、ふっと思って」
「ああ……」
「ね、君の記憶の海底には、なにがあるの?」
宝箱の中を覗き込むような、きらめく瞳。……そんな目で見ないでほしい、と思う。
「……海底って、シーラカンスとかダイオウグソクムシとか、結構グロい見た目の生き物も多いって言うよね」
「ちょっと、なんでこの話の流れで言うの」
「日の光が届かない場所だから、人目に晒せないような生き物たちが集まるのかも」
「わ、私の記憶の海は、そういう生き物がいるタイプの海じゃないから!」
「なんだそりゃ」
……でも、海底って本来、そういう場所じゃないか。日の光も、人目も届かない場所。ダイオウグソクムシのような、いわゆるキモい見た目をした生き物だって、安心して過ごせる場所。
僕の記憶の海底は多分、生まれた時の記憶で満たされているのだろう。そして、僕が生まれた時というのはつまり、君に出会った時ということだ。光を通さないほど暗くて、グロくて、キモい記憶。とても人様には見せられない、情けないほど醜い記憶。
「私の海は、海底までキラキラしてるタイプの海だから! サンゴ礁とか……あと、サンゴ礁とかがある系の海だから!」
「イメージあっさ」
「うるさいなあ」
透明な水でも、注ぎ続ければ割となんだって隠せるのだ。太陽を受ければ光ったりもする。だから、潜って探査しようだなんて、思わなくてもいいじゃないか。足が浸る程度の浅瀬で、こうしてずっとじゃれ合っていようよ。
「ただ君だけがいてくれればいいよ、私の人生」
これ以上に胡散臭いセリフが、他にあるだろうか。
【ただ君だけがいれば】
「本当?」
と、当然の流れとして疑いの目を向ける僕に、君は心外だとばかりに頬を膨らませる。
「本当だよ。君さえいてくれれば私は電車で毎回席に座れなくてもいいし、一生四つ葉のクローバーが見つけられなくてもいいし、食後のデザートだって食べられなくていい」
「小さいなあ影響が」
絶対そんなスケールの話じゃないだろ。
「『君だけでいい』って言ったら普通、食事も水も酸素も、命すらもいらないって状態を想像しない?」
「でも、君は私にそんな思いをさせないでしょう?」
「まあそうだけどさあ……」
君の食事や水がなければ僕のを分けてあげたいし、宇宙空間で君の酸素がなくなったら迷わず僕の酸素ボンベを渡すし、君の命が危なければ、僕が命をなげうってでもその危機を遠ざけるけどさ。
「ね、わかったでしょ? 私は君がいる限り生きていけるから、君だけがいればいいの」
「なんか、ズルくない……? 結局それ、僕に甘えてるだけっていうかさあ……」
「そうだよ? だから、君さえいれば、私には甘える相手も担保されるってことだ」
「ううん……」
納得いかないけどもはや返す言葉もないという、いっそスカッと論破された方がマシという心境で唸る僕に、ふいに表情を引き締めた君が
「だから、いなくならないでね」
と、言い放った。
「たとえ私のためでも、君がいなくなったら、私は食事も水も酸素も命も失うのと同じことなんだから」
僕の食事で水で酸素で命の君は、僕の手を優しく握って言った。
ゆっくり、ゆっくり未来へと向かっていく船に、君と乗っている。
【未来への船と共に】
航海は順調。障害物ひとつない海の遥か前方に見えるあの小さな島に着いたら、そこで君と二人だけの楽園を築こう。
上半身は人間で、下半身は魚。普通の世界では生きられない君と、僕は人生を共にしよう。
がたん、と甲板が揺れた。何事か、と辺りを見回す。波が、明らかに荒立っている。見上げた空は、不安になるほどに真っ暗。
「まずい! 手すりに掴まって!」
僕は君に向かって、叫ぶ。これはまずい。最悪だ。僕らがいる場所はちょうど海の真ん中で、船を降りて避難できそうな場所なんてどこにもなかった。慌てて船の帆をしまうが、小さな船は風の煽りを受けて落ち着きなく揺れ動く。
「どうしよう……」
どうしよう、どうしよう! ろくな動力を積んでいないこの船では、海全体の大きな流れには逆らえない。このままだと、僕と君は船もろとも海の藻屑だ。しかし安定しない足場では思考もろくにまとまらない。どうしようもないのか……。
――ぽちゃん。
音がした。雨と風が奏でる轟音の隙間を縫うようにして、それは確かに僕の耳に届いた。足元がふらつく中、どうにか音のした方へ向かう。
「……あ」
手すりから身を乗り出して見下ろした荒れ狂う海は空の色を写し取ったようなどぶ色で、そんな無彩色の中にぽつんと、見知った色彩があった。荒れ狂う波を掻き分けて進む、美しい尾鰭。上半身は、人間。
……ああ、この船と運命を共にするのは、僕だけなのか。
そういえば、彼女は有名な童話と違い人間の足を持っていなかったのに、一度も僕の前で声を発さなかったな。なんて、今さら気づいた。