拝啓、静かなる森へ。僕はあなたのことが大嫌いです。
【拝啓、静かなる森へ】
「あっ、やっぱりここにいた! 絶対君の足音だと思ったんだ!」
「なんで足音だけで分かるの、怖……」
静かな森って嫌いだ。僕の足音が、君にはっきり聞こえてしまう。
「ねえ、君最近私のこと避けてるでしょ!」
「……別に」
静かな森って嫌いだ。僕の言葉の棘が、君にそのまま届いてしまう。
「……そっか」
静かな森って嫌いだ。君の先細りしていく声が、付け足すように、絞り出すように放たれた「ごめんね」まで、しっかり僕に伝わってしまう。
「……っ、待って!」
「……?」
「ごめん、その……。友達に、からかわれちゃって。恥ずかしく、なってた」
静かな森って嫌いだ。僕の情けない声の震えまで、きっと君は聞き取ってしまう。
「……だってあいつの言う通り、僕は、君のことが好きだから」
静かな森って嫌いだ。僕の心臓の跳ねる音まで、君にはっきり聞こえてしまう。
ファンファーレみたいに、小鳥のさえずりが響いて、でも森はすぐに元の静かな森に戻った。
「はーい、今書いてる絵は今月末までに仕上げてくださーい。終わらない人は宿題にしますからねー」
先生がぱんと手を叩き、言う。僕の筆は動かない。授業が始まったときからずっと、動いていない。
美術の課題。テーマは、「夢」。
【秘めたる夢を描け】
「ちょっとちょっと、画用紙真っ白じゃん。そんな調子で終わるの?」
「そう言う君は順調そうだね……」
隣の席から、君が僕の画用紙を覗き込む。僕も仕返しとばかり、君の画用紙を覗き込んだ。そこには……なんかこう、黒い……なんだろう、とにかく画用紙は埋まっていた。美術の授業で彼女の筆が僕より早く進むのは、珍しいことだ。
「何を描くか決まらないの?」
「んー、まあ……」
「将来の夢とか、ないの?」
「んー……」
ないことはない。というか、ある。
「あるなら、普通にそれを描けばいいじゃん」
「いや……」
「描くのが難しいものなの?」
「まあ……」
歯切れ悪く、君の質問に答える。
「君の画力で描けないものなんてあるの?」
「画力の問題じゃなくて……」
「どういうこと?」
もごついている僕についに痺れを切らしたのか、君がやや不機嫌そうに眉根を寄せる。観念して、僕は白状した。
「君の……旦那さん」
「……」
「さすがに、描けないでしょ……?」
交際を隠しているから、いや隠していなかったとしても、そんな大胆な真似はできない。描いた絵は廊下にでも貼り出されるのだろうし、場合によっては来校した父母も目にする。
「……どういうこと? 私の顔って、そんなに複雑?」
「…………へ?」
「あ、それとも、どれだけ画力があっても私の美しさは再現できないみたいな話? 君が私のことを大好きなのは知ってるけど、さすがにそれは買いかぶりすぎだよ」
「いや、えっと……」
「というか、それなら私と夢同じじゃん。私にも描けるんだから君も大丈夫だよ」
君が何を言っているのか僕にはいまいちわからなかったが、君が僕と同じ未来を思い描いてくれていることと、君と僕が並んでいるところを画用紙に描き出していることは理解できた。……というか、今判明した。
「……君は、その絵がきっかけで僕らの関係がバレてもいいの?」
「うーん……というか、バレても問題ない、むしろ一緒にいるのが当たり前って関係になるのが夢、かな」
「……」
何も言い返せなかった。そうなったらいいな、と僕も思った。クラスメイトたちが仲のいい男女ってだけで冷やかしたりしないくらい大人になったら、あるいは、僕に当然のような顔をして君の隣を陣取る勇気が持てたら。
「それか、どうしても描けないなら夜に見る方の夢にしたら? 多分そっちでもいいと思うけど」
「……困ったことに、そっちも同じなんだよな」
勇気がほしい。話している間に、当面の夢が決まった。抽象的すぎて絵にするのは難しそうだけど、まあ画力で何とかするさ。
君が今描いている絵がきっかけで、僕らの関係が周囲に知られてしまうかもしれない。でも、それはそれでいいと思った。いいと思える僕でいたかった。この絵が描き上がる頃には、そんな僕でいられたら。
――結局、君の驚くほど下手……独創的な画力のおかげで、その絵の中の二人が僕と君だとバレることはなかった。
「ん、うぅーん……」
本棚に飲み込まれてしまいそうな小さな体は、困っているということが一目でわかって、ありがたい。
「これ?」
「ありがとうっ!」
僕の手から受け取った本を胸に抱き寄せるようにして、君は花がほころぶような笑顔を見せた。
【君にも、僕にも、届かない……】
「君、私が困ってるといつも助けに来てくれるよね」
「そりゃ、あんなに分かりやすく困ってたら誰でも助けるでしょ」
学校の図書室からの帰り道。夕焼けが照らす歩道を、並んで歩く。
「えー、でも図書室にいた他の人、誰も助けてくれなかったよ」
「そうなの?」
「うん、だから今度何かお礼させてよ!」
……お礼。胸がどきりとする響き。別に、そんなものを期待していたわけではない。だけどもし、叶うのなら……。例えば、一緒に食事とか……。
「君が届かないものがあったら、私が取ってあげるよ」
「えっ」
……確かに、ものを取ってあげたことに対するお礼としては一番収支が合うというか、それが最適解なのかもしれないけど……。
「僕に届かないものは君にも届かないでしょ」
「身長ではそうだね。でも」
君はとん、と僕の胸をつついた。その手の僅かな感触が、心臓を貫いてしまうんじゃないかと本気で思う。
「心の背伸びって、誰も気づいてくれないから」
「……」
「だから、私だけは駆けつけるよ。君の心が『届かない』を叫んだら。君が私にそうしてくれたように」
君はにっと笑って、一つ伸びをする。そうやって一瞬体が大きく見えても、やっぱり君の体はどこまでも小さかった。
「僕が……僕の心が欲しがって、背伸びして手を伸ばし続けているものが、わかるの?」
「わかんない。なあに?」
「普通の生活」
彼女から目を逸らし、答える。地面に長く伸びた影は、ずっと先にある電柱まで届きそうで、でも、どこにも届いていない。
「……それは、ずいぶん高いところにあるねえ」
「やっぱり、君にも届かない?」
「そうだね。……だから、一緒に脚立を探してあげる」
たんっ! 君が短い足を目一杯使って、大きく一歩前に出る。予想外に長い君の影が前方の電柱にぶつかって、柱に沿うようにぐにゃりと形を変え、地面と垂直になる。
「ほら」
差し出された君の手を取る。僕の影も、電柱にぶつかったところから立ち上がっていく。
「熱っ……」
後頭部に当たる直射日光に思わず顔をしかめた。やっぱり、日光は木漏れ日程度の、ほどほどに弱められたものに限る。
【木漏れ日で育つ】
太陽は嫌いだ。肌が弱いのか、昔からちょっと日差しの強い日に外出しただけで赤くなってしまう。そのくせ、暗いのも寒いのも嫌だった。だから、家のすぐそばにある山に、僕は頻繁に足を運んだ。
太陽の本来の光は、ほとんど頭上に生い茂る木の葉が吸ってしまっている。僕にはそれがちょうどよかった。強すぎる光は、樹木と半分こ。ずっと、そうやって生きてきた。
僕の足元、木陰になって少し湿った地面に広がる苔たちが、友人のようなものだった。
「あっおはよう! ねえ聞いてよ、今日さあ」
だから別に、何も問題なんてないのだ。
「……それであいつ、また私のお金あてにしてて」
あいつ。僕じゃない誰か。君の光を、僕より先に受け取る男。
僕は、僕の人生はこれでいいのだ。だって君の笑顔はきっと、僕が浴びるには眩しすぎる。
「話聞いてもらえてすっきりした! ありがとう!」
この木漏れ日のような微笑みだけで、僕には十分なのだ。
「ねえねえ、この曲さあ」
と、君がイヤホンの片方を断りもなく僕の耳に突っ込んだ。右耳から、今流行りのラブソングが流れ込んでくる。
「まるで私たちのことを歌ってるみたいじゃない?」
「君、ラブソング聞くたびにそれ言うよね」
【未来まで響けラブソング】
「いや、これはホントにそうだって! ほら、ここの歌詞とか」
「そりゃ、いろんな人に共感してもらえるように作られた歌詞なんだから当然でしょ」
「冷めてるなあ」
逆に、君はどうしてそんな熱量ではしゃげるんだ。
「君、もしかしてあんまりラブソング好きじゃない? こういうとき、いつも微妙そうな顔してるから」
「いや、単に君のテンションについていけないだけ」
「ぶー。こんなにいい曲なのに」
「だからだよ」
「?」
間違いなく、これはいい曲だと思う。一時のブームではなく、数年後、もしかしたら数十年後まで語り継がれるような名曲と言っていい。……だから、嫌なのだ。
「君と別れたら、聞けなくなっちゃうじゃないか」
一度でも、この歌詞に僕と君を重ねてしまったら。僕はきっと、その先が怖いのだ。
「……え、別れなきゃいいじゃん」
「簡単に言ってくれるね。大人になれば、考え方も感性も変わるんだよ」
「それでいいじゃん。大人になって、この曲に共感できなくなるくらい感性が変わって、『君、この曲聞いて泣いてたよね』『そんなこともあったなあ』なんて言い合って……。そうなるように、数十年後もその先もずっと一緒にいればいいじゃん」
「いや僕泣いてないし。何しれっと歴史改変しようとしてるんだよ未来の君」
「てへへ」
照れくさそうに君は笑う。その笑顔が僕にもたらす名状しがたい感情が、抱えきれない愛情が、ちょうど聞いているラブソングの歌詞と重なった。
「お互いしわくちゃの老夫婦になっても、こんなふうに二人でラブソングを聞いて、『これ完全に私たちのことを歌ってるじゃん!』って言い合おうよ」
「老夫婦向けのラブソングなんてあるかなあ……」
「理想は、『苔のむすまで』に共感できる夫婦だね」
「君が代はラブソングだった……?」
イヤホンから流れる曲が途切れた。「もう一つ、君に聞かせたい曲が……」なんてスマホをいじる君の横顔を見つめながら、こんな日々が千代に八千代に続けばいいのになあ、と思う。