「ただ君だけがいてくれればいいよ、私の人生」
これ以上に胡散臭いセリフが、他にあるだろうか。
【ただ君だけがいれば】
「本当?」
と、当然の流れとして疑いの目を向ける僕に、君は心外だとばかりに頬を膨らませる。
「本当だよ。君さえいてくれれば私は電車で毎回席に座れなくてもいいし、一生四つ葉のクローバーが見つけられなくてもいいし、食後のデザートだって食べられなくていい」
「小さいなあ影響が」
絶対そんなスケールの話じゃないだろ。
「『君だけでいい』って言ったら普通、食事も水も酸素も、命すらもいらないって状態を想像しない?」
「でも、君は私にそんな思いをさせないでしょう?」
「まあそうだけどさあ……」
君の食事や水がなければ僕のを分けてあげたいし、宇宙空間で君の酸素がなくなったら迷わず僕の酸素ボンベを渡すし、君の命が危なければ、僕が命をなげうってでもその危機を遠ざけるけどさ。
「ね、わかったでしょ? 私は君がいる限り生きていけるから、君だけがいればいいの」
「なんか、ズルくない……? 結局それ、僕に甘えてるだけっていうかさあ……」
「そうだよ? だから、君さえいれば、私には甘える相手も担保されるってことだ」
「ううん……」
納得いかないけどもはや返す言葉もないという、いっそスカッと論破された方がマシという心境で唸る僕に、ふいに表情を引き締めた君が
「だから、いなくならないでね」
と、言い放った。
「たとえ私のためでも、君がいなくなったら、私は食事も水も酸素も命も失うのと同じことなんだから」
僕の食事で水で酸素で命の君は、僕の手を優しく握って言った。
ゆっくり、ゆっくり未来へと向かっていく船に、君と乗っている。
【未来への船と共に】
航海は順調。障害物ひとつない海の遥か前方に見えるあの小さな島に着いたら、そこで君と二人だけの楽園を築こう。
上半身は人間で、下半身は魚。普通の世界では生きられない君と、僕は人生を共にしよう。
がたん、と甲板が揺れた。何事か、と辺りを見回す。波が、明らかに荒立っている。見上げた空は、不安になるほどに真っ暗。
「まずい! 手すりに掴まって!」
僕は君に向かって、叫ぶ。これはまずい。最悪だ。僕らがいる場所はちょうど海の真ん中で、船を降りて避難できそうな場所なんてどこにもなかった。慌てて船の帆をしまうが、小さな船は風の煽りを受けて落ち着きなく揺れ動く。
「どうしよう……」
どうしよう、どうしよう! ろくな動力を積んでいないこの船では、海全体の大きな流れには逆らえない。このままだと、僕と君は船もろとも海の藻屑だ。しかし安定しない足場では思考もろくにまとまらない。どうしようもないのか……。
――ぽちゃん。
音がした。雨と風が奏でる轟音の隙間を縫うようにして、それは確かに僕の耳に届いた。足元がふらつく中、どうにか音のした方へ向かう。
「……あ」
手すりから身を乗り出して見下ろした荒れ狂う海は空の色を写し取ったようなどぶ色で、そんな無彩色の中にぽつんと、見知った色彩があった。荒れ狂う波を掻き分けて進む、美しい尾鰭。上半身は、人間。
……ああ、この船と運命を共にするのは、僕だけなのか。
そういえば、彼女は有名な童話と違い人間の足を持っていなかったのに、一度も僕の前で声を発さなかったな。なんて、今さら気づいた。
拝啓、静かなる森へ。僕はあなたのことが大嫌いです。
【拝啓、静かなる森へ】
「あっ、やっぱりここにいた! 絶対君の足音だと思ったんだ!」
「なんで足音だけで分かるの、怖……」
静かな森って嫌いだ。僕の足音が、君にはっきり聞こえてしまう。
「ねえ、君最近私のこと避けてるでしょ!」
「……別に」
静かな森って嫌いだ。僕の言葉の棘が、君にそのまま届いてしまう。
「……そっか」
静かな森って嫌いだ。君の先細りしていく声が、付け足すように、絞り出すように放たれた「ごめんね」まで、しっかり僕に伝わってしまう。
「……っ、待って!」
「……?」
「ごめん、その……。友達に、からかわれちゃって。恥ずかしく、なってた」
静かな森って嫌いだ。僕の情けない声の震えまで、きっと君は聞き取ってしまう。
「……だってあいつの言う通り、僕は、君のことが好きだから」
静かな森って嫌いだ。僕の心臓の跳ねる音まで、君にはっきり聞こえてしまう。
ファンファーレみたいに、小鳥のさえずりが響いて、でも森はすぐに元の静かな森に戻った。
「はーい、今書いてる絵は今月末までに仕上げてくださーい。終わらない人は宿題にしますからねー」
先生がぱんと手を叩き、言う。僕の筆は動かない。授業が始まったときからずっと、動いていない。
美術の課題。テーマは、「夢」。
【秘めたる夢を描け】
「ちょっとちょっと、画用紙真っ白じゃん。そんな調子で終わるの?」
「そう言う君は順調そうだね……」
隣の席から、君が僕の画用紙を覗き込む。僕も仕返しとばかり、君の画用紙を覗き込んだ。そこには……なんかこう、黒い……なんだろう、とにかく画用紙は埋まっていた。美術の授業で彼女の筆が僕より早く進むのは、珍しいことだ。
「何を描くか決まらないの?」
「んー、まあ……」
「将来の夢とか、ないの?」
「んー……」
ないことはない。というか、ある。
「あるなら、普通にそれを描けばいいじゃん」
「いや……」
「描くのが難しいものなの?」
「まあ……」
歯切れ悪く、君の質問に答える。
「君の画力で描けないものなんてあるの?」
「画力の問題じゃなくて……」
「どういうこと?」
もごついている僕についに痺れを切らしたのか、君がやや不機嫌そうに眉根を寄せる。観念して、僕は白状した。
「君の……旦那さん」
「……」
「さすがに、描けないでしょ……?」
交際を隠しているから、いや隠していなかったとしても、そんな大胆な真似はできない。描いた絵は廊下にでも貼り出されるのだろうし、場合によっては来校した父母も目にする。
「……どういうこと? 私の顔って、そんなに複雑?」
「…………へ?」
「あ、それとも、どれだけ画力があっても私の美しさは再現できないみたいな話? 君が私のことを大好きなのは知ってるけど、さすがにそれは買いかぶりすぎだよ」
「いや、えっと……」
「というか、それなら私と夢同じじゃん。私にも描けるんだから君も大丈夫だよ」
君が何を言っているのか僕にはいまいちわからなかったが、君が僕と同じ未来を思い描いてくれていることと、君と僕が並んでいるところを画用紙に描き出していることは理解できた。……というか、今判明した。
「……君は、その絵がきっかけで僕らの関係がバレてもいいの?」
「うーん……というか、バレても問題ない、むしろ一緒にいるのが当たり前って関係になるのが夢、かな」
「……」
何も言い返せなかった。そうなったらいいな、と僕も思った。クラスメイトたちが仲のいい男女ってだけで冷やかしたりしないくらい大人になったら、あるいは、僕に当然のような顔をして君の隣を陣取る勇気が持てたら。
「それか、どうしても描けないなら夜に見る方の夢にしたら? 多分そっちでもいいと思うけど」
「……困ったことに、そっちも同じなんだよな」
勇気がほしい。話している間に、当面の夢が決まった。抽象的すぎて絵にするのは難しそうだけど、まあ画力で何とかするさ。
君が今描いている絵がきっかけで、僕らの関係が周囲に知られてしまうかもしれない。でも、それはそれでいいと思った。いいと思える僕でいたかった。この絵が描き上がる頃には、そんな僕でいられたら。
――結局、君の驚くほど下手……独創的な画力のおかげで、その絵の中の二人が僕と君だとバレることはなかった。
「ん、うぅーん……」
本棚に飲み込まれてしまいそうな小さな体は、困っているということが一目でわかって、ありがたい。
「これ?」
「ありがとうっ!」
僕の手から受け取った本を胸に抱き寄せるようにして、君は花がほころぶような笑顔を見せた。
【君にも、僕にも、届かない……】
「君、私が困ってるといつも助けに来てくれるよね」
「そりゃ、あんなに分かりやすく困ってたら誰でも助けるでしょ」
学校の図書室からの帰り道。夕焼けが照らす歩道を、並んで歩く。
「えー、でも図書室にいた他の人、誰も助けてくれなかったよ」
「そうなの?」
「うん、だから今度何かお礼させてよ!」
……お礼。胸がどきりとする響き。別に、そんなものを期待していたわけではない。だけどもし、叶うのなら……。例えば、一緒に食事とか……。
「君が届かないものがあったら、私が取ってあげるよ」
「えっ」
……確かに、ものを取ってあげたことに対するお礼としては一番収支が合うというか、それが最適解なのかもしれないけど……。
「僕に届かないものは君にも届かないでしょ」
「身長ではそうだね。でも」
君はとん、と僕の胸をつついた。その手の僅かな感触が、心臓を貫いてしまうんじゃないかと本気で思う。
「心の背伸びって、誰も気づいてくれないから」
「……」
「だから、私だけは駆けつけるよ。君の心が『届かない』を叫んだら。君が私にそうしてくれたように」
君はにっと笑って、一つ伸びをする。そうやって一瞬体が大きく見えても、やっぱり君の体はどこまでも小さかった。
「僕が……僕の心が欲しがって、背伸びして手を伸ばし続けているものが、わかるの?」
「わかんない。なあに?」
「普通の生活」
彼女から目を逸らし、答える。地面に長く伸びた影は、ずっと先にある電柱まで届きそうで、でも、どこにも届いていない。
「……それは、ずいぶん高いところにあるねえ」
「やっぱり、君にも届かない?」
「そうだね。……だから、一緒に脚立を探してあげる」
たんっ! 君が短い足を目一杯使って、大きく一歩前に出る。予想外に長い君の影が前方の電柱にぶつかって、柱に沿うようにぐにゃりと形を変え、地面と垂直になる。
「ほら」
差し出された君の手を取る。僕の影も、電柱にぶつかったところから立ち上がっていく。