「ん、うぅーん……」
本棚に飲み込まれてしまいそうな小さな体は、困っているということが一目でわかって、ありがたい。
「これ?」
「ありがとうっ!」
僕の手から受け取った本を胸に抱き寄せるようにして、君は花がほころぶような笑顔を見せた。
【君にも、僕にも、届かない……】
「君、私が困ってるといつも助けに来てくれるよね」
「そりゃ、あんなに分かりやすく困ってたら誰でも助けるでしょ」
学校の図書室からの帰り道。夕焼けが照らす歩道を、並んで歩く。
「えー、でも図書室にいた他の人、誰も助けてくれなかったよ」
「そうなの?」
「うん、だから今度何かお礼させてよ!」
……お礼。胸がどきりとする響き。別に、そんなものを期待していたわけではない。だけどもし、叶うのなら……。例えば、一緒に食事とか……。
「君が届かないものがあったら、私が取ってあげるよ」
「えっ」
……確かに、ものを取ってあげたことに対するお礼としては一番収支が合うというか、それが最適解なのかもしれないけど……。
「僕に届かないものは君にも届かないでしょ」
「身長ではそうだね。でも」
君はとん、と僕の胸をつついた。その手の僅かな感触が、心臓を貫いてしまうんじゃないかと本気で思う。
「心の背伸びって、誰も気づいてくれないから」
「……」
「だから、私だけは駆けつけるよ。君の心が『届かない』を叫んだら。君が私にそうしてくれたように」
君はにっと笑って、一つ伸びをする。そうやって一瞬体が大きく見えても、やっぱり君の体はどこまでも小さかった。
「僕が……僕の心が欲しがって、背伸びして手を伸ばし続けているものが、わかるの?」
「わかんない。なあに?」
「普通の生活」
彼女から目を逸らし、答える。地面に長く伸びた影は、ずっと先にある電柱まで届きそうで、でも、どこにも届いていない。
「……それは、ずいぶん高いところにあるねえ」
「やっぱり、君にも届かない?」
「そうだね。……だから、一緒に脚立を探してあげる」
たんっ! 君が短い足を目一杯使って、大きく一歩前に出る。予想外に長い君の影が前方の電柱にぶつかって、柱に沿うようにぐにゃりと形を変え、地面と垂直になる。
「ほら」
差し出された君の手を取る。僕の影も、電柱にぶつかったところから立ち上がっていく。
「熱っ……」
後頭部に当たる直射日光に思わず顔をしかめた。やっぱり、日光は木漏れ日程度の、ほどほどに弱められたものに限る。
【木漏れ日で育つ】
太陽は嫌いだ。肌が弱いのか、昔からちょっと日差しの強い日に外出しただけで赤くなってしまう。そのくせ、暗いのも寒いのも嫌だった。だから、家のすぐそばにある山に、僕は頻繁に足を運んだ。
太陽の本来の光は、ほとんど頭上に生い茂る木の葉が吸ってしまっている。僕にはそれがちょうどよかった。強すぎる光は、樹木と半分こ。ずっと、そうやって生きてきた。
僕の足元、木陰になって少し湿った地面に広がる苔たちが、友人のようなものだった。
「あっおはよう! ねえ聞いてよ、今日さあ」
だから別に、何も問題なんてないのだ。
「……それであいつ、また私のお金あてにしてて」
あいつ。僕じゃない誰か。君の光を、僕より先に受け取る男。
僕は、僕の人生はこれでいいのだ。だって君の笑顔はきっと、僕が浴びるには眩しすぎる。
「話聞いてもらえてすっきりした! ありがとう!」
この木漏れ日のような微笑みだけで、僕には十分なのだ。
「ねえねえ、この曲さあ」
と、君がイヤホンの片方を断りもなく僕の耳に突っ込んだ。右耳から、今流行りのラブソングが流れ込んでくる。
「まるで私たちのことを歌ってるみたいじゃない?」
「君、ラブソング聞くたびにそれ言うよね」
【未来まで響けラブソング】
「いや、これはホントにそうだって! ほら、ここの歌詞とか」
「そりゃ、いろんな人に共感してもらえるように作られた歌詞なんだから当然でしょ」
「冷めてるなあ」
逆に、君はどうしてそんな熱量ではしゃげるんだ。
「君、もしかしてあんまりラブソング好きじゃない? こういうとき、いつも微妙そうな顔してるから」
「いや、単に君のテンションについていけないだけ」
「ぶー。こんなにいい曲なのに」
「だからだよ」
「?」
間違いなく、これはいい曲だと思う。一時のブームではなく、数年後、もしかしたら数十年後まで語り継がれるような名曲と言っていい。……だから、嫌なのだ。
「君と別れたら、聞けなくなっちゃうじゃないか」
一度でも、この歌詞に僕と君を重ねてしまったら。僕はきっと、その先が怖いのだ。
「……え、別れなきゃいいじゃん」
「簡単に言ってくれるね。大人になれば、考え方も感性も変わるんだよ」
「それでいいじゃん。大人になって、この曲に共感できなくなるくらい感性が変わって、『君、この曲聞いて泣いてたよね』『そんなこともあったなあ』なんて言い合って……。そうなるように、数十年後もその先もずっと一緒にいればいいじゃん」
「いや僕泣いてないし。何しれっと歴史改変しようとしてるんだよ未来の君」
「てへへ」
照れくさそうに君は笑う。その笑顔が僕にもたらす名状しがたい感情が、抱えきれない愛情が、ちょうど聞いているラブソングの歌詞と重なった。
「お互いしわくちゃの老夫婦になっても、こんなふうに二人でラブソングを聞いて、『これ完全に私たちのことを歌ってるじゃん!』って言い合おうよ」
「老夫婦向けのラブソングなんてあるかなあ……」
「理想は、『苔のむすまで』に共感できる夫婦だね」
「君が代はラブソングだった……?」
イヤホンから流れる曲が途切れた。「もう一つ、君に聞かせたい曲が……」なんてスマホをいじる君の横顔を見つめながら、こんな日々が千代に八千代に続けばいいのになあ、と思う。
僕の名前が宛名に書かれた、君からの手紙。愛らしい白い手紙を開くと……
雪国であった。
【手紙を開くと広がる雪国】
もちろん今のは比喩だが、そう言いたくなるほどに、手紙の中の世界は真っ白だった。文字はもちろん絵や写真、何かを書こうとした痕跡すらない。これは一体どういうことだ。
[なにこれ]
真っ白な手紙の写真を撮り、LINEで君に送りつける。返信はすぐにきた。
[あ、届いた?]
[届いた。これはどういうつもり?]
[どういうつもりもなにも、どう見ても手紙でしょ]
[どう見ても白紙だからLINEしたんだけど]
もう一度君からの手紙を見つめる。白紙の向こうに僕を惑わせてしたり顔の君が見えた気がして、それをぽいと放った。
[君は「炙り出し」って知ってる?]
あっ、と思って手紙を拾い上げる。なるほど、それなら君が一見白紙に見えるものをわざわざ送ってきた理由も説明がつく。まあ、わざわざそんな面倒な方法でメッセージを送ってくる理由は謎だが。
ライターを取り出し、手紙に火がつかないよう慎重に炙る。二分ほどそうしたところで、君から
[まあこれは全然そういうのじゃないんだけど]
と届いたので
[時間返せ]
と送った。
[君って意外と素直なところあるよね]
[僕を困らせて何が楽しいんだ]
焦げ目のついた紙の向こうに、やっぱり君のしたり顔が見える。
[君は楽しくないの?私とこうしてLINEのやり取りするの]
……返答に窮してしまった。
[きっかけはなんだっていいんだよ]
[それこそ、白紙の手紙でも]
[内容なんかスカスカでも]
[私はただ、君とこうしていたい]
[君、全然LINEくれないんだもん]
立て続けのメッセージ。しばらく、お互い新たなメッセージを打ち込まなかった。先に沈黙を破ったのは、僕だった。
[そんなに毎日、送るようなことなんてないし]
[何でもいいんだって。君が、私と話したいって意思を示してくれたら、それで]
なるほど、そういうものかもしれない。白紙の手紙が僕をうろたえさせたように、何かを送るというアクションそのものが、相手のリアクションを引き出し、そうしてコミュニケーションになる。
[……善処する]
と打ち込むと、
[あー、それ何もしない人の常套句じゃん]
[この前もさあ]
と、まだ話を続けたそうに画面上で文字が踊った。
――後日、彼女のLINEにスペースキーを連打しただけのメッセージを送ったら「そういうことじゃない」と怒られたのは、また別の話。
「この服、君に似合うと思うなあ」
と、君が僕に言うとき、君の瞳は僕じゃない誰かを見つめている。
【すれ違う二対の瞳】
「黒系の服ってあんまり着ないなあ」
「嘘ぉ。その顔立ちなら絶対似合うってぇ」
「その顔立ちなら」。君が僕の背後に見ている、僕じゃない誰か。僕の知らない、君が本当に好きな誰かとよく似ている、この顔立ちなら。
「迷惑じゃなければ私が買ってプレゼントするよ?」
まっすぐに僕の顔を見て、君は言う。こういうとき、僕は僕の体がまるで幽霊みたいに透明になって、君の瞳に映っていない、なんて妄想をする。
「……いいよ、僕もこういう服、着てみたいと思ってたし。自分で買う」
「君のそういう優しいとこ、大好きっ!」
と、「僕に向かって」笑いかけてくれる、君の幻影を瞳に映す。