僕は想像する。君がその小さな足で雪原を歩いたら、どんな軌跡を描くだろうか。
――二つ並んだマグカップの、大きい方を手に取った。
【シュレディンガーの軌跡】
例えばそんな愛らしい足跡の隊列の隣に、一回り大きな足跡がもう一列、並んでいたとする。人々は想像する。寄り添って歩く、仲睦まじい男女を。
――マグカップに牛乳を注いだ。
足跡の大きさは全く違うのに、その歩幅は変わらない。人々は想像する。男から女に対する溢れんばかりの慈しみ、愛情を。
――マグカップを電子レンジにかけた。
そうして雪解けと共に、二列の足跡は同じように消える。人々は想像する。足跡が消えても、決して消えない二人の愛が、今日もどこかで育まれていることを。
――マグカップの中の温まりきらなかった液体を、飲み干した。
実際に、本当にその二つの足跡が同じタイミングで付けられたかどうかなんて、きっと誰も気にはしない。
――ざあ、と水を出して、さっきまで使っていたマグカップをスポンジで洗う。
僕は想像する。雪原にまっすぐに、どこまでも伸びていく君の歩みの証を。僕は想像する。その軌跡を辿るように、雪原に同じように跡を付けていく、僕自身のことを。
――君が使っていたマグカップの隣に、一回り大きな自分のマグカップを置いた。
「好きだよっ!」
「ああ、はいはい」
こういうとき、素直に好きだよと返せない自分のことを、あまり好きになれない。
【好きになれない僕と、嫌いになれない君の好きな人】
「ちょっと何さその気のない返事! 好きでしょ! 好きって言えー!」
悪いとは思っている。
「ここまで言っても好きって返してくれないとか、君、心ってもんがないの?」
心があるからこそ、言えないこともあるんだよ。言えない代わりに、別の思いを伝えよう。
「……世界で一番可愛くて、愛しいと思ってるよ」
「え! じゃあつまり君は私の事が……?」
「……」
「す……?」
「…………」
「なんでここまで来て黙るのさ! なんで好きは言えなくて、そんな気恥ずかしいことは言えるのさ!」
言いたくないのだ。僕が僕のことすら好きになれないうちは、軽率に好きだなんて言葉を。
「まあ君のそういう素直じゃないとこ、嫌いじゃないけどさ」
「……僕も」
「同意のタイミングおかしくない!? 私が『好き』って言った時に言うんだよ、そういうことは」
……僕も、君が愛してくれているというその一点のために、自分を嫌いになれずにとどまれているよ。
「だーれだっ」
夕日のオレンジ色をした軽やかな声と共に、僕の眼前に小さな夜が広がる。
【クイズに答えて夜が明けた。】
「誰でもいいけど、邪魔しないでよ。今僕が本読んでるって、見ればわかるでしょ」
「あ、わかんない? じゃあ特大ヒント! 君がこの世で一番好きな人だよ!!」
「ちょっと心当たりがないなあ」
僕にこんなことをするのはこの世に一人、君だけだとわかっているが、素直にその名前を呼んでやる気は起きない。というか、ヒントのせいで答えづらくなった。
「えー、まだわかんない? じゃあ中ヒント!」
「ヒントの出し方の順番おかしくない?」
「君が今日、いつもみたいに『おはよう』って声をかけることができなかった人だよ!」
……君だって、いつもみたいに僕の顔を見て微笑みかけてくれなかったじゃないか。
「じゃあ最後、小ヒント!」
「降順なの……?」
「君が今、仲直りしたいと思ってる人だよ」
ぷつり。情報は全て出しきったとばかりに、君はそこで言葉を切った。真夜中に似た静寂の中では、君の気持ちはわからない。真夜中に似た暗闇の中では、君の表情はわからない。
わかるのは、君の手の温度と、僕の気持ちだけ。
「……はあ」
僕の負けだな、と諦めて、白旗を振るように君の名を口にする。
「せいかいっ!」
朝日の白色をした軽やかな声と共に、僕の眼前に朝がどこまでも広がっていく。
例えば、ふとした瞬間に
「……今日は桜が綺麗だな。君にも見せたい」
となるのが、愛なのだと思う。
【ふとした瞬間確約チケット】
写真を撮って君に送って、それで満足すればよかったのだけれど、なんだか今日は君の声が聞きたい気分だ。電話をかけたら迷惑だろうか、とふとした瞬間に真剣に考えてしまうのは、さっき吹いた風の音が君の声みたいだったからとか、そういうくだらない理由のせいだ。
「まあ、我慢するか」
鬱陶しい男と思われてはかなわないし、ふとした瞬間に浮かんだ程度の感情なら、放っておけばきっとふっと消えるだろう、そのうち。
――ぷるるるるる。
『あ、もしもし?』
……え?
『くしゅっ……。今さあ、外にいるんだけど。ふわって風が吹いて、それが顔にかかって、そっから鼻水止まんなくて。あー花粉だなーって思って』
君の声。これが前置きなのか本題なのかもよくわからないまま、相槌を差し込むタイミングを逃し続ける僕。
『君の方は大丈夫かなーって、ふっと心配になっちゃって』
「……え?」
『あれ、君も花粉症だったよね、確か』
「え、ああ、まあ……」
『大丈夫? ちゃんと鼻炎薬飲んでね』
「……それ言うために電話したの?」
『え? うん、そう。花粉は辛いからねー』
僕は携帯を握りしめたまま、しばらく固まっていた。桜の花びらが頬を撫で、それで我に返って、腹を抱えて笑った。そうだ。花粉は辛くて、桜は綺麗だ。
『じゃあそれだけだから……』
「待って。こっちの方、桜がすごく綺麗なんだ。君にも見せたいくらい」
『ええ、いいなあ』
「今写真送る」
と、桜の木を降り仰ぎ言う。ふっと、いたずら心のようなものが沸き上がってきて、僕はさらに言葉を続けた。
「僕、明日もこの道を通ると思うんだけどさ」
『うん』
「明日の桜は、今日よりもっと綺麗かも。そしたらきっと、君にそれを伝えたいって、ふとした瞬間に思っちゃう気がする」
『ふふっ、なにそれ』
「そしたら、僕から電話してもいい?」
ふとした瞬間は、いつふっと訪れるかわからないからふとした瞬間なのだ。けれど、いつ来るかわからなくても、絶対に一日のどこかで来るとわかる。その「ふとした瞬間」の確約チケットこそが、愛なのだと思う。
『いーよ』
空は青くて、わざわざ君に伝えなくたって、君もふとした瞬間に見上げたくなっているんじゃないかなあ、と思う。
「どんなに離れていても君が好きだよ」
と、空港にて君は寂しそうな風もなく微笑んだ。僕はそれが、すごく嫌だった。
【どんなに離れていても、君はきっと大丈夫】
彼女の言葉を、偽りだと思ったわけではない。君は賢いから、物理的な距離を心の距離と勘違いするような過ちは犯さない。
でも、「どんなに離れていても」か。まるで、運命か神か、そういう抗いがたい何かが、僕らの仲を引き裂くような言い分だ。
実際は違う。離れていくのは、君の意思だ。この空の向こうに、僕と一晩中駄弁って昼まで隣で寝たり、何でもない日にサンドイッチを作って公園にピクニックに行ったりする日々よりも大切なものがある。と、少なくとも君は思っている。
僕が君の口から聞きたいのは、そんな恋愛ドラマを適当に再生すれば聞けそうな言葉なんかじゃなくて、もっとどろどろとした、つまりは僕のそれと同質なものなのに。
『こんなに君が好きだから、離れたくないよ』
そんなにからりと笑われたら、言えないじゃないか。