「おい、こっちにこい」
と、君に乱暴に呼びつけられるのが好きだった。
【「こっちに恋」から「愛にきて」まで】
道端で綺麗な花を見かけたときも、秘密の話をしたいときも、何か僕に怒りたいことがあるときでも、その声のトーンはあまり変わらなかった。ぶっきらぼうで、まるで飼っているペットでも呼びつけるみたいな調子。それを耳にした僕の友人はそろって「あいつはやめとけ」と口にした。
だけど、僕はその響きが好きだった。その言葉の奥には綺麗なものを見つけた喜びや秘密の話をする緊張、僕への怒り……そして、「こい」の文字列が隠れていた。君がどんな感情に染まっている時でも変わらず確かに発音される「恋」の響きに、僕はすっかり恋に落ちていた。
……でも、さすがに僕の両親の前でそんなことを言う勇気はないらしい。
「おい、じゃなくて、えっと、その……」
どうしようもなくなって必死で手招きをする君はそれはそれで最高に愛おしいけど、やっぱりあの「こい」の響きがないと物足りない。
「……あら」
そんな彼女の様子を見て、僕の母がくすりと笑った。
「行ってあげなさいよ。『あいにきて』って言ってるわよ、あの子」
僕は思わず吹き出した。今度は「愛」が隠れている。
「君が彼女くらいの歳の時は、俺のことをそんな可愛い感じで呼びつけたりしなかっただろう」
父がそう割り込んでくる。
「そうなの?」
僕は母に訊く。「あいにきて」の響きは、のんびりと柔らかい空気をまとった母にはしっくりくるように思える。
「『こっちにこい』って、ペットの犬でも呼びつけるみたいに扱われたもんだ」
「え!?」
母は困ったような、照れたような笑みを浮かべつつ否定する様子はない。本当なのか。なんか、意外だ。母は最初から今の母だと思っていたから。
「お前が生まれてからだぞ、母さんがここまで丸くなったのは」
人は変わるもんだなあ、と感慨深げに父は言う。そうか、変わるのか。それなら、彼女の言葉に隠れる「恋」の響きも、いつかは「愛」に変わるのだろうか。想像したら、なんだか胸が温かくなる。
「……」
「あっ、やばっ」
完全に君の存在を忘れていた。彼女はここまで我慢を重ねてきたがついに限界だ、とでも言うような表情で
「何してんだよっ! 早くこっちにこい!」
と、叫んだ。その声を聞いて、まだもう少しだけ、「恋」の響きを楽しんでいたいな、と思った。僕の両脇で、父と母がくすくすと口を押さえて笑っている。
「君は、巡り逢いって信じる?」
君は僕に向かってそう問いかけながら、学校を出て二つ目の角を左に曲がった。彼女の家に向かうには若干遠回りだが、途中で僕の家に寄ることができるルート。なんでわざわざ? なんて問いかけるような間柄の僕たちではない。
「というと?」
「私たちの出会いは初めから神によって決められていて、出会うべくして出会った、みたいな」
君に言われ、僕は少し考える。僕らの出会いが運命で、家が近所だったり同じクラスに振り分けられたり、そういう些細なこと一つ一つが神の導きだったら……。もしそうなら、なかなかロマンチックな話だ。君がそんなにロマンチストだとは知らなかっ「もしそうなら、めちゃくちゃムカつくよね」……流れ変わったな。
【巡り逢いに一手間を】
「え、今ムカつくポイントあった?」
「だってさあ、そんなに全部お膳立てされてるのって、お魚の骨を全部取り除いて提供されるようなもんじゃん!」
「……それのどこが問題なの?」
「えー!」
想像する。骨を何者かの手によって全て抜き取られた魚。ふわふわの身を、小骨が口内に刺さる心配もせずに口いっぱいに頬張る。……最高じゃないか。
「なんでわかってくれないのー! 私は君のことを何でもわかっているというのに……」
「ちょっと、拗ねないでよ」
面倒な人だなあ、とは、さらに面倒なことになりそうなので口にはしなかった。
「お箸で骨を取り除いて、小骨のことを心配しながら、ちょっとずつ食べるの。それがお魚を食べるときの醍醐味なんじゃん」
「珍しい人種だ」
「それに、骨を取り除かれたお魚が出されたら、『ああ、このお魚に箸をつけるのは私が初めてじゃないんだな』って思っちゃうじゃん」
「思っちゃわないよ。考えすぎじゃない?」
「『私はこの人の初めてじゃないんだな』って」
「本当に考えすぎだよ! 魚の話だよね!?」
とにかく! と咳払いを一つして君は続ける。
「私たちはもう子供じゃないから、お箸が一膳あれば骨は自分で取り除けるの! だからどういう理由があれ他人様の食事に勝手に箸をつけちゃいけないって話!」
「……そんな話だったっけ」
「どうだったっけ?」
何だか、元の話題からだいぶ脱線したような気がする。
「じゃあ君は、その魚の骨がどんなに取りにくくてもお箸一膳で戦うんだ」
「当然! お箸を持つ指が痛くなっても、時間がかかってご飯が冷めちゃっても、やっぱり自分で骨を取って食べたいよ」
「わかんない感覚だなあ」
「骨付き肉から勝手に骨を抜き取られた感覚?」
「ちょっとわかった」
つまり、たとえ手が汚れることになっても、意外と骨の体積がデカいから見た目より肉自体のボリュームがなくても、シンプルに食べるのが面倒くさくても、僕はきっと骨付きのロマンを求めるだろうということだ。……そんな話だったっけ。
制服の襟を正し、靴を履いた足でとんとんと玄関の地面を叩く。通学鞄を手に取ってから、今日は授業変更があって地理の教科書が必要になっていたはず、と中を確認した。昨日の夜に鞄の中に入れたことは覚えているが、まあ念のためだ。「地理」の二文字が書かれた背表紙を確認して、がちゃりと玄関の扉を開けた。
「おはよう!!!!!」
「……うん、おはよう」
当たり前のようにそこに立っていた君の声は、寝起きの頭には少し刺激が強すぎる。玄関の鍵をかけてから、彼女と並んで歩き出した。
「それじゃ、今日はどこに行こうか」
「どう考えても学校でしょ」
【週五回の「どこに行こうか」】
「えー、昨日もそこだったじゃん」
「そりゃ火曜日だったからね」
「たまには違うとこ行こうよお」
「それは三日後の僕に言ってくれ」
ぶーぶー、と文句を言いながらも君が通学路から外れようとする様子はない。いつものことだ。
「いつも言ってるけど、毎日訊かなくていいよ。どうせ明日も学校だから、行き先」
「え~わかんないよ~。明日には気が変わってるかもしれないじゃん?」
「明日も気が変わらないと思うから、人は前日のうちに地理の教科書を鞄に入れたりするんだよ」
違う。本当はわかっている。彼女の言う通り、明日も気が変わらないなんて言い切れないこと。毎日当たり前に「学校に行こう」と思えるほど、正規品じみたつくりをしていないこと。だから、君が毎朝同じ質問をすること。他でもない僕自身が、一番理解している。
……それでも、毎朝「どこに行こうか」と君に訊かれるのは、もう嫌だ。
「……え待って、今日地理あったっけ」
「授業変更があるって言われてたじゃん」
「……み」
「見せないよ、隣の席でもないし」
「殺生な! 見せに来いよ私の席まで!」
「教科書見せるためだけに教卓の正面まで歩いて行ったら、目立つなんてもんじゃないでしょ」
「くそぅ……私の座席が教卓のド正面だったばかりに……」
「そういう問題じゃないけどね」
「どこに行こうか」と訊くことはあっても、君の方から「ここへ行こうよ」と言ってもらったことは、ない。僕が君の問いに学校ではない場所を答えれば君は迷わずついてきてくれるだろうが、君が昨日とは「気が変わっ」て学校ではない行き先を望んだら、僕はそれに気づけるだろうか。
「……ほら」
「え?」
「見せるのは無理だから、貸してあげる」
「でもそれだと、君が……」
「僕は隣の人に見せてもらうから」
「……」
「早く受け取ってよ。まあ、君が自分で隣の人に頼めるっていうのならいいけど……」
「わあっ無理無理、君以外の人に頼み事とか絶対無理っ!」
いつも、出会い頭の刺激が強すぎるあいさつに怯んでいるうちに先手を取られてしまうけれど、明日こそは僕が彼女に訊こう。
「どこに行きたい?」ではなく、「どこに行こうか」と。君がそうしてくれたように。
「好きだよーーーっ!!!」
「うるさい」
好きだよーーーっ、だよー、よー、よー……。
「山びこもうるさい」
【宇宙を貫くbig love!】
名前も知らぬ山の頂上。辺りに僕ら以外誰もいないからって、この声量はいかがなものだろうか。
「好きだよーーーっ!!! 富士山くらいでっかく、大好きーーー!!!」
日本の最高峰、標高3776mの頂を、君は自分の愛の表現として易々と持ち出した。富士山、富士山、富士山、大好きー、大好きー、大好きー……と眩暈がするような言葉が山から山へ軽やかに飛び移っていく。
「山の上にいながら別の山を例えに出すのってどうなの」
「あっそうか、『誰よその女!』ってなっちゃうか」
「女かどうかは知らんけど」
目の前に見える名も知らぬ山岳に思いの丈をぶつけて満足したのか、君は僕の方を向いてにっと笑った。
「君は?」
「え?」
「君は私のこと、好き?」
「……嫌いだったら、こんなところまで来てない」
目を逸らしつつ、どうにか答える。僕なりの精一杯、のつもりだったけれど、君はさらに問いを重ねてきた。
「どれくらい? どれくらい私のこと好き?」
「え? う、うーん……」
「北岳くらい?」
「いきなり日本のNo.2が出てきた」
「いーじゃん、日本のワンツーカップルになろうよぉ」
「ワンツーにもカップルにもなる予定はないけど」
さっきから、富士山だの北岳だの、今僕らが踏みしめている大地がへそを曲げたりしないだろうか。
「……オリンポス山」
少し間を置いて、僕は答える。
「何それ? 日本の山じゃないよね?」
「うん」
「世界で一番高い山! ……はエベレストだし、二番目はK2、三番目はカンチェンジュンガ……」
「結構博識だよね、君。っていうか、真っ先に世界一を疑うんだ」
「私が知らないだけで有名な山なの? どっかの観光地とか?」
「登山客が多いって話は聞かないかな」
「えぇー」
君はあからさまに唇を尖らせた。さすがに怒らせてしまっただろうか。
「一応、山ではあるんだから許してよ」
「いーえ許しません」
「そこをなんとか」
「ダメ。ちゃんとあの山に向かって叫ばないと」
「あ、そっち?」
「せっかく山の頂上まで来たのに、叫ばないで帰るなんて犯罪だよ!」
「さっきの君の大声の方が犯罪的だったけどね」
「ほら、いいから叫んで!」
全く気は進まなかったが、そうしないと下山させてもらえなそうな空気だ。仕方なく、僕は小さく息を吸う。
「僕は君のことが、オリンポス山くらい、好き……」
「ちょっと、声が小さいよ。そんなんじゃ返してもらえないよ、山びこ」
「いらない」
「ええ」
「山びこなんて返ってこなくてもいい。僕がさっさと家に帰れさえすれば」
「もー……」
頬を膨らませる君を見ながら、思う。返ってこなくたっていいのだ、僕の思いは。能天気そうな雰囲気と裏腹に博識な君なら、もしかしたら知っているかも……なんて、別に期待していたわけではないのだ。
「この人こんなこと言ってますけど、どう思いますかー!!」
「うるさい」
思いますかー、ますかー、すかー……。
「山びこもうるさい」
太陽系の最高峰、標高21229mの頂を思った。
「私の言葉を、一つも聞き逃さないでね」
それが、欲のない君が僕にした、ただ一つのお願いだった。
【氷色のささやき】
君は、一度空気と混ざったら分離できなくなりそうな、透明な声で喋る人だった。
「じゃあ、もっと大きな声で喋ってよ」
僕が言うべきはそんなことではなかったと、あの時気づくべきだったのだ。授業中や同姓の友達と話すとき、君はもっと芯の通った声ではっきり喋ると知っていたのに。君があんなささやき声を届ける相手は、僕だけだって知っていたのに。
もう、どんなに耳を澄ませても、君の声なんて聞こえやしない。氷の溶けきった水を飲み干す。味なんてしない。
絶対に聞き逃さないように、君の透明なささやきが空気なんかに奪われる前に拾えるように、ちゃんと君のすぐ隣にいなきゃ駄目だったんだ。
「……本当に今さらだ。馬鹿だなあ」
氷水で冷えた胃から空気を吐き出すみたいに、ささやく。君が、僕が何かささやいていることに気づいて、駆け寄ってきてくれたらいいのに。