なぜ俺は、ブランコに乗りながら小春に尋問されているのだろう。
「はい、それで?なんて答えたの?」
「あっ…ええと、今は誰とも付き合うつもりはない、と…」
「はい弱い。言い方が弱い。それじゃ、これからいけそうだと思うもん。待ってるとか、諦めないとか言われなかった?」
「どっちも言われた…」
「やっぱりね」
同級生の綾瀬小春は、俺の幼なじみである。
家が近くて親同士が仲が良いので、
昔から何かと交流があった。
高校生になった今でも、帰り道が同じになれば、話をしたりもする。
正直俺は、こいつに長年片思いしている。
「翔真さあ、もうめんどくさくなって、付き合っちゃおうとか思ってない?」
「いや…それは思ってないけど…」
思っていないが、あんまりつきまとわれると、放置する可能性はある。
放置された子が勘違いし、彼女になったと言いふらされたケースが過去あった。
ろくに話したことさえなかったのに。
おかげで、翔真は一部の女子から批判されている。身に覚えがないので不満だが、それも含め女子がめんどくさいので無視している。
「ちゃんと断らないとダメだっていつも言ってるじゃん?なんか知らないけど、高校入ってからモテはじめちゃってさ。背ばっかりのびたって、ひょろひょろするばっかなのにさ。」
なぜこんなに不機嫌なんだ。こっちは昼休みも早々に呼び出されて、昼を食べ損ねたって言うのに。
これ以上文句言われてもかなわん。
俺は早々にここを去ることにした。
カバンをひっかけ、さっさと歩きだす。
「あ!ちょ、どこ行くの」
「福来軒」
「あ、あたしも行く」
小春があっさり話を切り上げてついてくると、俺たちは公園を後にした。
「俺、味噌チャーシュー」
「え、贅沢。あたしは…醤油かなー」
よく通っているラーメン屋の福来軒は、安くてうまくてしかも早い。
学生割引もあるので、うれしい限りだ。
少し待って、ラーメンが置かれる。
やっと昼にありつける。歓喜しつつ、箸を割った。
「でもさ、今日告白してきた河瀬さんさ。男子に人気あるよね。可愛いよね?ほんとに振っちゃうの?」
また蒸し返してきた。せっかくラーメン食べてんのに、うるさいな。
「いや知らねえよ、人気とか。河瀬とか、なんか女子っぽくてめんどくさい」
ぶっきらぼうに言うと、小春は少し黙っていた。
しかし、またすぐに続ける。
「でも、でもさ、もうすぐ翔真の誕生日もあるし、河瀬さん何かプレゼントとかくれるんじゃないの」
「うるせえな」
今度はかなりキツめに言った。うっとうしかった。
小春に、こういうことを言われるのはこたえる。俺に気がないのが、よくわかるからだ。
今度こそ小春は黙り、そのままラーメンを食べ終え、お互いひとことも話さず帰路に着いた。
***
「やべ、定期がねえ」
家に帰って、定期入れを落としたことに気づいた。
学校を出て、バスから降りたときはあったのだから、たぶん公園あたりで落としたのではないか。
そう思った俺は、急いで公園に戻った。
公園の近くで、植え込みの下に落ちていた定期を発見した。
ほっとしていると、公園でブランコに乗る小春の後ろ姿が見えた。
こいつ何やってんだ、帰ったんじゃないのかよ。
声をかけるのも気まずくて、なんとなく遠目から見つつ立ち止まった。
小春はスマホで通話しているようだ。
「…って……から……と、思って…」
様子が変だ。
小春は、なんと泣いているらしかった。
ちょっと動揺した俺は、思わず聞き耳を立ててしまった。
小春が泣くなんて、何かあったのだろうか。いつも笑っていて、嫌なことがあっても翌日にはケロッとしてる奴なのに。
「…だって、今度こそ付き合っちゃうと思ったんだもん。だって河瀬さんだよ?誰が見ても可愛いし、あたしとは全然違うもん」
え、俺のことか?きつく言いすぎたのか?
「そんな、言えないよ今さら。振られたらもう一緒に帰ったりできないし。翔真のこと、こんな五年も、ずっと好きなのあたしだけだもん」
衝撃だった。
心臓が跳び跳ねるとは、こういう感覚なのか。
一瞬理解ができなくて、その後じわじわと顔に熱が集まっていく。
自分の心臓の鼓動が、耳もとで聞こえる。
「うん、わかった。これから愛梨のうちに行くね。…ありがと、それじゃ」
電話を切った小春は、俺に気づかず反対側の出口から帰っていった。
衝撃を受けすぎて動けなかった俺はもちろんチキン野郎だが、そこは勘弁してほしい。
俺の片思いはなにしろ十年にもなっており、生きてきた年数の半分以上だったのだから。
***
翌朝。小春が俺の家の前に立っていた。
「な、なんだよ、朝から」
どもってしまった。
顔も確実に赤面しているのがわかる。
はっきり言って目が見られない。
もしかしたら、告白されるのか?いや、それは俺が言うべきだ。心の準備は整ってないが。
そんな俺を不審そうに見ながら、小春が言う。
「…え、なに?具合悪いの?」
「ちげえよ」声が裏返った。もはや穴があったら入りたい。
「…あの、昨日は言いすぎてごめんね。
これ、おわびっていうか誕生日プレゼント」
「…なんだよ?これ」
思わず素に戻った。
差し出されたのは、ぺらぺらの長い紙だった。
「福来軒の食券、十枚セット!学生限定のやつね。…あれ、欲しがって…なかった?」
俺は吹き出した。
あまりにいつも通りの小春に、緊張しすぎていた俺は拍子抜けした。
そうしたら、なんだかめちゃくちゃおかしくなってきた。
そうなんだよな。
こいつとは、ずっと自然体でいられる。
だからいいんだ。
「え、なに?なに?変なものだった?いらなかった?」
あせる小春を見て、俺はなんとも言えない幸せな気持ちになった。
「…いや、嬉しい」
「え、だよね、だよね?よかったー、色々迷ったんだけど!」
「うん、だからさ、それは一緒に使おうな」
「…え?」
「とりあえず、今日ふたりで行こう。帰り、待ってるからな。あ、あとちょっと待って。俺も今出るから」
ラーメン食べながら告白したら、何て言うかな。
思わず小春が噴き出して、怒って振られたりしたら困るから、それはやめるか。
朝の光と、真っ赤になった小春の顔。
たまらなく愉快な気持ちになりながら、
俺はカバンをとりに家に戻った。
「ラッシャッセーぃ」
威勢のいい掛け声が店内に響く。
「ここ若者の店なんじゃないの?いいおっさんが来て大丈夫?」
「そんなことねーよ。おでんとか焼き鳥とかも充実してるしさ。おでんで何がうまいと思う?ここは芋よ、絶対」
同僚の高柳が熱弁する。
「おれは大根と卵が好きだけど」
適当に答えながら、カウンター席に並んで座る。椅子席が三席、あとはカウンターの狭い店である。店内は満席だった。
「どう、移動後の営業は」隣に座った、高柳が聞いてくる。
「どうってか…まあまあ慣れてはきたよ」
そうは言っても、畑違いの移動は、孝則にとって晴天の霹靂だった。
もともとは入社後から開発部に所属しており、そこでずっと太陽光の発電に携わってきた。それが四十をこえて、いきなり営業に回されようとは思わなかった。
もちろんすぐ仕事に慣れるはずもなく、この年にして新しいことばかりで四苦八苦している。
「まあ会社が決めたことだけどさ。とりあえず、そんな悩まないでやってみろよ。」
中学からの腐れ縁の高柳は、物事を深く考えすぎない性格であり、なんでも深読みしては悩んでしまう苦労性の孝則にとっては、一緒にいて気楽に過ごせる相手だった。
「生ビールふたつ」孝則が頼むと、
「はい喜んで~!」と店員が叫ぶ。
孝則は面食らいながらも、いつもちょっと笑ってしまう。
「高校のとき、山崎っていたじゃん。山崎達哉」
「ああ、確かB組にいたな。」
「そうそう。文集で担任の石山の悪口書きまくった、伝説の山崎」
「そうだったな。あれは笑ったわ。石山はまず口が臭い、ではじまるやつな。あいつがどうしたって?」
「会社興したらしいよ。それがこないだ倒産したって」
「まじか」
とりとめもない会話をかわしながら呑む酒には、罪がない。
「文集って言えば、“旅路の果て”っていう詩書いたよな、おまえ。」
小ばかにしたように高柳が俺を見る。
書いたかもしれない。当時どこかからそのフレーズを耳にして、雰囲気で書いた気がする。文集で書きたいことが、特になかったから。
「どこにいくかわからない。
なにになるかわからない。
旅路の果て、それがどこなのか、僕にはなにも見えない。…ははは、わからなすぎだろ」
「なんで覚えてんだよ」
「昨日山崎思い出してさ、文集読んだんだよ」
「あんのかよ家に」「ある」
物好きなやつだ。
ひとしきり思い出話をして、その日はおひらきとなった。
ひとり居酒屋の帰り歩いていると、月の輪郭がやけにくっきりして見えた。少し肌寒い。そういえば秋になるのか、街路樹の葉が赤く色づきはじめている。
月にみとれながら歩いていると、高校生とおぼしき若い男性にぶつかりそうになった。
「あぶねーな、おじさん」
おじさんじゃないもん。娘の結実の口癖を心で真似る。
もちろん実際には顔は無表情で、すっと会釈して避ける。
おじさんになっちゃったんだよなぁ。
おじさんと言われても、自覚がない。ここからおじさんだよ、のラインが見えない。
ふと鏡を見て、増えた白髪や目じりのしわに気づいたり、朝起きたらやたら腰が痛かったり。若い後輩と話がずれたり、そんなときに思うだけだ。年をとったんだなあと。
ただ、今でもはやりの曲は耳にするが、心が動かされるのは10代20代によく聴いた曲だ。
新しい曲をいいとは思うのだけれど、曲の中に何かの答えを探すような、心の奥底で何かが共鳴するような、そんな感覚に久しく出会っていない。
10代、20代のころは、自分のことだけ考えていればよかった。
30代、結婚をして子供ができた。その時から、孝則の一番は自分ではなくなった。
40代、親も年老いてきた。昔は何にも揺るがなかった親という存在。それが、いつしか守るべきものに変わってきている。
どんどん世界が加速してきているように感じる。いつもは目の前にある仕事をこなすだけで精一杯なのだが、突然歩き出せないような疲れを感じることがある。
こんなふうに、月を見上げることなんてなかったな。
旅路の果てってどこなんだろう。
そもそも、なんの旅路なんだろう。
俺は、どこに行こうとしているんだろう。
こんなことをこの年になっても、考えてしまう自分がいる。
どこにいくかわからない。
なにになるかわからない。
旅路の果て、それがどこなのか、
僕にはなにも見えない。
過去に適当につづった言葉が、酒のせいか何やら胸に迫ってくる。
わからないものは、わからないままで。
とりあえず今は、もう少し月をみていよう。
音もなく吹いた風が、そっと街路樹の葉を
一枚散らした。
まだ浅き春の夜に、朧月が浮かんでいる。
淡い光が、夜の森を歩く若い女を照らし出していた。
女は不死の力を持つ魔女であった。どれくらい生きているのか、もう当人も忘れてしまった。
その魔女は、百年に一度しか咲かないと言われる、アルネムルスの花を見つけたところだった。
花はまるで何かを包み込むように四枚の花弁が上を向いて丸まり、固く閉じられていた。
その花弁の中にあるという虹色の実に触れれば、不死になれると言われていた。
「やっと見つけた…これをミハイルに飲ませれば、私たちは永遠に共にいられる」
魔女は花を手に入れ、月夜に高く飛び去った。
***
魔女は男の住むあばら屋に降り立った。
男は学者であった。誰よりも深い知識と明晰な頭脳を持ち、自然を深く愛する優しい心を持っていた。
人を愛したことなど何百年もなかった魔女だが、彼のことを愛してしまった。
そして同時に、己の孤独に気づき、苛まれるようになった。
「ミハイル、今日はとても珍しい花を持ってきたわ。あら、どうしたの?」
「やあ、カサンドラ。ミルモナの花が咲いてきたんだ。夜にだけしか咲かないけれど、とてもきれいだから、眺めていたんだよ」
「あら、そうなの?もし良ければ、魔法で姿をとどめてあげましょうか」
「とんでもない。花は枯れるから美しいんだ。枯れるからこそ、今がなにより美しいんだよ」
それを聞いて、魔女はうなだれてしまった。
「どうしたの?カサンドラ。あれ、その手の花は…もしかして不死の花、アルネムルスかい?まさか…本当にあったなんて」
男は瞠目した。「なぜそれを…」
花に触れようとした男を、魔女はとどめた。
「触ってはだめ。もしこの中の実に触れれば、あなたは不死になってしまうのだもの。私が間違っていた。寂しさのあまり、あなたを不死にしようだなんて。自然の理を誰よりも愛するあなたを、ねじ曲げてしまうところだった」
魔女は花を投げ捨てた。庭木に当たり、花は弾けて中の実が飛び出した。
その実は魔女にぶつかって、身体の中にすうっと消えた。
「カサンドラ!」
「大丈夫よ、私はもともと不死だもの」
しかしカサンドラは、まもなく立っていられないほどのめまいと吐き気に襲われた。頭髪が白く変わってゆく。
「アルネムルスは不死の花…不死の君と交わって、反対の作用を起こしたのかもしれない」
男は泣きながら魔女を胸に抱いたが、何もできない。
魔女は急速に老いていた。もう言葉を口にするのも難しかった。
しかし魔女は、不思議な多幸感に包まれていた。魔女は、気が遠くなるほどの時間をひとりで生きていくことに、疲れていた。
ずっとずっと。
男を不死などにしなくて良かった。
移ろいゆく季節の中で、精一杯生き抜けるいのちのままで輝いてほしかった。
男の腕の中で生涯を終えられるのならば、
それは魔女にとって幸せなことだといえると思った。
ああ、この気持ちを、あなたに届けたい。
あなたに出会ったから気づけた。忘れかけていたことに。
愛している。
魔女は、虹色の光となって消えた。
その光は地中に吸い込まれた。
光の消えた場所に、アルネムルスの花が一輪咲いた。
男はその花に泣きながら近寄った。
この花は今日枯れるのだろう。
そしてまた、百年後に咲くのだ。
どこからともなく。
魔女のたましいのようなその花を、
男は枯れるまで微動だにせず見つめていた。
長い夜が明けようとしている。
残月が、男を淡く照らしていた。
色素の薄い、きれいな男の子だった。
砂場あそびをしていた私のそばに、おずおずと近づいてきて、こう言った。
「ぼく…レオ。…いっしょに」
これがレオと私の出会いだった。
ハーフであるレオは、恐ろしく目立つ外見をしていた。
透き通るほどに白い肌。くっきりとした二重に、薔薇色の頬。まさに天使だった。
そんなレオを周囲が放っておくわけもなく、ある者は憧れ、ある者は嫉妬した。なにかとまわりが騒がしいレオは、なぜか私のそばを好んで離れなかった。
「みんな呼んでるよ?」
「カホといるほうがいい」
困って私がレオに促しても、レオはひっそりと、でも頑固にゆずらなかった。
私はといえば、外見に反して控えめで優しい彼に好感を抱いていたが、年齢を重ねるごとにますます美しさに磨きがかかっていく彼に、気後れもしていた。
小学五年生になった、ある日だった。
「ぼく、お父さんの国に帰る」
明日から夏休みだという終業式の帰り道、レオは言った。
暑い日だった。深緑のすき間からさす陽光が、目に痛かった。
「…そんな急に」
「言えなかった」
レオはうつむいて立ち止まり、下唇を噛んだ。何か言いたげにしては、何度も顔を上げ、そして下げた。
五分ほどもそうしていただろうか。あまりの暑さに、私はついに歩きだした。私だって、何を言っていいかわからなかった。
「カホ」
慌てたレオの声が追ってくる。振り向くと、レオはかすかに言った。
「あい…I、LOVE…」
そのときだった。
「レオ!転校しちゃうんだって?」
レオの取り巻きたちだった。
彼女たちが来れば、私の出番はもうない。あっという間に取り囲まれ、私とレオの間に距離ができた。
とても入るすき間なんてない。私は再び歩きだした。
「カホ!」
見れば、彼女らをかきわけ、私のほうをまっすぐ指差すレオがいた。
指差すばかりで、言葉はない。
必死な表情だった。
でも、何がいいたいのかわからない。たまらなくなって、私は走って帰った。レオを置いて。
夏休みが明けてすぐ、レオは転校した。
教室の窓から見える飛行機雲ばかりみていて、私は先生に怒られた。
あのとき何を言いかけたのだろう。いつか訊けるときが来るだろうか。
何度目かの夏が来た。
高校生になった私は、教室で窓を眺めていた。
飛行機雲を探すのが、クセになっている。
「今日、転校生来るらしいよ!なんとハーフだって!」
隣の席の舞が興奮して話してくる。
「ほらきたよ」
教室に入ってきたのは、色素の薄い男の子だった。一瞬、目を見張るほど美しい顔立ちをしている。
私は息をのんだ。
「カホ」
そういって、彼はきれいに微笑みながら、声にならないなにかをつぶやき、私のほうをまっすぐに指差した。
あの日の続きが、訊けるかもしれない。
腹がへった。
夜中の12時。食べるべきではない時間。
でも、もうどうにも我慢できない。
冷蔵庫を開けようとしてやめる。
料理まではしたくないし、かといってすぐ食べられるようなものもなかったはず。
炊飯器をあけると、ちょうど茶碗一杯ぶんくらいのごはんが残っていた。
それを見て、思い出した。
「お腹減ったの?こんな時間に?そっか、受験勉強中だもんね」
「うう…うん。でもいいよ、寝るし」
「大丈夫。サッとできるやつがあるから」
両親が事故で突然他界して、俺はその頃6歳離れた姉とふたりで暮らしていた。
「ごはん、ちょっと残ってるね」
そう言って、姉は小鍋にごはんをあけた。
ひたひたに水を注ぎ、粉末タイプの味噌汁のもとを入れる。弱火にかけると、まもなく味噌のいい香りがふんわりとしてきた。
ふつふつと音を立てて、ごはんが柔らかくなっていく。
台所の角に、こんこんと音を立てて卵を割ると、姉は箸でしゃかしゃかと小気味良く卵をといた。それを小鍋に回しかける。
火をとめて、蓋をして少し待つ。
「はい」
茶碗に盛られた即席おじやは、中央に梅干しがひとつ、ぽんと置かれていた。
「うまそう…」
「ふふん。包丁も使わないしね。夜だから、お腹に優しいほうがいいでしょ」
得意気に俺を見つめる姉に礼を言い、味わって食べた。
姉は結婚が決まっている彼氏がいたのだが、両親の事故を受け結婚をやめてしまった。
俺を一人にするわけにいかなかったのだろう。
俺は結婚してほしいと言ったが、姉は頑として聞き入れなかった。
あれから五年。受験にも無事成功し、大学も卒業した。なんとか就職も見つけることができ、一人で自活することができている。
姉もようやく安心したのか、結婚の決意を固めたようだった。
あのとき結婚を諦めた彼は、この五年間ずっと姉を支えてきたらしく、その間に彼は転勤があった。姉は近々、見知らぬ街へ引っ越すことになりそうだ。
小鍋にごはんと水をいれて火にかける。たしか卵もあったはずだ。粉末の味噌汁を入れると、まもなくあのときと同じ香りが台所に立ち込めた。
姉がもし旦那とケンカなんかしてうちに来たら、これを作ってやろう。
きっとすぐ仲直りする気になるはずだ。
だってこれは、自分を大切にしてくれる人を思い出す味だから。