まだ浅き春の夜に、朧月が浮かんでいる。
淡い光が、夜の森を歩く若い女を照らし出していた。
女は不死の力を持つ魔女であった。どれくらい生きているのか、もう当人も忘れてしまった。
その魔女は、百年に一度しか咲かないと言われる、アルネムルスの花を見つけたところだった。
花はまるで何かを包み込むように四枚の花弁が上を向いて丸まり、固く閉じられていた。
その花弁の中にあるという虹色の実に触れれば、不死になれると言われていた。
「やっと見つけた…これをミハイルに飲ませれば、私たちは永遠に共にいられる」
魔女は花を手に入れ、月夜に高く飛び去った。
***
魔女は男の住むあばら屋に降り立った。
男は学者であった。誰よりも深い知識と明晰な頭脳を持ち、自然を深く愛する優しい心を持っていた。
人を愛したことなど何百年もなかった魔女だが、彼のことを愛してしまった。
そして同時に、己の孤独に気づき、苛まれるようになった。
「ミハイル、今日はとても珍しい花を持ってきたわ。あら、どうしたの?」
「やあ、カサンドラ。ミルモナの花が咲いてきたんだ。夜にだけしか咲かないけれど、とてもきれいだから、眺めていたんだよ」
「あら、そうなの?もし良ければ、魔法で姿をとどめてあげましょうか」
「とんでもない。花は枯れるから美しいんだ。枯れるからこそ、今がなにより美しいんだよ」
それを聞いて、魔女はうなだれてしまった。
「どうしたの?カサンドラ。あれ、その手の花は…もしかして不死の花、アルネムルスかい?まさか…本当にあったなんて」
男は瞠目した。「なぜそれを…」
花に触れようとした男を、魔女はとどめた。
「触ってはだめ。もしこの中の実に触れれば、あなたは不死になってしまうのだもの。私が間違っていた。寂しさのあまり、あなたを不死にしようだなんて。自然の理を誰よりも愛するあなたを、ねじ曲げてしまうところだった」
魔女は花を投げ捨てた。庭木に当たり、花は弾けて中の実が飛び出した。
その実は魔女にぶつかって、身体の中にすうっと消えた。
「カサンドラ!」
「大丈夫よ、私はもともと不死だもの」
しかしカサンドラは、まもなく立っていられないほどのめまいと吐き気に襲われた。頭髪が白く変わってゆく。
「アルネムルスは不死の花…不死の君と交わって、反対の作用を起こしたのかもしれない」
男は泣きながら魔女を胸に抱いたが、何もできない。
魔女は急速に老いていた。もう言葉を口にするのも難しかった。
しかし魔女は、不思議な多幸感に包まれていた。魔女は、気が遠くなるほどの時間をひとりで生きていくことに、疲れていた。
ずっとずっと。
男を不死などにしなくて良かった。
移ろいゆく季節の中で、精一杯生き抜けるいのちのままで輝いてほしかった。
男の腕の中で生涯を終えられるのならば、
それは魔女にとって幸せなことだといえると思った。
ああ、この気持ちを、あなたに届けたい。
あなたに出会ったから気づけた。忘れかけていたことに。
愛している。
魔女は、虹色の光となって消えた。
その光は地中に吸い込まれた。
光の消えた場所に、アルネムルスの花が一輪咲いた。
男はその花に泣きながら近寄った。
この花は今日枯れるのだろう。
そしてまた、百年後に咲くのだ。
どこからともなく。
魔女のたましいのようなその花を、
男は枯れるまで微動だにせず見つめていた。
長い夜が明けようとしている。
残月が、男を淡く照らしていた。
1/30/2024, 3:52:36 PM