香る夢

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3/16/2024, 6:50:09 AM

毎日は、小さな波乱に満ちている。
人との関わりの中で心が千々に乱れていく。

叫び出すほどの怒りや苦痛でなくとも、心の小さなささくれに、それは引っかかる。

日々にだんだん新鮮さがなくなり、毎日がなんだか繰り返しで、色褪せていくような気がしている。


時計を見ると、もう午後二時を回っていた。

小学二年生になる娘の帰りが、予定よりどう見ても毎日遅いので、今日はこっそり迎えにいくつもりだ。
大人の足では十五分ほどの距離なのに、なぜか一時間くらいかかる。

車のエンジンをかけて、運転席に滑り込む。春先の道には、まだところどころ残雪が見える。

運転していると、下校してゆく娘に行き逢った。こんな時間になっても、まだ学校のそばを歩いている。

私はふと、車を停めて、娘のことを観察することにした。

娘は、まず道にしゃがみこみ、何かをしげしげと覗き込んだ。

それから手を伸ばし、まだ溶けきらない歩道の雪に手をのせる。
それから、なにか鼻唄を楽しそうにうたいながら、指でひとつひとつ、雪の上にあとをつけてゆく。

その点が七つほどになったころ、私は車を発進させた。娘に声はかけなかった。


そして思う。

こんなふうに歩いてゆくとしたら、それはなんて、色鮮やかな時間だろう。

私にとっては、いかに早く目的地に着けるかと、時間をはかるだけの距離だ。
あたたかくなった、くらいは感じるかもしれない。でも、歩道の雪はただの薄汚れた白だ。

娘には、何色に映っているんだろう。

道に、なにを見つけたのだろう。

指に感じた冬の残りは、どんな感触だったろう。

昔は私だって、冬の朝、氷った水溜まりをいちいち割りながら登校して、遅刻したのだ。

バックミラーに映る自分の顔を見やった。
いつのまに、こんな冷めた表情をするようになったんだろう。

私はおとなになったのだ。

日々はもっと大変な、手のかかる出来事でいっぱいだ。心配事もつきない。
私は、忙しいのだから、仕方ない。

でも。

仕方ないと思うことは、幸せなんだろうか。

微かな疑問が心に湧いた。


***


夕食の時間、娘を呼びにいくと、なにやらざらざらとした音がする。

後ろからこっそりのぞいてみると、晩酌に使うぐい呑みに、娘が金平糖を袋からざぁーっと流し込んでいた。

机の上は、こぼれ落ちた金平糖だらけだ。

「ちょっ…なにしてんの?」

私が聞くと、ほがらかに娘は答えた。

「お空から星が溢れてくるよー!あははは!」

「そ、空…?」

「うん!このコップ、お空みたいでしょ」

旦那お気に入りの、そのぐい呑みの色は紺碧だ。そこに銀の波もようがはいっており、なるほど銀河にみえなくもない。

ぐい呑みの銀河に、金平糖のお星様か。

怒るのも忘れて、私は感心してしまった。


娘が見ている、色鮮やかな日々のことを教えてもらおう。

春になったら、一緒に帰り道を散策しよう。たまにしか出来なくても。

私も、手に届く星を見つけたい。


道路の片隅に、ちいさなふきのとうが顔を出していた。

2/27/2024, 2:36:24 PM

あたしは、ゲームをしながら現実逃避している。

あたしは、学校に行ってない。
なかよしグループの実桜とケンカして、嫌な気分になった。そしたら、だいっきらいな担任のオノヅカに怒られて、ますますいやになった。
そのあとの体育の高跳びは大失敗したし、次の日学校に行ったら、実桜に無視された。その次の日も。

そうしてるうちにどんどん嫌になってきて、毎日頭が痛くなるようになった。
病院に行ったり、薬を飲んだり、つらいときは保健室に行くようにしたけれど、治らなかった。

朝必ず頭が痛くなるし、夜も明日のことを考えると痛くなる。
そんなことは望んでないのに。
学校に行かなくちゃいけないのに、頭が痛い。痛くてこわい。
あたしはめそめそ泣くようになった。それが嫌で、もっとめそめそするようになった。

ついに学校に行ったら熱がでちゃうようになり、帰ってきたら下がるので、おかあさんと先生が困ったように話をしてた。
ジリツシンケイとか難しい単語が何度もでたけど、よくわからない。とにかく頭が痛くなるのが嫌だ。


お母さんが、学校を休んでいいといった。ほっとして、何日間か休んでいたけど、だんだん不安になった。でも行きたくない。

それであたしは、現実逃避している。
現実逃避っていうのは、お兄ちゃんから聞いた。お前、ゲンジツトーヒしててもどうにもならないぞって。
意味がわからないから聞いた。現実逃避っていうのは、やらなければならないことから、イトテキに目を背けること、みたいな意味らしい。
イトテキってのは、わかってて、ってことかな。
その通りだと思った。


お母さんが、心配そうな顔しかしなくなったのも知ってるけど、あたしにもどうにもできない。頭が痛くなるのさえなければ、学校に行くのに。嫌だけど。



そんなある日の朝、あたしは登校するかどうかをお母さんと話し合った。

あたしは突然、びっくりするくらいにスイッチが入ってしまって、泣きじゃくった。
学校が嫌いなんじゃない。でも怖いんだ。

行ったら、また頭が痛くなる。
そしたら先生に言わなきゃいけなくなる。
誰もそんな子いないのに、毎日頭が痛くなるなんて。
みんな変に思うよ。思ってるよ。あのときまでは、普通に行けてたのに。

どうして?なんでみんなと同じくできなくなったの?わからないけどこわいよ。なにが怖いのかもわからなくてこわいよ。
そういって泣いた。

そしたらお母さんは、言った。

「いいんじゃない。私だって、立ち止まることがあるから。」

涙でぐしゃぐしゃの顔をこすって、あたしはお母さんにきいた。
「どんなとき?」

「そうだなぁ。失恋したときは、しばらく恋なんかできないって怖くなったよね。恋愛から遠ざかったり。
いじめられて仕事を辞めたときは、しばらく働くのが怖くて休んじゃった。
夜中に飛び起きて、悩んでの繰り返しだった。

大好きなおばあちゃんが亡くなったときは、おばあちゃんを思い出すものを、なんにも見られなくなった。

自分が辛いとき、最高に傷つく言葉を言われたときは、何年も恨んだっけ。その相手とずーっと仲良くできなかったなあ。

台風で、ひどい被害にあったときは、そのあと何年も風が怖かった。少し風の強い日は、耳栓しないと過ごせなかったりね。

まだまだあるよ?」

「そんなに…?」

「そうだよ。いやなことがあったとき、立ち止まるのはみんな一緒。

立ち止まる場所も、時間も年齢も長さも別々だけど、みんな一緒だよ。

ふつうに過ごしてるようにみえたって、その人のなかでは、なにかに立ち止まってることもたくさんあるよ。
大人だって子どもだっておじいちゃんだっておばあちゃんだって。
もしかしたらお友達や、先生たちだってそうかもね」

「そうかな」

「うん。今回美優は、ここで立ち止まったけど、焦んなくたっていいよ。
みんな一緒だから。ゆっくりやってけば、また歩き出せるよ。
美優が歩き出したいと思ってる限りは。

私は、美優が歩き出すのを手伝いたいな。美優のことが好きだから。
つらそうな顔より、笑っててほしいから」

お母さんは、あたしの頬を優しくなでた。

「美優がどうしたいか知りたいな。フツウって美優は言うけどさ、私は、美優をフツウにしたいわけじゃないから。
美優がしたいことを知りたい」

お母さんはそういって笑った。



次の日あたしは、ランドセルを持って居間に行った。

「…一時間だけ行ってみようかな」

お母さんは、なんでもないことみたいに言った。

「あ、そう?いいんじゃない?美優がそう決めたなら。いつでも迎えに行くよ。気分が乗ったならトライしてみな、人生はいつだって立ち止まれるんだから」

やっぱり頭は痛いから、頭痛薬は飲んだ。
でも、一時間だけなら。

「頭痛くなったら、保健室に行ってもいいんだよね?」

「いいじゃん。」

「つらくなったら帰ってきても?」

「いいよ。迎えに行く。帰ってきたらゲームしよう。私の仕事終わってからだけどね」

「大丈夫かな」

「大丈夫だよ。てか、大丈夫じゃなくて大丈夫。」

お母さんはにっこり笑った。

「私が立ち止まったときは、応援してね。
今は私が、美優を応援するね」

そう言われて、なんだか気持ちがしゃっきりした。
そっか、あたしも、誰かの応援、できるのか。

「立ち止まることを知ったら、立ち止まってる人の気持ちが少しわかるようになるよ。美優、素敵な子になったね」

涙が引っ込んだ。

とりあえず行ってみよう。

あたしも、誰かを応援できるようになりたいから。


帰ってきたらまた、ご褒美にゲームしよう。

そう思いながら、あたしはそっとゲンジツに足を踏み出してみた。

2/26/2024, 9:34:59 AM

二月も半ばになって降る雪は、雨混じりで湿っている。

踏んだそばからじんわりと、まわりがグレーになって、淡く溶けていく。

「寒いんだよね」
となりを歩く沙保が言う。
「まあ、まだ二月だし」
私が答えると、沙保は口を尖らせた。

「まだ、ってか、もうじゃん。あと少ししかないよ、うちらが同じクラスでいられることは。」
「それはわかんないじゃん」

四月から、私たちは五年生になる。
高学年というものになる。
児童会も始まるし、沙保はもう書記に当選している。

クラスの中では、恋愛の話もぼちぼちでてきた。誰が誰を好きだとか、毎日教室のどこかでそんな話がささやかれている。

流行りに敏感な子は、どこの洗顔を使ってるとか、ここの美容液はいいとか、この服のブランドが好きだとか、そんなことばかり話している。

私にとっては、なんだか最近、学校は居心地の悪い場所だ。

みんなでトランプしてても、すぐ誰かと誰かがケンカしてしまう。

なんだかとてもめんどくさい。

なんとなく途切れがちに話していると、学校が見えてきた。玄関にいるのは、詩織のようだった。

詩織と私と沙保、最近はこの三人でつるむことが多い。詩織と沙保は流行に敏感なほうなので、私は会話がつまらないと内心思っている。

「今日、漢字の小テストだね」
「え、やばい。八十点以下追試でしょ」

そんなことを話す二人にそれとなく相づちをうちながら、教室に入る。
冬の朝の教室は、シンプルに寒い。
換気とかいって、ちょくちょく窓を全開にするし。そのくせ上着を着てはいけない。
お母さんが心配して、ババシャツみたいなやつを勧めてきたけど断固拒否した。
首から見えたら、クラスの中での位置が危うくなる。
私たちは動物園の猿みたいに寄せ集まって、寒さをしのいだ。

「ちょ、光太。なんで半袖なん」
「暑くね?」

クラスメイトの光太は、お調子者だ。
この寒いのに、なぜか半袖で教室の中を駆け回っている。
変わったことをするのはいつものことなので、一応一度は突っ込むけれど、みんなそれ以上は取り合わない。

チャイムが鳴ると、みんな大人しく席に着いた。朝から怒られるのは面倒だし、そんな元気なんてない。低学年じゃあるまいし。

「起立、おはようございます」
日直が朝の会を進めていくのを、私は頭のすみでぼんやりと見ている。


昼休みに事件は起こった。

光太が、となりの席の七海をぶったのだ。

七海は耳の横で二つに結んだ髪を振り乱しながら、大泣きした。

「親切のつもりだったのに!」

光太は顔を真っ赤にしたまま、何も言わなかったので、駆けつけた先生にしこたま怒られた。
でも、頑として理由は言わなかった。

光太は放課後まで、固く口を結んでいた。


「七海さあ、光太になんで殴られたと思う」
詩織が言う。

「さあ、またなんか腹の立つこと言ったんでしょ、七海が。」

七海は虚言癖があるのだ。
親がロサンゼルスに住んでたことがあるとか、映画監督と知り合いだとか。
世界一周旅行に夏休み行くだとか。
めんどくさいからみんな取り合わないけど、そんなことばかり言っている。かまってちゃん、て奴なんだと思う。

「それがさあ、光太の妹の千夏が関係してるらしい」
「え、二年生の?」


内容はこうだった。

昼休みに二年生の担任が、私たちの担任に事情を説明していたのを、七海は聞いてしまった。
いつも同じ服を着ているといって、二年生のクラスメイトが、光太の妹の千夏ちゃんをバカにしたらしいという内容だった。
それで、千夏ちゃんは、光太のところに駆け込んできて泣いたのだ。

それを聞いた光太は、黙って自分のトレーナーを脱いで、千夏ちゃんに着せたのだった。それで光太は、半袖だったのだ。

光太の家は、光太が二年生のときに離婚した。お母さんが出ていってしまったのだ。なぜか、光太はお父さんとは住まずに、おばあちゃんと住んでいるらしい。
でも、そのおばあちゃんの具合が良くないのよって、お母さんが誰かと電話していた。

七海はそのことを知り、光太にこう言ったのだ。

「あたしのもう着なくなったお下がり、千夏にあげるよ。そしたらかわいそうなんて言われなくなるじゃん」

光太はそれが許せなかったようだ。

「あーあ」
私たちはいっぺんにため息を吐いた。
そういうことじゃないのになあ。

そんなこと言ったら、いつも同じ服じゃん、て言った子たちと同じなのに。

光太がなんで、いじめた子たちに殴りかからないで、黙って服を着せたのか、わかんないんだなあ。

「え、なんで?」
詩織が言うと、沙保は答えた。

「だからあ。そんなことに負けんな、ってことだよ」

私もそう思う。
あのプライドの高い光太のことを、七海はなんにもわかっちゃいないんだ。

「光太、めったに殴ったりしないのにね、うるさいけど」
「よっぽど腹が立ったんだね、知らんけど」

私たちはそう言いながら、ちらほら雪を吐く陰鬱な空の下に続く玄関をくぐった。


帰り道、バス停にいくと、光太がいた。
ジャンバーも着ず、相変わらず半袖のままだった。
体も、顔も真っ赤だ。痛いほどに。
雪は、降り続けている。

とくにかける言葉はない。少し間を置いて、私は自分のジャンバーを脱いで、トレーナーだけになった。

ジャンバーを光太に貸したりはしない。
そんな関係じゃない。
光太のほうを見もしないで、ただジャンバーを腕に抱えた。すごく寒いと思った。

光太がこっちを見ているのを感じる。
でも、何も言わなかった。
お互いになんにも言わないで、前をにらみつけながら、バスを待った。

鉛色の風景の中を、オレンジ色のライトを照らしながらバスが走ってきた。
乗ろうとした刹那、光太が私の腕をつかんだ。

視線が合った。


「冬なんて寒くねーよな」
光太が、そういって笑った。


「寒くねーわ」
私も笑った。



この雪がやんだら、きっと春が来る。

2/7/2024, 8:47:21 AM

時計の針は、24時をまわっていた。

帰ってきてから、ひと眠りしてしまったらしい。
化粧もなにもかもそのままで、着替えもせずにちょっとソファで横になったが最後。起きられやしない。

平日は情けなくもこんな感じだ。
帰ってきて、身体にいいものを自炊して、ゆっくりお風呂に入ってリラックスして。
そんなふうに過ごしたいけれど、もう職場にいる時点で全ての力を使い果たしてしまっているのだ。

帰路はふらふら、家のドアを開ければ半死半生、コンビニで買ったごはんで腹を満たせば即気絶。それでいいのか、私。
良くはない。良くはないが。
とりあえず、化粧だけでも落とそう。
気合いをいれて立ち上がる。

と、足に何かがぶつかって、バランスを崩した。
「あっ…」
彩花から借りたキャリーケースだ。
しまった、明後日使うから返せと言ってなかったか。
あわててラインをみると、彩花から鬼ラインがきていた。やばい。

でももう真夜中だし…。
でも明日も遅くなりそうだしなあ。
私、彩花と違ってクルマないしなあ。
とりあえず、急ぎラインだけ打っとこ。

謝りのラインをすると、すぐに返信が来る。

『これから取りに行くわ』

え、これから?どうしよう、部屋も強盗が入ったみたいだし、化粧もとれかけだし。
でも、彩花だしまあいいか。
部屋着に着替えよ。
なんかお詫びになるようなもの、なかったかな…。

ややしばらくして、チャイムが鳴った。

「こんばんは」私が言う。

「あ、ども。ごめんね、こんな遅くに」

「や、悪いの完全に私だから。こんな真夜中にごめんね、来てもらって。」

「真夜中って」

彩花を家にあげて、お茶をいれる。

「ごめんね、彩花、明後日使うんだよね。キャリーケース」

「え?いや違うよ。明後日は出張なくなって、一週間後。ラインしたじゃん」
やばい、ちゃんと読んでなかった。

「今日じゃなくてもいいなら持っていったのに、私」

「や、今日のがいいでしょうよ」

彩花が手さげ袋から何か出す。

「誕生日おめでとう」

「あ」

リボンの結ばれたワインと、大きめのラッピングされた袋。それに惣菜のパック。
机に並べて置き、彩花がニッと笑う。

「忘れてたんでしょ。だと思ったよ。」

「ありがとう…昨日6日だったんだ」

「え、昨日じゃないよ。今日だよ。まだ十時だって。え、時計壊れてんじゃん。」

スマホを見れば、確かに午後10時を少し過ぎたところだった。時計が止まっていたのだ。いつから?
時間はいつもスマホを見るので、わからなかった。

「最近サエコ忙しそうだもんね。ごはんとか食べてないんじゃないかと思って、惣菜買ってきた。野菜多めの」

「そのラッピングしてある袋は…」

「これ?ツボ押しぬいぐるみ!椅子にかけて使ってよ。めっちゃかわいいアザラシがツボ押してくれるから」

「もう結婚してくれ」

私がそう言うと、彩花は「キモッ」と言いながら惣菜のパックをあけた。

「ほら祝おー。誕生日おめでとう」

私がワイン、彩花は烏龍茶で乾杯することにした。ひといきついたら、時計を直そう。
明日からは、アザラシにツボを押してもらおう。

少しずつ頑張ろう。

あたたかな気持ちが、ゆっくりと広がっていく。

ひさびさに満たされた気持ちで、私は二杯目のワインを注いだ。

2/3/2024, 7:38:51 AM

海からほど近い港町に、子どもの頃3ヶ月くらい住んだことがある。

そのころの生活は最悪で、何かあれば容赦なく殴る父親と、ふたりで暮らしていた。
僕はいつも空腹で、それを外で遊んでまぎらわせていた。

あるうららかな春の昼下がり、いつものように不機嫌な父に殴られて、僕は頬を赤くして外を歩いていた。
すると、やわらかな声に呼び止められた。

「あら、お顔どうしたの?」

顔をあげると、真っ白なエプロンをつけた優しそうなおばさんが、心配げに僕を見ている。

「…」

なんと言っていいかわからず、うつむいた。

それと同時に、僕のお腹から、ぎゅるると大きな音がした。
すると、おばさんは優しく僕の手を取った。

「そこのお店についといで」

見れば、目の前には、青い看板が目立つ小さな大衆食堂があった。

おばさんはそこに入ると、僕を座らせ、自分はカウンターの奥に消えていった。
所在無げに足をぶらぶらさせていると、しばらくしてとてもいい匂いがしてきた。
おばさんが出てきて、僕の前に美味しそうなオムライスを置いた。

「おばさんが作ったからね。おいしいよ、食べてごらん」

ほんわりとしたたまご色のオムライスの真ん中に、赤いトマトケチャップでハートが描かれていた。
僕は気まずさも忘れて、一心不乱に食べた。どのくらいぶりかわからない、あたたかいご飯だった。

食べ終わると、おばさんが満足そうにこちらを見ていた。
そこで僕は、お金がないことに気づいた。
幼な心に、それがとても悪いことのように思えて、思わず外に飛び出した。

そして、あたりを駆け回って、とても可愛い花が道の脇にたくさん咲いているのを見つけた。
それを摘めるだけ摘んで、おばさんの元に戻った。
おばさんに差し出すと、目の端にしわを寄せて、とても嬉しそうに笑ってくれた。


その後も何度かおばさんに出会い、ごはんをごちそうしてもらった。
しょっちゅう殴られていたので、どこかしら腫れていたり青くなったりしていた僕を気の毒に思ったのかもしれない。
ごちそうしてもらうたび、花を摘んで持っていった。
彼女の存在は、寂しかった僕の心を癒した。ごはんも嬉しかったが、なによりその笑顔に会いたかった。


親戚の家に預けられることが決まり、僕は港町を離れた。
それきり、そのおばさんには会っていない。何度も折に触れ思い出したのだが、残念ながら店の名前を忘れてしまった。
店にあった金色の招き猫が、妙に印象に残っていた。

***

あれから長い年月が経った。

僕は三十年ぶりに、この港町を訪ねた。

うろ覚えの記憶で、あの大衆食堂を探す。
だが、見つけられない。
(ここのはずなんだけど…)
隣を歩く息子と手を繋ぎながら、僕はキョロキョロと周りを見回した。
すると、息子が叫んだ。

「ねー、おばあちゃんがなんか変だよ」

足を押さえて、電柱によりかかる老婦が目に入った。

「大丈夫ですか?」

僕が駆け寄ると、老婦はこちらを見た。顔色が悪い。
近くの公園まで支えて歩き、ベンチに座らせる。水を買ってきて飲ませると、老婦はほっと息をついた。

「ご迷惑おかけして、すみませんねえ」
「いえ、大丈夫ですか?」

僕がいうと、老婦は微笑んだ。

「いつも、健康のために散歩をしているんですけど。膝が痛くてねえ。長年やっていた仕事をやめてからは、特に痛むの。ずっと何十年も立ち仕事をしていたからかしらね」
「なんのお仕事だったんですか?」
「食堂よ。小さなね。ほんとの大衆食堂よ」

僕はそこで引っ掛かるものを感じた。

「あの、もしかして…それは、青い看板の店だったりしますか?カウンターもあって、金色の招き猫がいて…」
「あら、きたことあった?食堂とみ川、よ。」

そういって、老婦がにっこりと微笑んだ。
その瞬間、僕の頭のなかで、目の前の老婦と、とあのときのおばさんが重なった。

「ぼくのこと…覚えていませんか?」
焦ってきいてしまったが、わかるわけはなかった。何度かしか関わりはなかったのだし、僕はあれからもういい大人になってしまったのだから。

それでも、僕はこの人に会いに来たのだ。
でも、なんていっていいかわからない。

そのとき、ブランコに乗ろうとしていた息子が言った。

「ねー、綺麗なお花だよ、パパ」

指差した先に、小さな花が咲いていた。

「あら、勿忘草。このお花ね、私の大好きな花なのよ。昔、このあたりにかわいい男の子がいてね。ごはんをごちそうしてあげると、決まってこのお花を摘んできてくれるの。可愛かったわあ。突然会えなくなってしまったけど…元気でいるのかしら」


「元気で、いますよ」


僕は、噛み締めるように言った。

「あなたに、たくさんしたい話があるんです」



瑠璃色の勿忘草が、春の風に優しく揺れていた。

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