海からほど近い港町に、子どもの頃3ヶ月くらい住んだことがある。
そのころの生活は最悪で、何かあれば容赦なく殴る父親と、ふたりで暮らしていた。
僕はいつも空腹で、それを外で遊んでまぎらわせていた。
あるうららかな春の昼下がり、いつものように不機嫌な父に殴られて、僕は頬を赤くして外を歩いていた。
すると、やわらかな声に呼び止められた。
「あら、お顔どうしたの?」
顔をあげると、真っ白なエプロンをつけた優しそうなおばさんが、心配げに僕を見ている。
「…」
なんと言っていいかわからず、うつむいた。
それと同時に、僕のお腹から、ぎゅるると大きな音がした。
すると、おばさんは優しく僕の手を取った。
「そこのお店についといで」
見れば、目の前には、青い看板が目立つ小さな大衆食堂があった。
おばさんはそこに入ると、僕を座らせ、自分はカウンターの奥に消えていった。
所在無げに足をぶらぶらさせていると、しばらくしてとてもいい匂いがしてきた。
おばさんが出てきて、僕の前に美味しそうなオムライスを置いた。
「おばさんが作ったからね。おいしいよ、食べてごらん」
ほんわりとしたたまご色のオムライスの真ん中に、赤いトマトケチャップでハートが描かれていた。
僕は気まずさも忘れて、一心不乱に食べた。どのくらいぶりかわからない、あたたかいご飯だった。
食べ終わると、おばさんが満足そうにこちらを見ていた。
そこで僕は、お金がないことに気づいた。
幼な心に、それがとても悪いことのように思えて、思わず外に飛び出した。
そして、あたりを駆け回って、とても可愛い花が道の脇にたくさん咲いているのを見つけた。
それを摘めるだけ摘んで、おばさんの元に戻った。
おばさんに差し出すと、目の端にしわを寄せて、とても嬉しそうに笑ってくれた。
その後も何度かおばさんに出会い、ごはんをごちそうしてもらった。
しょっちゅう殴られていたので、どこかしら腫れていたり青くなったりしていた僕を気の毒に思ったのかもしれない。
ごちそうしてもらうたび、花を摘んで持っていった。
彼女の存在は、寂しかった僕の心を癒した。ごはんも嬉しかったが、なによりその笑顔に会いたかった。
親戚の家に預けられることが決まり、僕は港町を離れた。
それきり、そのおばさんには会っていない。何度も折に触れ思い出したのだが、残念ながら店の名前を忘れてしまった。
店にあった金色の招き猫が、妙に印象に残っていた。
***
あれから長い年月が経った。
僕は三十年ぶりに、この港町を訪ねた。
うろ覚えの記憶で、あの大衆食堂を探す。
だが、見つけられない。
(ここのはずなんだけど…)
隣を歩く息子と手を繋ぎながら、僕はキョロキョロと周りを見回した。
すると、息子が叫んだ。
「ねー、おばあちゃんがなんか変だよ」
足を押さえて、電柱によりかかる老婦が目に入った。
「大丈夫ですか?」
僕が駆け寄ると、老婦はこちらを見た。顔色が悪い。
近くの公園まで支えて歩き、ベンチに座らせる。水を買ってきて飲ませると、老婦はほっと息をついた。
「ご迷惑おかけして、すみませんねえ」
「いえ、大丈夫ですか?」
僕がいうと、老婦は微笑んだ。
「いつも、健康のために散歩をしているんですけど。膝が痛くてねえ。長年やっていた仕事をやめてからは、特に痛むの。ずっと何十年も立ち仕事をしていたからかしらね」
「なんのお仕事だったんですか?」
「食堂よ。小さなね。ほんとの大衆食堂よ」
僕はそこで引っ掛かるものを感じた。
「あの、もしかして…それは、青い看板の店だったりしますか?カウンターもあって、金色の招き猫がいて…」
「あら、きたことあった?食堂とみ川、よ。」
そういって、老婦がにっこりと微笑んだ。
その瞬間、僕の頭のなかで、目の前の老婦と、とあのときのおばさんが重なった。
「ぼくのこと…覚えていませんか?」
焦ってきいてしまったが、わかるわけはなかった。何度かしか関わりはなかったのだし、僕はあれからもういい大人になってしまったのだから。
それでも、僕はこの人に会いに来たのだ。
でも、なんていっていいかわからない。
そのとき、ブランコに乗ろうとしていた息子が言った。
「ねー、綺麗なお花だよ、パパ」
指差した先に、小さな花が咲いていた。
「あら、勿忘草。このお花ね、私の大好きな花なのよ。昔、このあたりにかわいい男の子がいてね。ごはんをごちそうしてあげると、決まってこのお花を摘んできてくれるの。可愛かったわあ。突然会えなくなってしまったけど…元気でいるのかしら」
「元気で、いますよ」
僕は、噛み締めるように言った。
「あなたに、たくさんしたい話があるんです」
瑠璃色の勿忘草が、春の風に優しく揺れていた。
2/3/2024, 7:38:51 AM