香る夢

Open App

「ラッシャッセーぃ」

威勢のいい掛け声が店内に響く。
「ここ若者の店なんじゃないの?いいおっさんが来て大丈夫?」
「そんなことねーよ。おでんとか焼き鳥とかも充実してるしさ。おでんで何がうまいと思う?ここは芋よ、絶対」
同僚の高柳が熱弁する。
「おれは大根と卵が好きだけど」
適当に答えながら、カウンター席に並んで座る。椅子席が三席、あとはカウンターの狭い店である。店内は満席だった。

「どう、移動後の営業は」隣に座った、高柳が聞いてくる。
「どうってか…まあまあ慣れてはきたよ」

そうは言っても、畑違いの移動は、孝則にとって晴天の霹靂だった。
もともとは入社後から開発部に所属しており、そこでずっと太陽光の発電に携わってきた。それが四十をこえて、いきなり営業に回されようとは思わなかった。

もちろんすぐ仕事に慣れるはずもなく、この年にして新しいことばかりで四苦八苦している。

「まあ会社が決めたことだけどさ。とりあえず、そんな悩まないでやってみろよ。」

中学からの腐れ縁の高柳は、物事を深く考えすぎない性格であり、なんでも深読みしては悩んでしまう苦労性の孝則にとっては、一緒にいて気楽に過ごせる相手だった。

「生ビールふたつ」孝則が頼むと、
「はい喜んで~!」と店員が叫ぶ。
孝則は面食らいながらも、いつもちょっと笑ってしまう。

「高校のとき、山崎っていたじゃん。山崎達哉」
「ああ、確かB組にいたな。」
「そうそう。文集で担任の石山の悪口書きまくった、伝説の山崎」
「そうだったな。あれは笑ったわ。石山はまず口が臭い、ではじまるやつな。あいつがどうしたって?」
「会社興したらしいよ。それがこないだ倒産したって」
「まじか」

とりとめもない会話をかわしながら呑む酒には、罪がない。
「文集って言えば、“旅路の果て”っていう詩書いたよな、おまえ。」
小ばかにしたように高柳が俺を見る。
書いたかもしれない。当時どこかからそのフレーズを耳にして、雰囲気で書いた気がする。文集で書きたいことが、特になかったから。

「どこにいくかわからない。
 なにになるかわからない。
 旅路の果て、それがどこなのか、僕にはなにも見えない。…ははは、わからなすぎだろ」
「なんで覚えてんだよ」
「昨日山崎思い出してさ、文集読んだんだよ」
「あんのかよ家に」「ある」
物好きなやつだ。
ひとしきり思い出話をして、その日はおひらきとなった。

ひとり居酒屋の帰り歩いていると、月の輪郭がやけにくっきりして見えた。少し肌寒い。そういえば秋になるのか、街路樹の葉が赤く色づきはじめている。

月にみとれながら歩いていると、高校生とおぼしき若い男性にぶつかりそうになった。

「あぶねーな、おじさん」
おじさんじゃないもん。娘の結実の口癖を心で真似る。
もちろん実際には顔は無表情で、すっと会釈して避ける。

おじさんになっちゃったんだよなぁ。
おじさんと言われても、自覚がない。ここからおじさんだよ、のラインが見えない。

ふと鏡を見て、増えた白髪や目じりのしわに気づいたり、朝起きたらやたら腰が痛かったり。若い後輩と話がずれたり、そんなときに思うだけだ。年をとったんだなあと。

ただ、今でもはやりの曲は耳にするが、心が動かされるのは10代20代によく聴いた曲だ。
新しい曲をいいとは思うのだけれど、曲の中に何かの答えを探すような、心の奥底で何かが共鳴するような、そんな感覚に久しく出会っていない。

10代、20代のころは、自分のことだけ考えていればよかった。

30代、結婚をして子供ができた。その時から、孝則の一番は自分ではなくなった。

40代、親も年老いてきた。昔は何にも揺るがなかった親という存在。それが、いつしか守るべきものに変わってきている。

どんどん世界が加速してきているように感じる。いつもは目の前にある仕事をこなすだけで精一杯なのだが、突然歩き出せないような疲れを感じることがある。

こんなふうに、月を見上げることなんてなかったな。

旅路の果てってどこなんだろう。
そもそも、なんの旅路なんだろう。
俺は、どこに行こうとしているんだろう。
こんなことをこの年になっても、考えてしまう自分がいる。

どこにいくかわからない。
なにになるかわからない。
旅路の果て、それがどこなのか、
僕にはなにも見えない。

過去に適当につづった言葉が、酒のせいか何やら胸に迫ってくる。

わからないものは、わからないままで。

とりあえず今は、もう少し月をみていよう。


音もなく吹いた風が、そっと街路樹の葉を
一枚散らした。

2/1/2024, 5:52:48 AM