“形の無いもの"
懐かしい匂いがした気がした。書類に目を通すのをやめ、顔をあげると湯気のたつコーヒカップを手にした後輩と目が合った。
「紅茶、飲みます?」
そっとカップを持ち上げて尋ねる後輩に軽く首をふると、ですよねえと間髪いれずに気の抜けた返事がかえってきた。
「でも、この紅茶すっごい高級ブランドのやつみたいですよ?入れ物からもう違いましたもん」
「知ってるよ、黒くて丸い缶のだろ?」
「……先輩って紅茶詳しいんです?」
高級な紅茶へのうっとりとした表情をがらりとかえ、胡乱げな目でこちらをみる後輩に、その紅茶だけだよと答えて席をたつ。俺もコーヒー淹れてこようかな、と空のカップを手にした俺の背に今、給湯器混んでるかもですよぉと後輩の声がした。
フルーティで少しだけ甘い匂いがするあの紅茶の香りはアイツの好きな紅茶の香りだった。コーヒーの強い匂いが嫌いだと俺がコーヒーを飲むのを見ては眉を潜めていたアイツの顔を思い出す。アイツが嫌いなのは、コーヒーの匂いじゃなくてコーヒーをブラックで飲めないことが俺にバレることだと気づいたのはいつだったっけ。
あまりにくだらなくてすっかり本人に言及するのを忘れていたけれど、次に会った時にはちゃんといってやろう。きっと俺にバレていた恥ずかしさとわざわざ言われたことへの怒りで頭から湯気を噴き出して喚き散らすのだろう。
後輩の言った通り、高級紅茶のせいか時間帯のせいか混み合う給湯器からポコポコと湯気が上がる様にアイツの姿が重なって思わず笑いがこぼれる。今日くらいはアイツの好きな紅茶にしてみようかな、と紅茶の入ったティーポットに手を伸ばしてみた。
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タイトルに沿えてるか微妙ですが、、、
“秋恋”
深夜一時の屋上にはいつも先客がいる。息を潜めて慎重に、内緒で複製した鍵をつかって忍び込む寮の屋上には、今日もまあるい頭の後ろ姿があった。生まれつき、色素が薄いのだという明るい髪に月の光が差し込んでまるでそこにも月が浮かんでいるみたいに白く浮き上がってみえる。キレイだなと思いながら俺は一歩一歩とその月に向かって歩を進める。
きっともう俺が来ていることに気づいているだろうに、彼はぴくりとも動かない。ただコンテナを逆さにしただけの即席のベンチにちょこんと座って、鼻歌を歌っている。俺も何も言わずに近くに置いてある壊れかけの椅子に座って、持ってきていた本を広げる。ここに来る度同じ本をもってきていることにだって、きっと気づいているだろうにやっぱり彼は何も言わずにじっと空を見つめている。
今日の歌は俺の知らない歌だった。日中の彼の、不遜な姿からは想像もできないような柔らかくて温かいその歌声を知っているのはきっと俺だけだと思うとなんともいえない優越感を覚える。少し勿体ない様な気持ちもするけれど、やっぱりこの歌声を聴けるのはこの屋上でだけがいい。大して読んでもいないのに、俺はなんとなくでページをめくった。
普段の彼を例えるならば取り扱い注意の傷だらけの湯沸かし器あたりだろうと思う。喜怒哀楽がはっきりしていて、特に怒りの沸点が低くすぐに怒る。怒ると手が出て足が出て、鼓膜が破けそうなほどの怒鳴り声も出る。正直に言えば苦手なタイプだ。だけど。
深夜一時の屋上に、ひっそりと座る彼はまるでタマノカンザシの様だった。夜に白い花を咲かせる姿が、月明かりに照らされながら静かに歌う後ろ姿によく似合う。
ああ、好きだなあとその横顔を眺めて思う。ため息をつきたくなるような綺麗な横顔を、できれば夜の屋上でだけでなくずっと横で見ていたいと、気づけばそう思うようになっていた。友情では収まらない感情を俺は今日も持て余しながらページをめくる。彼の鼻歌はまだ終わりそうにない。
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その内修正します
“花畑”
待ち合わせ時間まであと10分。腕時計の時間を確認して、私は周りに誰もいないのにはあとわざとらしくため息をつく。
淡い青緑色のリボンのついた、白いストローハットの少し大きめのつばを少しつまんで位置を調整する。ふんわりと柔らかい初夏の風が、この日のために用意した白いワンピースの裾を持ち上げる。誰もみていないからと風に吹かれて膨らむそれを抑えることもなく眺める。
ストンとした薄い胸に、肉付きの良くない筋肉ばかりがついていく手足に女子の平均より少し高い身長に、肩でばっさりと切りそろえられた癖のない髪。真顔だと怒っているみたいだと敬遠される可愛げのない顔。声だって低くて大きくて、口調だって可愛くない。こんな格好、似合わないことなんてわかってる。
もう一度ため息をついたところでスマートフォンが震えて、メッセージの受信を伝える。メッセージの送り主は待ち合わせ相手で、もうすぐ着くよとのことだ。てっきり遅刻の連絡かと思っていたのに、律儀なやつめと舌打ちをする。はやくしろ、と送ったメッセージには既読がつかないまま、うっすらと彼の姿が見えてきた。あっちからも見えているだろうか、なんだか唐突に帰りたくなってきてスマートフォンを握る手に力が入る。
こんならしくない格好、きっと変に思われる。彼の姿が大きくなるにつれて私の自信はどんどんとしおれていった。顔を上げていられなくなって俯いた視界に彼の影が映る。ごめんね、待った?まるでデートの待ち合わせみたいなセリフにどっと全身が熱くなった気がする。
取り繕う様にぶっきらぼうな声色で遅いと吐き出すと彼がふっと笑った。
「服、いつもと雰囲気違うね」
「……似合ってないって言いたいの?」
「そんなことないよ。今日の行き先にぴったりでかわいいなって」
「……うるさい」
彼の左手が私の右手にそっと触れた。デートみたいな、じゃない。本当にデートなんだった。ずっと仲の良い友達だったのに、二人きりででかけることだってあったのに。今は私ばかりが意識しているみたいて癪にさわる。
初めてのデートは花畑がいいなんて、ロマンチストなことを言ったのは彼の方なのに。
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着地点が迷子になったのでそのうち修正します
“本気の恋”
パチンと柔らかい音と共に右の頬が熱くなる。あ、叩かれたと思った時にはもう叩いた相手は涙を数滴地面に落として走り出していた。
ああ、またか。ゆっくり小さくなっていく背中を見送りながらため息をつく。ちょっと走ればすぐにあの細い腕を掴んで小さな身体を抱きとめられる。バックハグして、ごめんね大好きだよと囁いてやればいいのだ。きっとあの子もそれを望んでいるだろうに。俺の足は少しも動く気分じゃないみたいだった。
まあ良いや。あの子が走り去った方に背を向けて数歩歩いたところであっと声が漏れた。あの子、左利きだったんだ。今更それに気付いたところでどうしようもない。車どころか人気すらない十字路で足を止める。
信号待ちの間にメッセージアプリを開く。数週間前にやり取りをした腐れ縁の名前を探し出して画面を開く。今度の女とは上手くやれよ、と素っ気ない一文で締めくくられたその下に、今さっき別れたよとメッセージを送る。
速攻で付いた既読の文字に思わず笑いがこぼれる。どんな顔でこのメッセージを読んだのだろう。ガラス細工みたいに繊細で取り付く島もない冷淡なふりをして、身内には分かりづらく甘いあの男がいつも通りの整った顔のまま、少しだけ細い眉をひそめる姿を思い浮かべる。
『今回は短かったな』
ややあって、かかった時間のわりに短いメッセージが返ってくる。そうだったか?と彼とのやり取りを見返していくと確かに前回は一ヶ月ほど続いていたから、それに比べたら二週間強は短いかもしれない。ああ、そうだ。あの子に告白された時、確か左手を差し出された瞬間に何となくその手を握ってしまおうと思ったのだった。多分、あの子が左利きだったから。
彼と同じ、左利きだったからあの手を握ってしまったんだ。申し訳ないことをしたな。頭の隅に走り去っていく小さい背中を思い浮かべながらも、俺は思いつきのまま通話ボタンを押す。もちろん通話相手は別れたばかりのあの子じゃない。
『……なんだよ』
ワンコールの内に出た彼の不機嫌そうな声にどうしようもなく心が弾む。君の声が聴きたくなったんだ冗談を言うみたいなフリをして答えると電話の先の彼がフッと笑う感じがした。ああ、好きだなと思った。
私のこと、本気で好きじゃないんでしょ!彼女の言葉を思い出す。ごめんね、そうなんだ。俺の本気の恋はずっとずっとたった一人の、絶対に叶わない相手へ向けられているんだ。
“カレンダー”
カレンダーを貰った。軍人の執務室に飾るには、あまりにも可愛らしすぎるパステル調のイラストが散りばめられた壁にかけるタイプの月めくりの大きなカレンダーだ。
思い立って立ち寄った店で手帳を買った際に、ニコニコと笑う良い歳の店主に押されてつい受け取ってしまったが、店主も店主だろう。
こんな無骨で無愛想でがっちりと軍服に身を包んだ大男に、こんなものを押し付けるなんて。とはいえ、捨てるのも忍びなくどこに飾れば一番違和感がないだろうかと部屋を見回す。勲章やら賞状やら、色々と書き込まれたホワイトボードやら上着やらが厳めしくも掛けられた壁にはそもそも悩むほどの場所がなく、諦めて机の脇の空いていたスペースにかけることにした。
かけてみれば案外しっくりくる様な気がしてぱらぱらと捲ってみる。どうやらこのカレンダーに描かれたキャラクターたちにはそれぞれ誕生日が設定されているらしく、所々に赤文字でハッピーバースデイの文字が踊っていた。なるほど、こういう使い方があるのか。
徐ろにペンを取り出して、思い出せる限りの知り合いの誕生日に丸を入れていく。数ヶ月先の日付に丸をつけながら、明日にでも死ぬかもしれないと思いながら生きてきた日々を思い出す。何ヶ月も先の誰かの誕生日なんて話をする希望も余裕もなかったけれど、今はそれができる様になったのだ。
この先もずっと出来るように、この沢山書き入れた丸の日を無事に迎えることができるように、少しだけ祈りを込めて丸をつけていく。
たった数分でこのファンシーなカレンダーは随分と部屋に馴染んだ気がする。いや、カレンダーが部屋に馴染んだのではなくて、この部屋がカレンダーの雰囲気に馴染んだのかもしれない。
何となく良い気分になって、どっしりとした椅子に腰掛ける。悪くない。可愛らしいカレンダーも、平和な毎日も、きっとこれからずっと当たり前になるのだ。