君の声がする
朝、ベッドの上で目覚めた時。朝食の目玉焼きにケチャップをかけた時。実のない会議からやっと開放された時。コーヒーにミルクを入れすぎてしまった時。へとへとになりながら帰宅した時。いつか、君の声がするんじゃないか、と耳をすます。
随分とお寝坊さんじゃないか。ケチャップを跳ねさせるなよ。お疲れ様、どうだった。ちょうどミルクたっぷりのコーヒーが飲みたかったんだ、ありがとう。おかえり、今日もお疲れ様、君の好きな夕飯を用意してるよ。きっと君ならそういって、涼し気な印象の強い目を緩ませてへにゃりと笑いかけてくれるだろう。うんと昔の君の姿を思いだす。あれから何年経ったかな。君も私もまだ学生服を着ていたけれど、もしも君がここにいたら、今はどんな服を着ているのだろうね。
真っ暗なリビングの明かりをつける。帰り道で買った夕飯をレンジにぶち込んで、カーテンをしめてテレビをつける。
君と二人で夕飯を食べる時はいつもテレビは消していた。どれだけ一緒に暮らしていたっておしゃべりな君の話はつきなくて、テレビなんて見ている暇もなかったっけ。
またコンビニ弁当か?全くずぼらなんだから。呆れたふうに、でも底抜けに愛おしそうに笑う君の声が聞こえた気がした。
君の背中。
背中の傷は、逃げ傷というのだという。敵に背を向けて無様に敗走した者にのみ残る傷、ということらしい。背中の傷の一つひとつに軟膏を塗りながら背後で君がやわく笑う。
「実にお前らしいな、敗走兵」
「……君は顔面を大怪我していたけどね」
顔面の大怪我はいったいどれほどの誉れなんだろうね、皮肉っぽく言ってやろうと思った言葉は、傷を触る彼の指先の優しさに感化されたのか思いの外甘い色になっていた。ふふん、と不満を現す彼の鼻息もどこか甘い。
楽しげに傷をなぞる指先は、やわくて繊細でよく手入れがされているようだった。昔はもう少しささくれだっていて指の皮も固くて、荒れていた気がする。指の付け根には様々な武器によるタコなんかもよくできていた。
ふ、と自分の指を見る。記憶の中の彼の指の様に俺の手のひらは相変わらず手入れが足りてない荒れた手のひらだった。それでも、もうこの手のひらにタコも怪我もない。
「君の背中は、きっと綺麗なんだろうね」
「……お前よりはずっと、な」
ギシリ、とベッドが軋む音がして背後の彼が立ち上がる気配がした。放り投げていたTシャツを掴みながら振り向くと、彼は既に部屋のドアに手をかけていた。ありがとうと声をかけると、振り向かずにヒラヒラと手を振って去っていった。
誰も知らない秘密
ずっと気になってたんですけど、それなんなんですか?他愛もない世間話が途切れたタイミングで、目の前の後輩がそう切り出した。雑談がてら目を通していた書類から顔をあげると、机の端に置いてあるクイーンの駒を指さしていた。
「ずっとそこに置いてますよね、他の駒はないんですか?」
指をさしつつも、一定の距離を保って触れないようにしている後輩の気の利きっぷりに見習わなければなあと感心しつつ、駒を手に取る。別に触られて困るものではないよと手渡そうとしたけれど丁重に断られてしまった。
「絶対大事なものじゃないですか、なんか嫌です」
「本当にたいしたものじゃないんだ。ただ、なんとなく記念みたいなもので」
「記念……ですか」
駒の代わりに、先程まで目を通していた書類を渡すとまだ名残惜しそうにしつつ、後輩は部屋を出ていった。
誰もいなくなったところで手の中の駒を日の光に当てると駒の底に彫られたアルファベットが透けてみえる。誰も知らないこの駒の秘密。元々のこの駒の持ち主はきっとこの駒たちは宇宙の塵にでもなったと思っているだろう。まさかこの俺がひっそり抱えているなんて、そしてこのアルファベットの意味に気づいているなんて、思いもしないだろう。
誰も知らない俺だけの秘密
heart to heart
深夜にふ、と目が覚めた。目覚ましもかけずにゆったりと眠れるなんてそうそうない、貴重な日だというのに。こういう時に限って目が覚めてしまう。どうせ今日はいつまでだって眠れるのだから夜中にちょっと起き上がったって支障はない。やけにはっきりと覚醒してしまった頭でそう割り切って起き上がる。
時刻は午前4時を迎えたばかりで、あと少しすれば外が明るくなるころだろうか。オーバーサイズすぎて外では着られないからと他人(ひと)に押し付けられたカーディガンを羽織り、立ち上がる。
寝室のドアを軽く開けたところで、リビングの明かりが目に飛び込んできて、どうやら誰かがいるらしいことに気がついた。相変わらずの神出鬼没ぶりに溜息をつく。そのほんの少しの空気の揺らぎに気がついたのか、ひょっこりと電気をつけた張本人が顔を覗かせた。
「やあ、早起きだね」
「……ああ、誰かさんが起こしてくれたおかげでな」
本当に気が利かないだけなのか、気づいていた上で嫌味を言っているのか。何年側にいてもわからない。逆光で表情はぼやけているが、どうせいつもと同じスカしたとぼけ顔をしているのだろう。相手にするだけこちらのストレスが溜まるばかりだ。
「嘘つけ、さっき起こしにいった時は爆睡してたくせに」
「こんな時間に起こそうとするやつがいるかよ!」
リビングに立ちふさがるデリカシーのない大男の肩を押しのけ、椅子に腰をおろす。おおげさに押しのけられた肩を押さえてついてきた男のスカした顔に、くっきりとした隈が住みついているのが見えた。
「それで、いつまでいるんだ?」
「……できれば明日の朝まではいたいんだけどね」
コンコンと男が手元の端末を爪で叩く。その端末が一度でもなればそれが一分後でも数時間後でも、すぐにここを出るということで、そしてその端末がなる可能性は非常に高い、ということなんだろう。
そんな隈まで作って、わざわざここまで来なくたって。そんな言葉は飲み込んで、そうかとだけ短く答える。そんなことはこいつだってわかってて、それでも俺が爆睡しているとわかっていても、それでもここに来たのが全てだ。
インスタントのコーヒーを淹れる背中にそっと近づいて寄りかかる。重いよ、と彼が笑うのに合わせて、広い背中が小刻みに揺れる。
「ミルク多めに入れろよ」
「あれ、ミルク入れるの好きだっけ」
「……ブラックじゃ眠れなくなるだろ」
「そっか」
彼が話すたび、背中が揺れる。彼の心臓が動くたび、とくとくと音がする。それが面白くて笑っているとこそばゆいからそこで笑うなと言われて余計におかしくなった。
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永遠の花束
制作中