ココロオドル
消します
“奇跡をもう一度”
君に初めてあった時。君の涼やかな目に、俺の姿が映ったあの一瞬は間違いなく奇跡だったのだと思う。
緊張と高揚とでやけに大きく明るい声ばかりが飛び交う校門のすぐ近くのピロティ前。大きく張り出された合格者一覧を一心不乱に見つめる学生たちを眺めながら俺は一人、近くにあった大きな木にもたれかかっていた。
混雑を避けて、遅い時間に来たつもりがおそらく同じ学校出身でまとまって来たらしいかなりの人数の集団と被ってしまったせいで、その人の壁を押しのけて前にでることもできず、どうしたものかと考えていたときだった。
きゃあ、と女の子の集団が叫び声をあげるほど強い風が急に吹いて、俺の手の中にあった受験番号がかかれた紙が舞い上がった。咄嗟に出た手はただ空を掴み、まあ受験番号なんて他にも確認しようがあるから良いか、と切り替えようと思ったところで白い細い指がそっとその紙を差し出してきた。
お前のだろう、とその指や細い身体からは想像していなかった凛とした芯のある声がして顔をあげると、なるほど声の通り凛とした顔の女性がむすりと口をへの字にして俺を睨んでいた。
「あ、ありがとう」
「ございます、だろう。私は先輩だ」
「あ、すみません。ありがとうございます」
こんなところにいるのだ、同じ受験生だろうと思ってかけた言葉遣いに彼女の口はへの字から富士山くらいになってしまった。ギロリ、と音が聞こえそうなほどに睨みあげてくるビー玉みたいにキラキラした目の中に、情けない顔をした俺が映っていた。
ふんっと鼻を鳴らして、立ち去る彼女の背中を眺めながら俺は手の中の紙を握りしめた。
そんなことを思い出して、俺は手の中の卒業証書を握りしめた。結局、在学中に彼女に再会することはなかった。一学年に数百人といて、覚えきれないほどの学部の存在するこの大学でたった一人の名前も所属学部もわからない人に巡り合うなんて奇跡はそう簡単には起こらないものだ。
それでも俺は二度目の奇跡を夢見ることをやめられずにここに立っている。初めて彼女に出会った樹の下で、ただひたすら、起きるはずのない奇跡を待っている。
“たそがれ”
空のほとんどを星空に乗っ取られ、地平線の彼方へと追いやられた太陽が最期に放つ夕日の強い光が真横から突き刺してくる中を、俺は待ち合わせ場所まで走っていた。約束の時間はもうとっくに過ぎていた。
気の短い彼女のことだ、もう帰ってしまったかもしれない。いや、そもそも来ていないかもしれない。遅れる旨の連絡には既読がつくばかりで彼女からの返事はない。信号待ちの間に横目でちらりと確認をしながら、上がる息を整える。
鈍ったな、とふと考える。衰えた、とはまだ思いたくない。三十路を過ぎ、デスクワークばかりになって、趣味といえば機械いじりと運動する機会はめっきり減ってしまった。少し前まではジムに通っていたけれど、なんだかんだと足が遠のいてしまっていて、風呂上がりのストレッチくらいでしか体を動かすことがなくなっていた。
短く息を吐きながら、ひたすら目的地まで走る。やっぱりジムに通うか、ランニングでも始めるか。悲鳴をあげだす体には気づかないふりをして、最後の関門である緩やかな坂を登り切ると、人気のない小さな公園の柵にもたれ掛かる様にして立つ人影が見えた。強い夕日の光のせいで夕日に背を向けて夜空を眺める彼女の顔ははっきりと見えないけれど、それでもあのまあるい頭の形は見慣れた彼女のものだった。
あと数歩、というところで息が上がって立ち尽くす俺を彼女が首だけ回して振り向いた。
「いいご身分だな、急に呼びつけておいて一時間も待たせるなんて」
「……ごめん、急なトラブルがあって」
でも、君が来てくれるなんて思わなかった。そう言うと、顔の半分を夕日で照らされもう半分はその影に飲み込まれた彼女がふん、と鼻を鳴らした。
「誰かさんが情けないメッセージを寄越すから、どんな情けない顔してくるか気になっただけ」
「俺、今情けない顔してる?」
一歩二歩と近づいてくる、相変わらず憎たらしいほど自信に溢れた顔つきの彼女に問いかけながら自分の顔に手のひらを当てる。そういえば、最近は最低限の身なりしか気にしていなかったな。もうちょっとちゃんと整えてくれば良かった。走ってきたから、髪も乱れていることだろう。いつだってサラサラの彼女の髪が歩く度揺れるのを横目に顔に当てた手を髪に伸ばそうとしたところで彼女整えられた綺麗な爪先が俺の眉間をトンとついた。
「いつも通りの情けない顔だな」
「……いつも通り、か」
ありがとう、ふと口をついた言葉に彼女がやっぱりふん、と鼻から息を吐く。会うのはもう何年ぶりだろうというのに変わらない彼女の態度に心がじんわり温かくなっていくのを感じた。
“窓から見える景色”
火曜日の午前10時。いつも通り空いている窓際の席に荷物を置いていつも通りの注文をしにレジへ向かう。いつの間にか顔を覚えられていた、母親くらいの歳の店員さんにおはようと声をかけられた。はちみつ入りのカフェラテのホット、Lサイズ。余ったら持って帰れる様にテイクアウト用の紙のカップに入れてもらう。
少し前までは毎回聞かれていたけれど、最近はもう何も言わずに紙のカップに入った状態で渡されるから少しだけ気恥ずかしい。ありがとうございます、と軽く頭を下げて受け取ったカップはスリーブ越しでもほんのりと温かい。
ごゆっくりどうぞ、というお決まりの言葉を背中に聞きながら窓際の特等席に戻る。窓際の席より、レジに近い席の方がコンセントがあって都合が良いのだろう、いつも窓際の席は空いている。窓の外では、今から仕事なのだろうスーツを着た大人たちがせかせかと歩いている。大人って大変だな、あと数年もしたら俺もあの中に仲間入りするのかあ、嫌だなあ。一生モラトリアムを謳歌していたいな、なんて考えながらカフェラテを啜る。
そろそろアイツが通り過ぎる頃だろうか。英単語帳を鞄から取りだすついでに時間を確認するとちょうど良い時間になっていた。毎日なのか、たまたま火曜日だけなのか必ずこの時間にこの前を通り過ぎて行く男を認識したのはこのカフェに通い始めて結構すぐのことだったと思う。この時間帯に私服で通る男なんていくらでもいるのに、なんでかあの男のことだけは忘れられないのだ。
今日も彼はモデルかと思うほど姿勢良く、肩で風を切る様に歩いて行く。白いセーターにグレーのチノパンが蛍光灯の光を浴びて輝いている様だった。当然こちらには目もくれず歩いて行く背中を目で追いながら、思わず漏れそうになった言葉を少しぬるくなったカフェラテで流し込んだ。
一生モラトリアムを謳歌していたい。窓から見える景色を眺めながら、俺はやっぱりそんなことを考えていた。
“形の無いもの"
懐かしい匂いがした気がした。書類に目を通すのをやめ、顔をあげると湯気のたつコーヒカップを手にした後輩と目が合った。
「紅茶、飲みます?」
そっとカップを持ち上げて尋ねる後輩に軽く首をふると、ですよねえと間髪いれずに気の抜けた返事がかえってきた。
「でも、この紅茶すっごい高級ブランドのやつみたいですよ?入れ物からもう違いましたもん」
「知ってるよ、黒くて丸い缶のだろ?」
「……先輩って紅茶詳しいんです?」
高級な紅茶へのうっとりとした表情をがらりとかえ、胡乱げな目でこちらをみる後輩に、その紅茶だけだよと答えて席をたつ。俺もコーヒー淹れてこようかな、と空のカップを手にした俺の背に今、給湯器混んでるかもですよぉと後輩の声がした。
フルーティで少しだけ甘い匂いがするあの紅茶の香りはアイツの好きな紅茶の香りだった。コーヒーの強い匂いが嫌いだと俺がコーヒーを飲むのを見ては眉を潜めていたアイツの顔を思い出す。アイツが嫌いなのは、コーヒーの匂いじゃなくてコーヒーをブラックで飲めないことが俺にバレることだと気づいたのはいつだったっけ。
あまりにくだらなくてすっかり本人に言及するのを忘れていたけれど、次に会った時にはちゃんといってやろう。きっと俺にバレていた恥ずかしさとわざわざ言われたことへの怒りで頭から湯気を噴き出して喚き散らすのだろう。
後輩の言った通り、高級紅茶のせいか時間帯のせいか混み合う給湯器からポコポコと湯気が上がる様にアイツの姿が重なって思わず笑いがこぼれる。今日くらいはアイツの好きな紅茶にしてみようかな、と紅茶の入ったティーポットに手を伸ばしてみた。
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タイトルに沿えてるか微妙ですが、、、