ただいま、夏。
古い民家の縁側に一人の少年が座っている。いかにもインドアらしい細く白い裸足の足をぶらぶらと揺らしながら空を眺めている。隣にはお気に入りのぬいぐるみが一つ、いや一羽というべきか。小さな羽を畳んで、少年の腕にもたれ掛かるように座っている。
都心に住む少年を、おじいちゃんおばあちゃんに会いたいだろう、とむりやり車に押し込んでここまで連れてきた両親は他の親戚やら祖父母やらのご機嫌取りに忙しいのだろう。少年を一通り親戚連中への挨拶に引きずり回した後はお役御免とわずかなお小遣いだけ寄越して放り出して見向きもしない。
少年に歳の近い親戚もいるが、無愛想で無口な少年と遊ぶより優しい大人たちと遊ぶ方が楽しいのだろう。誰一人挨拶以上に少年に絡む者はいなかった。
騒がしいことは好きではない少年にとってはむしろ好都合で、気付かれていないことをいいことに人気のない離れの方まで足を運んでいた。都心とは桁違いの蝉の声は少年の見た目よりずっと落ち着いた低い囁き声をかき消して、仮に人が通りかかったとしてもただ少年がつまらなそうに空を眺めている様にしか見えないだろう。
それを良いことに、少年は何を気にすることもなくひたすら思い付いたままに隣のぬいぐるみに話かけている。
「……毎年毎年飽きないよね、大人ってほんと面倒くさい」
「子供も煩いしさ、なんなのあれ」
「ていうか、何で毎年夏なわけ?暑いし最悪なんだけど」
「……どうせ放置するくせになんで僕まで連れてくるわけ?」
「そりゃあ俺がお前に会いたかったからだよ」
ぼそぼそと返事を求めるでもなく口から溢れだしていた愚痴に突然返事があり少年のだんだんと下がっていた視線が上がった。いつの間にやら少年の目の前には少年よりいくらか歳上の、すらりと背の高い青年が立っていた。
少年を見下ろす眼はビー玉の様に澄んでいて、ぽつんと縁側に座り込む少年の、歳不相応に諦念を滲ませた顔を映してきらめいている。
「ほら、行こう」
「どこに」
「……お前の好きな、静かな場所だよ」
「ふうん」
急かすように差し出された不健康そうな白い手と、ビー玉の瞳との間で暫く視線を彷徨わせていた少年の耳に、遠くから蝉の鳴き声の隙間を縫って親戚たちの声が届いた。
少年は一度だけぎゅうと目をつむり、そして差し出された手を取り立ち上がる。握りしめた青年の手はやけに冷たくて、そして懐かしい感じがした。
「しょうがないから付いていってあげる」
囁いた言葉とは裏腹に、少年はとても晴れやかな表情を浮かべていて、青年はそんな少年を慈しむように見つめていた。
「……おかえり」
「なにそれ」
まあ、いいけどさと笑って繋いだ手をふる二人の足元に影はない。縁側にぽつんと残されたぬいぐるみが一羽、寂しげに二人の背中を眺めていた。
ただいま、夏。
眩しくて
恋ってすごく素敵なんですよ。そう秘密をそっと打ち明けるみたいに囁いた少女はウエディンググローブをした細い人差し指で僕の眉間を軽く押す。なんとなくばつが悪くて目を泳がすと彼女のむき出しの肩越しに、白いタキシードを着た男と目があった。
なんとも複雑なその顔に、恋なんていうものに振り回される人生はごめんだな、と心の中でそっと呟く。まあ、僕は人間じゃないから"人"生ではないし恋なんて感情は持ち合わせていないけれど。
ほら、後ろの男が焦れているぞと視線で訴えてやれば彼女はあらあらと口許に手を当てて笑った。
「恋をするとね、相手のことがすごく眩しく感じるの。眩しくって見ていられなくて、でも凄く見つめていたくなるのよ」
「面倒だね、その恋ってやつは」
「そうなの、面倒だけどとても素敵よ」
白いドレスをふわりと浮かせて振り向く彼女は、愛する男を見つけたとたんに眩しいものを見るように目を細めた。春の穏やかな日だまりを眺める様な、そんな優しくて温かい目が、ふと脳裏に浮かんで瞬きをする。
「……なに?」
「いや、なんも?」
少女の声とは似ても似つかない、感情の薄い少年の声に我に帰る。ここは、春の教会の華やかさとはかけはなれた冬の民家の居間で、ここには僕と少年の二人しかいない。分厚い雲に覆われて雪を降らす空はそもそも夜で。なんであの時のことを思い出したんだっけ。
「ねえ、眉間にシワよってるよ。」
ぶっきらぼうに囁いた少年が、ウエディンググローブでもつけてるのかと見紛うほどの白い指で眉間を指差した。嫌なことでも思い出したの?無表情ではあるけれど、長い付き合いだからわかるほんの少しの心配がのった目が上目使いでこちらを見る。
その瞳に映る僕は、あの時のあの少女と同じ目をしていた。
「……ちょっと眩しかっただけ」
は?眩しい?目の病気なんじゃないの?神様なのに。とたんに呆れた顔をしてそっぽを向いた彼の横顔から目が離せなくなる。眩しくて見ていられなくってでも見ていたくって……。いつか、あなたもそんな恋ができると良いわね。死ぬ間際に、やっぱり秘密を打ち明けるみたいに笑って言われた言葉が、どこからか聴こえてきた気がした。
虹のはじまりを探して
朝から降ったりやんだりの雨を、窓から見上げている憎らしげな顔が急に明るくなったような気がした。手に持っていただけで対して読み進められてもいない新聞を適当に置いて、どうしたのかと尋ねれば随分とご機嫌を取り戻した声が、ほらみて!と鼓膜を揺らした。
窓にくっつける様に指す、細い人差し指を追って視線を向ければ明るくなった表情と比例する様に随分と明るくなった青空に虹が浮かんでいる。
天気の変わりやすいこの地域で虹はそう珍しいものでもない。それでもこんなにも表情が変わるのだから不思議なやつだ。普段はもう少し大人ぶってみせる凪いだ青空の瞳がこんなにもキラキラと輝いていることの方が珍しい気もする。
「虹の端でも、探しに行くか?」
幼い頃、初めて虹を見た彼女がおんなじキラキラの瞳で見上げて来た日を思い出したらふとそんな言葉が口をついていた。
そういえば、あの日も雨で不機嫌だったのに虹を見たとたんにご機嫌になって、そして有無を言わさず小さくてやわっこい手で俺を虹の麓まで連れていこうとしていたっけ。
その手を離さないように、傷つけないように、握りしめながら一生懸命虹の端というものは存在しないのだと科学の説明をしたことを思い出す。きっと同じようなことを思い出したのだろう俺をみあげる白い顔にさっと朱が走った。
「もう子供扱いしないでよ!」
拗ねた様に尖らす唇に湧き出す想いには蓋をして、白いおでこにキスを落とす。だから子供扱いしないでってば!という声にハイハイと答えて虹を見上げる。
虹のはじまりを探しているのは、いつだって俺の方だ。
星を追いかけて
夜空を、無数の流れ星が世話しなく駆け抜けていく。まるで飴がたっぷり詰まったキャンディージャーを思いっきりひっくり返した様な騒がしさだ。
流星群を眺めるために外に出たらしいファミリーの、幼い子どもがあげる歓声が聴こえてくる。
あの歓声をあげる子どもと同じくらいに小さな頃に、少し前を歩く兄の丸い後頭部に向けて問いかけた言葉がふいに頭を掠めていった。
「ねえ、あのお星さまはどこへ行くの?」
兄はそこでやっと空を駆ける星々に気づいた様で、はたと足をとめ空を仰いだ。やっと兄に追いついた僕も、兄と同じように空を見上げる。
夏の間は沈まぬ太陽に照らされていた空も、気付けばもう夜の闇を取り戻していた。これからどんどんと闇が深くなり、やがて太陽はしばらくこの島を留守にする。
まるで、そんな太陽の様にふと僕を置いてどこかへ行ってしまうことのある兄を引き留めたくてモコモコの兄の上着の裾を掴む。行かないでよと、言えない代わりに。
あの時、結局兄は僕の質問になんと答えたのだったかすっかりと忘れてしまったけれど、兄を追いかけられない僕の代わりに兄の元へと向かってくれたらいいなと、思った。
真昼の夢
ぼんやりと意識が浮上する。
随分と、懐かしい夢を見ていた気がする。分厚い遮光カーテンの隙間を見逃さず、暗い暗い部屋に差し込む真夏の日差しに起こされたらしい。たった数ミリの隙間から部屋のほとんどを明るく照らす憎たらしい光をにらみあげると、ほろりと両目から涙が零れた。
暖かい、優しい夢だった気がするのにいつの間に泣いていたんだろうか。
「……お兄ちゃん」
エアコンのタイマーが切れてから随分と経つらしい、酷く蒸し暑くて酷く籠った部屋に掠れた自分の声が落ちていく。そういえば、こんな声だったっけ。夢の中の自分は、もう少しだけ……。
カーテンを締めようと立ち上がるとぐにゃりと何か生暖かい液体の様なものを踏んだ感触がした。遠い遠いいつか感じたことのあった様なその不快な感触に、視線を落とす。
真夏の強い日差しを浴びて、酷く鮮やかに光る血溜まりがそこにあった。この色を、この感触を、この光景を、僕は覚えている。
目の前には、あの頃の僕よりずっと大きくて今の僕よりずっと小さい兄の背中が見える。兄の綺麗な色素の薄い柔らかな髪も、白い頬も服も足も全部がどす黒い血の色に染まっていた。
今の僕より少し高い、喉が潰れて掠れたあの日の僕の声で兄を呼ぶ。そうすると目の前に背を向けて立っていた兄が振り向いて僕を安心させるみたいに笑うのだ。
暖かくて優しくて柔らかくて幸せなあの日の夢をみたんだったっけ。もう一度見下ろした床にもうあの血溜まりは見当たらない。夢に引っ張られて幻覚を見ていたらしい。くだらない、とあの時よりずっと成長した足で血溜まりのあたりを踏み抜いてカーテンをぴっちりとしめなおした。