“本気の恋”
パチンと柔らかい音と共に右の頬が熱くなる。あ、叩かれたと思った時にはもう叩いた相手は涙を数滴地面に落として走り出していた。
ああ、またか。ゆっくり小さくなっていく背中を見送りながらため息をつく。ちょっと走ればすぐにあの細い腕を掴んで小さな身体を抱きとめられる。バックハグして、ごめんね大好きだよと囁いてやればいいのだ。きっとあの子もそれを望んでいるだろうに。俺の足は少しも動く気分じゃないみたいだった。
まあ良いや。あの子が走り去った方に背を向けて数歩歩いたところであっと声が漏れた。あの子、左利きだったんだ。今更それに気付いたところでどうしようもない。車どころか人気すらない十字路で足を止める。
信号待ちの間にメッセージアプリを開く。数週間前にやり取りをした腐れ縁の名前を探し出して画面を開く。今度の女とは上手くやれよ、と素っ気ない一文で締めくくられたその下に、今さっき別れたよとメッセージを送る。
速攻で付いた既読の文字に思わず笑いがこぼれる。どんな顔でこのメッセージを読んだのだろう。ガラス細工みたいに繊細で取り付く島もない冷淡なふりをして、身内には分かりづらく甘いあの男がいつも通りの整った顔のまま、少しだけ細い眉をひそめる姿を思い浮かべる。
『今回は短かったな』
ややあって、かかった時間のわりに短いメッセージが返ってくる。そうだったか?と彼とのやり取りを見返していくと確かに前回は一ヶ月ほど続いていたから、それに比べたら二週間強は短いかもしれない。ああ、そうだ。あの子に告白された時、確か左手を差し出された瞬間に何となくその手を握ってしまおうと思ったのだった。多分、あの子が左利きだったから。
彼と同じ、左利きだったからあの手を握ってしまったんだ。申し訳ないことをしたな。頭の隅に走り去っていく小さい背中を思い浮かべながらも、俺は思いつきのまま通話ボタンを押す。もちろん通話相手は別れたばかりのあの子じゃない。
『……なんだよ』
ワンコールの内に出た彼の不機嫌そうな声にどうしようもなく心が弾む。君の声が聴きたくなったんだ冗談を言うみたいなフリをして答えると電話の先の彼がフッと笑う感じがした。ああ、好きだなと思った。
私のこと、本気で好きじゃないんでしょ!彼女の言葉を思い出す。ごめんね、そうなんだ。俺の本気の恋はずっとずっとたった一人の、絶対に叶わない相手へ向けられているんだ。
9/12/2024, 11:56:09 AM