“心の健康”
人の気配に気がついて俺が頭を上げる前に、ドカッと大げさな音と共にソファが揺れた。隣に人が勢いよく座ったせいで傾くソファに合わせて傾いた頭を隣に座った男の肩に着地させる。いつもだったらこんなことしないし、彼だってこんなこと許しはしない。天変地異でも起きなきゃ俺達二人が大人しく並んでいられるわけがないなんてよくからかわれていたけれど、天変地異は存外簡単に起こるものらしかった。
彼の呼吸にあわせてゆったりと揺れる肩は、思いの外しっかりと筋肉に覆われている。もう少し骨骨した感触を想像していたのに、やけにしっくりとフィットしてしまい頭を離すタイミングを見失っていた。彼が文句を言ったら、彼が動いたら、彼がしびれを切らして拳を握ったら。そうしたら離れようなんて思ったけれど、彼は俺の存在を忘れてしまったかの様に、手元にあった分厚い本を広げて読み出してしまった。
彼の細くて白い指がページをめくる音だけが部屋に響く。指が動く度少しだけ肩が揺れる、そのリズムがじんわりと俺の心に沁みて、なんだか無性に泣きたくなった。もしかしたら、今の彼なら、許してくれるんじゃないだろうか。じわじわと涙が滲んでくるのに抗うことはしなかった。もう何滴も彼の肩に涙がこぼれ落ちたけれど、やっぱり彼は動こうとはしなかった。
肩が湿って気持ち悪いだろうに、真横に座る大の大人がベソベソと情けなく泣いているのを気にもせず、変わらないペースで本を読み進めている。試しに少しだけ体重を預けてみてもその身体はびくともしないし、本を読むペースも変わらない。気づけば頭どころか上半身全てで彼にもたれかかっていた。
彼の呼吸にあわせて俺の身体も揺れる。もう少しだけ、あと少しだけ、涙が止まるまで、それまでもうちよっとだけこのままで。許しを乞う様に頭を擦り寄せると彼がフッと笑った気がした。
“蝶よ花よ”
呼び鈴を押す、指が震える。数日前から約束を取り付け、車を停めるためについ数分前に電話までして、今更何を、というところだが、やはり理由が理由なだけに緊張してしまう。やっとの思いでなんとか指を押し込むと、待っていましたとばかりにチャイムが鳴り終わる前に重そうな扉がゆっくりと開いた。
「いらっしゃい、待ってたわ」
「ご無沙汰、してます」
にっこりと少女の様に微笑む女性の奥には、緊張気味にソワソワとしている、女性と瓜二つの顔を持つ彼女が立っている。本当によく似た母娘(おやこ)だなあと場違いなことを考えていると、笑っている方のつまりは母親の方にどうぞ、と促され慌てて靴を脱いだ。
不仲な実家より踏み入れた回数が多いかもしれないというほどに何度も訪れた場所だというのに、まるで初めて来た迷路みたいな気分で前を歩く母娘の後ろをついていく。
リビングにたどり着くまで、俺は何度も何度も心の中でこの日のための一言を復唱していた。何度も何度も恋人として会っているし、冗談の延長で結婚はいつにするの?なんて聞かれ続けていたので断られるとは正直思ってはいないけれど。蝶よ花よと育てられた大事な大事なたった一人の愛娘をいただくのだから、やっぱり格好は大事だ。噛まない様に、とちらないように。ダイニングテーブルの下で、前に座る彼女の母親には見えないように、ぎゅっと拳を握った。その拳にそっと彼女が手を添えた。彼女だって断られるとは思っていないのだろう。その手に後押しされる様に、俺は顔を上げた。
「娘さんを、僕にください」
彼女の母親は待ちくたびれちゃったわ、とだけ明るく言って彼女によく似た顔をほころばせた。
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気づいたら1週間以上サボってました
結婚エアプです:))
“お祭り”
久々に、みんなで集まらないか。唐突に届いた先輩からのメッセージに乗せられて顔を出した俺は、ニコニコ胡散臭い顔を浮かべたその先輩に肩を組まれてあれよあれよと言う間に夏祭りの屋台に連れ込まれラムネの売り子をさせられていた。
夜の花火大会のオマケだと思っていたこのお祭りも、年々来訪者が増えている様でまだ昼過ぎだというのにかなりの盛り上がりを見せている。
お前はラムネ持って突っ立ってりゃいいんだよと、せめて裏方に回ろうとした俺の背中を押す先輩の圧に押し負けて屋台の前面でぼんやりとしていると次から次に浴衣姿の女の子がやってくる。
人と話すのは、苦手だ。なぜか執拗に連絡先だとか名前だとかツーショットだとかを強請ってくる着飾った女の子たちになんと返事をしていいのかわからず困惑しているうちに日が傾いてきていた。
屋台の後ろ側に置いてあったラムネの入っていた段ボールは全て畳まれていて、残りは数え切れるくらいだ。
無理矢理に掴まされた、顔も覚えていない誰かの連絡先の書いてある紙を握り潰す俺の横で先輩はやけにすっきりした顔をして額の汗を拭っていた。
「いやあ、持つべきは顔の良い後輩だわ」
「……みんなで集まろうって話じゃなかったんですか」
じとりと睨みつけても先輩は悪びれる様子もなく笑っている。一発殴っても俺は悪くないだろ、とせめての優しさとして左の拳を振り上げたところでコロン、と下駄の音がした。
「なんだ、もうラムネないの?」
「お、結構早かったな。他の奴らは?」
「知らない。変な男に話しかけられて不愉快だったから先に来た」
むっつりと口をへの字に結んだ彼女は、いつもよりしっかりと化粧をしているうえ見慣れない浴衣姿になっている。密かに想いを寄せている相手の物珍しい姿に頭が真っ白になった。固まった俺の横で、元々来ることがわかっていたらしい先輩は普通に会話をしている。
「俺は後片付けがあるからさ、ナンパ避けにコイツ持っていけよ」
「……はっ?」
先輩と話をしている彼女の浴衣姿をさり気なさを装ってチラチラ見ていた背中が急に押されて、体制を崩しながら先輩を振り返ると、清々しい顔でサムズアップをしていた。
こいつ、最初からこれを狙っていたのか。というか彼女への気持ちはずっと隠していたはずなのに、いつから気づかれていたんだ?どっと背中に汗が吹き出す。というか彼女が嫌なのでは?と恐る恐るその顔を覗き込んだ。
「……何?」
「いや……俺と二人は、嫌かなって……」
化粧のことは全くわからないけれど、普段よりずっと大きく見える猫目には想像していたほど不機嫌な色はなかった。知らないやつにナンパされるよりずっとマシだから、と言って踵を返す彼女を追いかけようとする俺を引き止めて先輩がラムネを二つ押し付けてきた。
「バイト代、な。楽しめよ」
「……いつから気づいてたんすか」
「ナイショ」
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滑り込み
安定の尻切れトンボ
“神様が舞い降りてきて、こう言った”
寂れた場末の酒場の一角。カウンターの隅にあるその席は、朝から晩まで入りびたる金払いだけはいい素性不明なアルコールホリックの為の特等席になっていた。そして今日も朝から酒を浴びるように摂取している哀れなアルコール中毒の男の目の前には頬杖をついて男を眺める神様の様にキレイな顔をした男が座っていた。
「いいご身分じゃあないか。こんな良い店で昼間っから酒に溺れているなんて」
「贅沢をしてて、悪いね。昼間どころか、朝からアルコール飲み放題だよ」
彼はペットボトルに入ったミネラルウォーターをチャプチャプと揺らしながら、ペットボトル越しにアルコールホリックの男を、つまりは俺を覗き見ている。その青空を写した様な目は昔と変わらない真っ直ぐで純粋な色をしている。アルコールで濁りきった俺の目にはあんまりにも眩しくて温かくて、思わず逸らした目線の先に彼の細くて白くて傷だらけの腕が映る。
少しだけ、傷が増えただろうか。じわじわと傷が減ってきた己の腕が情けなくて忘れる様に酒を呷る。目の前の神様は何が楽しいのか青空色の目を少し細めてやっぱりペットボトル越しに俺を見ている。
「平和な生活には馴染めないんだろう?」
「……じきに馴染むさ」
「お前が一番わかっているくせに」
「君にはわからないよ」
「お前のことは、俺が一番よくわかってる」
お前以上にな。身を乗り出して囁いた彼はそのまま俺の手にあるグラスに口をつけて顔をしかめた。匂いでわかっていただろうに、馬鹿なやつだなあと残った酒をいっきに呑み干す。これだけ呑んでも酔えない身体が恨めしい。酔えたら全てを忘れられるのに。目の前の彼のことだって。
少し水が減ったペットボトルを、やっぱりチャプチャプ揺すっている彼は最後にあったときより幾分伸びた横髪を耳にかけて微笑んだ。俺が初めて見た時からずっと苦手なその神々しいとも言うべき綺麗な笑顔を貼り付けて、俺の神様は傍若無人にこう言った。
「戻ってこい、俺のところに」
俺の答えを聴く気もなく立ち上がった彼の後ろを追いかけた。
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長めのお題は難しい、、、ので少しだけ改変しちゃいました
誰かのことを神聖化してみてる人が好きです
“友情”
友人とキスをした。正確にいえば、友人にキスをしたとなるのだろうか。放課後の教室はまだ柔らかい陽の光が差し込んでいて暖かかった。教室には俺と彼の二人以外に誰もいなかったけれど部室棟からは吹奏楽部の楽器の音がしていて、グラウンドからは運動部、廊下からもまだ帰宅していない生徒たちの話し声がひっきりなしに聞こえてきていてなんだか騒がしかった。
彼は日直日誌を書いていて、俺は前のイスを跨ぐ様に座ってそれを眺めていた。彼は外の騒がしさに少しイライラしていたみたいで、形の良い爪でカツカツとシャーペンを叩いていた。たかが日直日誌一つに放課後の貴重な時間を割いている生真面目さと、すぐにイライラして物にあたる短気さとを併せ持った彼の不機嫌まるだしの顔を眺めるのが好きだった。
センターまであと80日という、昨日の日直の書き残したコメントがふと目に入ってきてなんとも言い難いもやっとした気持ちになる。早々に推薦入学を決めていた彼を見ていてもあまり実感のなかった、最終学年という言葉が脳裏を掠めた。
この人が卒業したら、もう二度と会う機会はないんだろうなと思う。専攻が全然違うから大学や就職先が重なることもないだろうし、彼にとって俺はただの"たまたまそこにいたいけ好かない後輩"でしかなくて大学で新しい交友関係ができれば思い出されることもなくなるだろう。
チクリと胸が痛んで、その痛みが思いの外深いことに動揺した。この痛みは本当に友情の延長線の先にあるものなのだろうか。動揺したままに動かした足が、椅子の脚にぶつかった音に彼の視線が日誌から俺の方へと移動した。訝しげにこちらを見る上目遣いの彼と目が合った途端、衝動的にその唇にキスをしていた。
この衝動は流石に友情の延長線上ではないのかもしれない。