“これまでずっと”
これまでずっと、彼とは"犬猿の仲"であったはずだった。お互いに負けず嫌いが過ぎて、目が合えば罵倒の応酬肩が当たれば拳の応酬となるのが当たり前だった。
そんな彼が呆然と立ち尽くして泣いている横顔をみた途端に、その横顔があまりにも綺麗で瞬きすら惜しい、と食い入るように眺めてしまった自分が信じられなかった。
跳ね上がる心臓の音が彼に聞かれてしまいそうで、そうして彼が俺の存在に気づいてしまったら、またいつもの傍若無人で俺の大嫌いな彼に戻ってしまうのかと思うととてつもなく勿体ない気持ちになった。どうにか彼に気づかれないようにと距離を取ったけれど、このまま離れてしまうのもやけに惜しく感じて、どうかバレませんようにと祈りながらそっと彼の横顔を斜め後ろ辺りから、眺めていた。
しばらくして泣き止んだらしい彼がすっと顔を上げた。いつの間にかいつもどおりの彼に戻っていたけれど、その頬に微かに残る涙の跡を見つけて、俺が拭ってあげられたら良かったとふと思った。あわよくば、涙だけじゃなくて笑顔とかいろんな彼の表情を見てみたいし独り占めできたら良いのに……。
「……ということがあったんだけど、これってやっぱり恋だと思うか?」
「……」
突然、普段はサシで話すことのない知り合いに肩を掴まれて連れ込まれた先で、唐突に始まった恋愛相談かっこ仮に俺はため息をついて天井を仰ぐ。目の前の男が冗談を言っている様子はない。ただただ大真面目な顔をして、俺の幼馴染であり彼と犬猿の仲であるはずの男への一目惚れの経緯を語っている姿に嘘はなさそうだ。
いっそ嘘であってくれ。これまでずっと水と油犬と猿、某ネコとネズミ、そんな関係だったのに俺を巻き込んで少女漫画みたいな関係を始めないでくれ。
どう思う?と言わんばかりに大真面目な顔のまま首をかしげてくる目の前の男の顔にデコピンを食らわせてやりたい気持ちをどうにか抑えて、俺はまたため息を吐いた。
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なんか上手くまとまらなかったのでそのうち修正します
“私の当たり前”
休日の朝。私は広いダブルベッドでゴロゴロ寝返りをうちながら君が来るのを待っている。君が起こしに来てくれるまで絶対にベッドから出ない。起こしにきた君が、ベッドに浅く腰掛けてフッと緩んだ口元から仕方ないなあとでもいうように息を吐くのに、気づかないふりをする。君が背中を丸くして、狸寝入りをしている私の前髪を軽く撫ぜたら今やっと起きましたって顔で瞼を持ち上げる。
視界が朝日に照らされてキラキラしてる君の顔でいっぱいになって、思わず口が綻びそうになるのを耐えてさも無理やり起こされてご機嫌ナナメですが?って顔を作る。そうしたら君は仕方ないなあって顔のまんまあやすようなキスをおでこにするから、それで私も仕方ないなあって腕を君の首に回してやる。それを合図に、君が今度はほっぺにキスを降らせてから私の身体を起こしてくれる。
スンっと鼻から息を吸うと、美味しそうなご飯の匂いがする。仕事がある日はデリバリーや外食を使うことが多いけれど君のお休みの日は、必ず朝ごはんを作ってくれる。仕事の日よりは少し遅くに私を起こさない様にひっそり起きて、ちょっと眠そうにふわふわキッチンへ消える君の背中を見送って、それからややあってリズミカルな料理の音に聞き耳を立てながら、今日の朝ごはんはなんだろうなって考えてるなんてことはおくびにも出さないで、寝起きですって顔をする。
「おはよう」
「おはよう。朝ごはん、何?」
「なんだと思う?」
私の寝癖だらけの髪を手で梳いている君は、いつもは素直に朝ごはんを教えてくれるけどたまにこうしてはぐらかすことがある。多分法則はないと思う。強いていうのなら、ご機嫌な日が多い気がする。
じゃあ今日はご機嫌なのかな、なんて思いながら君が手渡してくれた部屋着に着替えながら何度か匂いを嗅いでみる。焼いた卵の匂いがする気がする。
オムレツかなあと呟くと、君はにっこり笑って正解と言ってまたほっぺにキスをしてくる。当てられてちょっと気分良くなったところで差し出された手を取って立ち上がる。そのままエスコートされるみたいにダイニングテーブルまで連れて行かれると、想像していた通りのふかふかのオムレツが二つ、向かい合って置かれていた。
それぞれの定位置に座って、手を合わせる。
「いただきます」
ぴったり合った言葉に笑いながらご飯を食べる。こうして、私と君の当たり前の一日が始まる。
“街の明かり”
目線の少し下、ずっと遠くに街の明かりが瞬いている。まるで日中の太陽の光を海が反射してキラキラしている様に、夜空の星々の光が反射して見えているみたいだ。
七夕は昨日だったけれど、まだ夜空には天の川も流れていて織姫星も彦星も天の川のすぐ側にいる。七夕が終わると、刹那の逢瀬を終えた二つの星は夏の大三角として夜空を彩る様になる。二人の逢瀬を側で見ていた夏の大三角のもう一つであるデネブはどんな気持ちなんだろうか。ふと思いついたことのくだらなさに笑いが漏れた。一人で消化してしまうにはしょうもなさ過ぎて今大急ぎでこの場所へ向かっているだろう相手に急かすメッセージを送る。
相手が到着するのを待ちながら、さて先程のしょうもない質問をしたらどう反応するのだろうかと考える。
ロマンチストな一面もある彼女はもしかしたら意外とデネブの感情に寄り添った解答をしてくるかもしれない。純理系の彼の方は、星に感情なんてあるわけないだろうと白けた顔をするんだろうな。最後に二人してそもそも神話なんて人間が勝手に後から思いついた夢物語だろうと一蹴して終わりそうだ。
数分後、送ったメッセージに既読が付いたことを確認してから画面をオフにした。右上に時間だけが映し出された黒いロック画面にはどこからどうみても幸せそうな俺の顔が映し出されている。
デネブだってきっと、幸せなはずだ。
急かされたことへの文句を垂れ流しながらこちらへ向かってくる織姫星と、それをなんとか宥めようとあたふたしている彦星に軽く手を振りながら、俺はそう思った。
“星空”
なかなか寝付けずソロソロと抜け出した深夜の街は、ひっそりと静まり返っていた。ただ道なりにポツポツと街頭だけが灯っている。連日熱帯夜が続いてうんざりしていたが、今日は涼しい風がときおり吹いていて悪くない気分だ。
気分のままに歩いていると気づけば河川敷まできていたらしい。街頭もほとんどない真っ暗な中、月の光でキラキラと光る水の流れを眺める。小さな頃はよくサッカーやらキャッチボールやらで遊ばせてもらっていたこの場所は朝から夜までなんだかんだでいつも人がいた記憶があったけれど、流石に午前二時には人の気配はない。
昔は学校帰りに場所取りなんかしていたのになあと懐かしい気持ちになる。有り余った元気を出し切る様に夢中で遊んでいたところを、元気だねえと笑って見守ってくれていた大人たちがよく座っていたベンチを見つけて腰掛けた。人っ子一人いない寂しい河川敷から見上げた夜空にはうるさいくらいに星が瞬いていた。
理科は苦手だったから、星座は正直オリオン座しかわからない。冬の夜空にでっかく浮かぶそれをみてああと思うものの、夏の夜空の星座はさっぱりだ。夏の大三角というのがあることだけは辛うじて知ってはいるが、どれがどこにあるのか空をじっと眺めていてもわからなかった。
あのちょっと明るいやつだろうか?手元にある端末を取り出そうとした時、誰かの足音がした気がした。反射的に振り返ると男が一人こちらへやってくるところだった。
「……ひさしぶり、だね」
「お前、なんで……」
ぎこちなく笑う男はそれでも歩みは止めず、しれっと隣に腰掛けた。彼の夜空色の髪がふんわりと風に撫でられて靡いてキラキラとしていた。夜空の色をした髪も、穏やかで深いその声も、いつもはぼんやりとしているのに好きなことに関して話す時だけは星が瞬くみたいに輝く目も、なんだか夜空みたいな男だなとふと思った。
彼とは、同じ仲良しグループに所属していたもののずっと"友達の友達"くらいの間柄だった。必ず間に誰か共通の友人がいた。名前も知っているし挨拶もするけれど、それだけだった。そんな彼とたまたま二人きりになってしまった帰り道で沈黙に耐えかねた彼が、教えてくれたのがオリオン座だった。
物静かで大人びたやつだと思っていたけれど、暗くなりだした空を指差して目をキラキラさせて熱く語る姿は年相応の子供だった。案外仲良くなれるかもなあ、なんて思った翌日に彼はこの街から引っ越していった。
せっかく仲良くなれそうだったのに、とやけにムカついたせいで唯一オリオン座だけは忘れられないでいる。あの時のムカつきがじわじわと唇を侵食していく。
「オリオン座って夏はどこにあんの?」
俺の言葉に、一瞬まんまるに見開かれた目はすぐにキラキラした夜空になった。
“神様だけが知っている”
"七つまでは神のうち"人間たちの間では、そんな言い伝えがあるらしい。そちらの都合で勝手に押し付けられてはたまったものじゃない。
随分と低い位置でふるふる揺れている小さな頭を見下ろしてため息をついた。全く神社は託児所じゃないし神様だって忙しいのだぞ、とその柔らかそうな髪に見え隠れする白いツムジを押してやろうと手を伸ばしたけれどなんとなく気が変わった。
長く伸ばした爪でその繊細そうな肌を傷つけてしまわない様、おそるおそる触れた髪は酷く柔らかくてそして温かかった。そうか、生き物というものは温かいんだったな。相変わらずズビズビと鼻を啜る音ばかりを響かせる小さな生き物はややあって少しだけ顔をあげた。まんまるの両目にこれでもかと涙を浮かべた人間の子供の顔は泥だらけであまりにも可哀想なことになっている。
「……さっさと泣き止め、ガキ」
「……っ……」
撫でていた手とは逆の手で、袖口の余った部分を摘んでその顔を拭いてやる。子供は終始ぽかんとしながらされるがままになっていた。泣かれるのは好きではないが、これくらい大人しいガキならばまあ良いか。
袖を軽く払って子供の隣に腰を下ろす。子供はぽかんとした顔のまま、コロリと最後に目の中に残っていた涙の粒を零した。
「……神様ですか?」
「違う。俺は神様の使いだ」
「……狐さんですか」
「まあ……そんなものだ」
正確にいえばただの狐ではないが、こんなガキにいちいち説明したって伝わらないだろうし、なにより泣き止んだのであればさっさと元いた所へ帰さなければならない。常世と現世では時間の流れが異なる。そろそろ親が探し始める頃だろう。
「さて、泣き止んだならさっさと帰れ」
「……帰らなければいけないんですか?」
「当たり前だ。お前はまだこちらに来るべきじゃない」
いつの間にやら、俺の自慢の尻尾を掴んでいたガキの小さな手に、精一杯の抵抗なのだろうかギュウと一層力がこもるのがわかる。口調のわりに頑固なガキだ。
「なぜ帰りたがらない」
「……」
こちらを見上げてくる両目にじわりと涙の膜が張っていくのが見えて、またため息が漏れた。子供というのはどうしてこうもコロコロと感情が行ったり来たりするんだ。泣かれるのはなんとなく嫌で、まだ微かに泥の残るまんまるの頬をあやすように撫でてやる。
「一つだけ願いを聞いてやる。だから帰れ」
「……お願い、ですか……?」
「ああ、なんでも一つ聞いてやるからさっさと言え」
子供が話す度に頬がぷくぷくと動くのがこそばゆい。勢いで言ってみたわりに上手く刺さった様で尻尾を掴む力が弱まったのを感じる。
ややあってから、二人だけの秘密にできますか?とやけに恥ずかしそうに言われたのでそっと頭の上の耳を寄せた。
『 』
言い終わった途端に子供の姿はふわっと消えてしまい、後には俺一人が残されていた。常世に住む俺に体温なんてないはずなのに、なんだかやけに顔が温かい気がする。
願いを聞き遂げると同時に子供の記憶から常世に関するものは消している。ここで会ったことも話したことも、何か願い事をしたことも、全て忘れているだろう。
願いが叶うかどうかは、俺にもわからない。きっと、神様だけが知っている。