“この道の先に”
一週間後に必ず提出するように、と至極真面目な顔をした教師から渡された用紙にデカデカと書かれた『進路調査』の文字を見て、俺は静かにため息をついた。
ほどよく手を抜き、ほどよく内申点を稼ぐ。昔からよくズル賢いだのと言われてきた要領の良さを最大限に活用して謳歌してきた"テキトーに楽しい高校生活"ともそろそろお別れだ。
空欄にはするなよーと言い残して担任が教室から出た途端ザワザワとお互いの進路についての話で盛り上がりだすクラスメイトをよそに、俺は一人進路調査の紙をカバンに放り込んで教室を後にした。
廊下に一歩足を出した時に辛うじて耳に入ってきた、アイツはいいよな余裕で進路決まってるんだろ?というクラスメイトの言葉は聞き流すことにする。
廊下に出てから数歩先の隣の教室も、同じ様に進路調査の紙を配られたのか、いつもよりざわついている様だった。理系クラスの俺の教室より女子の比率が高い教室の盛り上がりは華やかで羨ましい。
こんな華やかな空間でも一人絶対零度の真顔を貼り付けて、帰りの支度を黙々としているだろう幼馴染の様子を思い浮かべた。いつもなら面白く思えるはずなのに、今日はなんとなくモヤモヤしてしまう。そんなモヤモヤを吹き飛ばす様に勢いよく教室のドアを開けて、幼馴染の名前を呼んだ。
重たそうなスクールバッグを片手にドアの方へ歩いてきていた彼女は、俺が名前を呼んだ途端に真顔をしかめっ面に変えてうるさいと言いたげに睨みあげてくる。どうせフリなのはバレているだろうけど、形だけ少し申し訳なさそうにしておいて彼女が持っているスクールバッグを取り上げた。
「っ……今日は一段と重てーな」
「週末だから仕方ないでしょ。重たいなら返して」
真っ白な細い腕が荷物を取り返そうと伸びてくる。こーんな細い腕があんな重いカバンを持ってよくもまあ折れないものだとその腕をしげしげと眺めてしまう。爪楊枝くらい細いんじゃねーのって指が勢い余ってカバンを持つ俺の手の甲を引っ掻いていくのに猫みたいだなあと思いながら適当にいなして歩き出す。
中学の時からいつも行き帰りは俺が荷物を持っているから彼女も慣れたものですぐに荷物を取り返そうとするのを諦め並んで歩く。彼女の方が少し歩幅は狭いけど、歩く速度はもうわざわざ合わせなくてもぴったりだ。
「……あんた、進路はどうすんの?」
「突然なんだよ」
「さっき、貰ったでしょ」
進路調査の用紙。ちょうど下駄箱が別れていて最後まで聴こえなかったがきっとそう言ったのだろう。俺は都合よく聞こえなかったフリをして靴を雑に床に落とした。彼女は俺が聞こえなかったフリをしたのに気づいているのか、本当に聞こえなかったと思ったのか、ねえと下から覗き込んでくる。それにやっぱり気づかないふりをする。
靴を履くのに手こずっている彼女を置いて、一足先に昇降口を抜けるとまだ湿度の高くない初夏の風が頬を撫でていく。
受験が終わって、卒業したらもう今までみたいに一緒には帰れない。わかってはいてもなんだか受けいられなくてモヤモヤしている。この分かれ道の先で、ただの幼馴染の俺たちが交わることはあるのだろうか。
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お題の文を上手く入れるには文字数が足りなくて少し変えてしまいました、反省
広げた風呂敷のたたみ方が一生わかりません
“日差し”
朝の日差しが顔面に当たって仕方なく身体を起こす。毎日寝落ちする私の代わりに分厚い遮光カーテンをしめてくれていた男はもういない。二人で寝転がっても広すぎるくらいのベッドをわざわざ買ったというのに、買ってから数ヶ月で一人用のベッドになってしまった。二人で眠っていた時は、彼の腕の中にすっぽりと潜り込めばよかったのに、一人ではどこに身体を落ち着ければいいのかわからない。
広いベッドの隅に転がっている抱きまくらと、タオルケットを適当に整えてベッドルームから抜け出す。向かったリビングにもその先のキッチンにも、彼の姿はもうない。
彼がいた頃は、朝はいつもコーヒーの匂いがしていた。コーヒーにはあまり詳しくなかったけれど、コーヒーに拘りのある彼と過ごしているうちに匂いでコーヒーの違いがわかるようになった。だというのに、毎日その日の気分で好き勝手にコーヒーを入れるやつがいないからきっともう忘れてしまった。
ダイニングテーブルの上に置いてあるケトルのスイッチを入れる。昨日の朝たっぷり水を入れたのがまだ残っているだろう。昔からこんなにズボラではなかったはずなのに、彼がいないのにわざわざ丁寧に暮らす意味が見いだせなくて気づけばこんな有様だ。"丁寧な暮らし"派の彼が見たら卒倒するかもしれないが、そもそもといえば彼のせいなのだから仕方ない。
ケトルがポコポコと一生懸命お湯を作っている間に顔を洗い、冷凍庫から適当に見繕った冷凍食品を取り出す。料理だって、彼の方が上手いから任せていただけで、人並みにはできる。だけど彼がいないのにわざわざ自分一人のために作るのも面倒で最近はずっとコレだ。
シュコっと間抜けな音がして、ケトルが止まった。冷凍食品をレンジにぶち込んで、スープの粉末を入れたカップにお湯を注いでいく。なんとなくで付けたテレビの先ではアナウンサーの女性が今日は絶好の洗濯日和です。と笑っている。今日は貴重な梅雨の晴れ間らしく、今日を逃せば一週間、洗濯物を外に干すのは難しいらしい。そういえば最近雨が続いていたが、いつの間にやら梅雨入りをしていた様だ。
そうとなれば洗濯機を回さなければ、と立ち上がる。天気予報のコーナーが終わり流れ始めた愉快なCMをBGMに洗濯物をかき集めて洗濯機を回す。大容量サイズを買ってから実は彼が苦手な匂いなのだと判明して、収納棚の奥に眠っていたムスクの香りの柔軟剤をここぞとばかりに消費していく。
ムスクの香りが苦手だなんて思いもしなかったから、最初に使った時の彼の顔は衝撃的だった。しょんぼりと自分のお気に入りのシャツを眺めていた顔を見て、申し訳ないと思うより先に可愛らしくておかしくて、思わず涙が出るほど笑ってしまった。このまま帰ってこないなら、お前のお気に入りから何から全部、お前の嫌いなムスクの香りにしてやるからな、と心の中で呟いた。
ちょうど洗濯機が回り始めたタイミングでキッチンから電子音がした。キッチンに戻り、出来立てホカホカの朝ごはんを取り出す。今日の朝ごはんは、オムレツとワッフルとホットサラダのワンプレートだ。最近の冷食は良く出来ているなあと考えながら席について手を合わせる。テレビはいつの間にか星座占いのコーナーになっていた。
星座占いを信じるのは、丁度半年くらい前に辞めた。それまではわりと占いは信じる方だったけれど、なにせ彼と私の星座が一位と二位になって、近いうちにいいことが起こるかも!?なんて言われたその日、彼は帰ってこなくなったのだから。今日の獅子座はどうやら最下位らしい。どうせ信じていないのだからどうでも良いやと野菜を口に放り込む。テレビの画面では今日のゲストの俳優がちょうど最下位だったらしく、わざとらしい困った顔をしながら今日はもう家に引きこもります、なんてコメントをしている。
彼がいなくなってから、もう半年も経つのか。リビングに差し込む夏の日差しを眺めてふと思った。そういえば、彼がいなくなった日はまだ冬だったな。一晩経っても彼が帰ってこなくて、呆然としながら眺めたリビングに差し込む日差しはもう少しくすんだような色をしていた様な気がする。あの日から暫くは死んでしまいたい様な気持ちにもなったものだが、もう半年も経つとなぜか楽観的にいつか帰ってきてくれる気がしはじめていた。
ごちそう様でした。と手を合わせて、空いた容器をゴミ袋に詰める。今日はちょうどゴミの日だった。そのまま縛って玄関へ向う。家事のほとんどを彼がやってくれていたから、洗濯とごみ捨てだけは私がやるようにしていたおかげで、ズボラでもごみ捨ての曜日だけはちゃんと覚えている。途中でバスルームのゴミを拾って、玄関に置きっぱなしの鍵を片手に、大きく膨らんだゴミ袋で扉をこじ開けるように外に出た。
思った以上に強い日差しに、クラっとしかけた視界の先に人の影が見えた気がした。思わず顔をあげるとそこには、この半年ずっとずっと待っていた男がさもうっかり連絡もせずに朝帰りしちゃいました、みたいな気まずそうな顔をして立っていた。
「……はあ?」
「……ただいま」
ヘラヘラっといつもの様に片手を首元に当てて笑っている、半年前から少しも変わっていない目の前の彼にとりあえず手にしていたゴミ袋をぶん投げた。
“窓越しに見えるのは”
窓越しに見えるのは、真っ暗な夜空だ。見える範囲に月はなく、遠い遠い宇宙の先にある星たちだけがぼんやりと光っていた。星が瞬くその様子が、宇宙の真ん中で何度も見てきた命が消えていくその瞬間をフラッシュバックさせる。瞬く度に脳裏を過る、帰ってこない仲間たちの顔と、自分が撃った見知らぬ誰かの最後の瞬きを追い出す様に、グラスに残っていたウイスキーを飲み干した。
『考えたって仕方ない。帰ってこないものは帰ってこない』骨も遺品も埋められていない、ただ名前が刻まれただけの墓石の前でウジウジとしゃがみ込んでいた俺に向かって吐き出されたアイツの言葉がふと蘇る。俺は俯いていたからその顔は見ていなかったけれど、しばらくしてアイツが立ち去った後に見た地面には、水滴が染みが残っていた。
そういえばあの時、アイツはどんな顔をして涙を流していたんだろう。今になってなんで突然そんなことを思ったのかはわからないが、急に気になってしまった。激情家のアイツらしく怒りに満ちた顔をしていたのだろうか。淡々とした口調の通り澄ましたよそ行きの顔を取り繕っていたんだろうか。昔、一度だけ見たことのある感情を持て余してどうしたら良いかわからなくなった様な、迷子の様な顔をしていんだろうか。
色々な顔を当てはめていくけれど、どれもしっくりこない気がする。あれ以来、弱気になったアイツを見る機会は一度もなく、あの時にそんな余裕はなかったけれど、一目見ておけば良かったと少しだけ残念な気持ちになりながら席を立った。
空のグラスを片手にキッチンへ向うと、どうやらキッチンに置きっぱなしになっていた端末がピコピコ光っているのが見えた。どうやら今まさに考えていたアイツからのメッセージの様だった。
グラスいっぱいに氷を入れてウイスキーをグラスから溢れそうなほど注いでテーブルに戻る。メッセージにはそろそろ帰るという素っ気ない一言と共に、いったいどこから撮ったのかクソでかい月の写真が添付されている。
ウイスキーを啜る口元がムズムズして仕方がない。誰かが昔、アイツのことを月の様に冷たい奴だとそう言っていたが、俺にとってもきっとアイツは月の様な存在だった。暗くて前が見えなくなりそうな夜道を真っ直ぐ向かう場所へと導く月の光の様だ。
窓越しに見える夜空にはいつの間にか月が顔を見せていて、いつにもまして煌々と夜空を照らしている様に見えた。
“入道雲”
ジリジリと肌を焦がす強い日差し、抜けるような青い空、日差しを反射してキラキラと輝く青い海、そして空と海の境界線を縁取る綿飴みたいな入道雲。
これぞ夏、これを夏と言わずして何を夏と言うのかといわんばかり風景をゆっくり楽しむ余裕もなく、俺は坂道を自転車に乗って登っていた。
こめかみをつぅっと汗が伝ってTシャツに落ちる。ちらりと目で追った自分の胸元の少し下、腰辺りには白くて細い腕がしっかりと回されていてカッと頭が熱くなる感じがした。どうしてこんなにもドキドキするんだろう。もしも両手が空いていたら、今すぐにでも胸を押さえてしゃがみ込むくらいの気持ちだがそうもいかない。代わりにと両手でハンドルを強く握りしめた。
真夏日が続く様になってからも何度も自転車で登ってきた坂だというのに、今日はどうしてか熱くて熱くて仕方がない。人を一人後ろに乗せるだけでこうも違うということなのか、それとも後ろに乗っているのが彼女だからなのだろうか。今までの17年間で一度も二人乗りだなんて青春らしいことをしたことのない俺にはわからない。ただ、この熱や動悸が彼女に伝わっていなければいいなあと祈りながら足に力を込めてペダルを踏み込んだ。
踏み込んだ勢いで少し姿勢が傾いたことに驚いたのか俺の腰に回した腕に力が入って、それと同時彼女の柔らかい身体が俺の背中にぎゅうと押し付けられた感覚がした。人の身体ってこんなにも柔らかかったっけ、と頭に浮かんだ疑問を首を振って振り払う。それ以上考えてはいけない。
「大丈夫?疲れた?降りようか?」
「いや、大丈夫。もうちょっとだから」
「……そう?」
心配そうに声をかけてきた彼女の足にはストラップの切れたパンプスがぶらぶらとひっかかっている。ストラップが切れたパンプスで無理に坂を歩いた彼女の足には痛々しい靴ずれも出来ていて思わず声をかけてしまったのが始まりだった。時折図書館で見かけてはいつか声をかけてみたいなと密かに想いを寄せていた一目惚れの相手と、まさかまともに話をする前に自転車の二人乗りなんていうあまりにも青春じみたことをしてしまうなんて。
暑くて仕方がないはずなのに、目的地がドンドン近づいてくるのがひどく寂しく感じた。もっともっとずっと彼女と一緒にいられたら良いのに。この道が永遠に続いたら良いのに。青春の熱にやられた頭でそんなことを思いながら俺はまたペダルを踏み込んだ。
“夏”
生ぬるい風に乗って、吹奏楽部の楽器の音とグラウンドを走る運動部の掛け声が聴こえてくる。完全に集中力を欠いた俺は指でシャーペンを回しながら、解答を悩んでいるふりをしてそっと向かいに座る男の顔を眺めることにした。
透き通る様な白い肌、スッと通った外人みたいに高い鼻、長いまつげに縁取られた切れ長の目、さらりと流れる少しだけ伸びた髪。見ているだけで涼しくなる様な見た目の彼はその実ありえないほどに沸点が低い激情家だが、今は課題に集中しているせいか静かにしている。
静かにしてればなあ、なんて彼をよく知る人間なら誰しもが一度は口にしてしまう言葉が頭の隅を過ぎった。
静かにしていれば、確かに彼はとても綺麗な男だった。クラスメイトの女子たちがグラウンドにいる彼を見ながらヒソヒソと話していたとおり、目の保養というやつなのだろう。激情家な一面ばかりを目撃してきたからか静かな彼は少し物足りなさもあったが、目の保養と思えばもう少しだけみていたいという欲も出てくる。なんだか急に喉が乾いてきて、ゴクリと喉を鳴らしたと同時に、彼が顔を上げた。
「さっきからジロジロと人を見やがって、なんのつもりだよ」
目一杯に怒ってますという顔をして睨みあげてくる彼はもう完全に激情家の顔になっていて、良くわからないけれど酷くホッとした。
「なんでもないよ、良くこの暑い中集中が続くなって見てただけさ」
「お前の集中力がないだけだろ」
フンッとバカにした様に鼻を鳴らした彼はそのまま机に置きっぱなしにしていたペットボトルを手に取った。ペットボトルについた水滴が彼の白い腕を伝って落ちていく。流れる水滴を目で追っていた時にチラッと見えたYシャツの下の二の腕の白さがやけに目について、また喉がゴクリと鳴った。その意味を考えたくなくて目を逸した先には夏の抜けるような青空が見えた。
夏だから、暑いから。ただ、喉が乾いただけだから。
ちょっと飲み物買ってくるわと教室を出る俺の背中に向かって俺のも頼むわと言う彼の声が聞こえた。