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“日差し”



 朝の日差しが顔面に当たって仕方なく身体を起こす。毎日寝落ちする私の代わりに分厚い遮光カーテンをしめてくれていた男はもういない。二人で寝転がっても広すぎるくらいのベッドをわざわざ買ったというのに、買ってから数ヶ月で一人用のベッドになってしまった。二人で眠っていた時は、彼の腕の中にすっぽりと潜り込めばよかったのに、一人ではどこに身体を落ち着ければいいのかわからない。
 広いベッドの隅に転がっている抱きまくらと、タオルケットを適当に整えてベッドルームから抜け出す。向かったリビングにもその先のキッチンにも、彼の姿はもうない。

 彼がいた頃は、朝はいつもコーヒーの匂いがしていた。コーヒーにはあまり詳しくなかったけれど、コーヒーに拘りのある彼と過ごしているうちに匂いでコーヒーの違いがわかるようになった。だというのに、毎日その日の気分で好き勝手にコーヒーを入れるやつがいないからきっともう忘れてしまった。

 ダイニングテーブルの上に置いてあるケトルのスイッチを入れる。昨日の朝たっぷり水を入れたのがまだ残っているだろう。昔からこんなにズボラではなかったはずなのに、彼がいないのにわざわざ丁寧に暮らす意味が見いだせなくて気づけばこんな有様だ。"丁寧な暮らし"派の彼が見たら卒倒するかもしれないが、そもそもといえば彼のせいなのだから仕方ない。
 ケトルがポコポコと一生懸命お湯を作っている間に顔を洗い、冷凍庫から適当に見繕った冷凍食品を取り出す。料理だって、彼の方が上手いから任せていただけで、人並みにはできる。だけど彼がいないのにわざわざ自分一人のために作るのも面倒で最近はずっとコレだ。

 シュコっと間抜けな音がして、ケトルが止まった。冷凍食品をレンジにぶち込んで、スープの粉末を入れたカップにお湯を注いでいく。なんとなくで付けたテレビの先ではアナウンサーの女性が今日は絶好の洗濯日和です。と笑っている。今日は貴重な梅雨の晴れ間らしく、今日を逃せば一週間、洗濯物を外に干すのは難しいらしい。そういえば最近雨が続いていたが、いつの間にやら梅雨入りをしていた様だ。
 そうとなれば洗濯機を回さなければ、と立ち上がる。天気予報のコーナーが終わり流れ始めた愉快なCMをBGMに洗濯物をかき集めて洗濯機を回す。大容量サイズを買ってから実は彼が苦手な匂いなのだと判明して、収納棚の奥に眠っていたムスクの香りの柔軟剤をここぞとばかりに消費していく。

 ムスクの香りが苦手だなんて思いもしなかったから、最初に使った時の彼の顔は衝撃的だった。しょんぼりと自分のお気に入りのシャツを眺めていた顔を見て、申し訳ないと思うより先に可愛らしくておかしくて、思わず涙が出るほど笑ってしまった。このまま帰ってこないなら、お前のお気に入りから何から全部、お前の嫌いなムスクの香りにしてやるからな、と心の中で呟いた。

 ちょうど洗濯機が回り始めたタイミングでキッチンから電子音がした。キッチンに戻り、出来立てホカホカの朝ごはんを取り出す。今日の朝ごはんは、オムレツとワッフルとホットサラダのワンプレートだ。最近の冷食は良く出来ているなあと考えながら席について手を合わせる。テレビはいつの間にか星座占いのコーナーになっていた。
 星座占いを信じるのは、丁度半年くらい前に辞めた。それまではわりと占いは信じる方だったけれど、なにせ彼と私の星座が一位と二位になって、近いうちにいいことが起こるかも!?なんて言われたその日、彼は帰ってこなくなったのだから。今日の獅子座はどうやら最下位らしい。どうせ信じていないのだからどうでも良いやと野菜を口に放り込む。テレビの画面では今日のゲストの俳優がちょうど最下位だったらしく、わざとらしい困った顔をしながら今日はもう家に引きこもります、なんてコメントをしている。

 彼がいなくなってから、もう半年も経つのか。リビングに差し込む夏の日差しを眺めてふと思った。そういえば、彼がいなくなった日はまだ冬だったな。一晩経っても彼が帰ってこなくて、呆然としながら眺めたリビングに差し込む日差しはもう少しくすんだような色をしていた様な気がする。あの日から暫くは死んでしまいたい様な気持ちにもなったものだが、もう半年も経つとなぜか楽観的にいつか帰ってきてくれる気がしはじめていた。

 ごちそう様でした。と手を合わせて、空いた容器をゴミ袋に詰める。今日はちょうどゴミの日だった。そのまま縛って玄関へ向う。家事のほとんどを彼がやってくれていたから、洗濯とごみ捨てだけは私がやるようにしていたおかげで、ズボラでもごみ捨ての曜日だけはちゃんと覚えている。途中でバスルームのゴミを拾って、玄関に置きっぱなしの鍵を片手に、大きく膨らんだゴミ袋で扉をこじ開けるように外に出た。

 思った以上に強い日差しに、クラっとしかけた視界の先に人の影が見えた気がした。思わず顔をあげるとそこには、この半年ずっとずっと待っていた男がさもうっかり連絡もせずに朝帰りしちゃいました、みたいな気まずそうな顔をして立っていた。

 「……はあ?」
 「……ただいま」

 ヘラヘラっといつもの様に片手を首元に当てて笑っている、半年前から少しも変わっていない目の前の彼にとりあえず手にしていたゴミ袋をぶん投げた。

7/2/2024, 2:03:28 PM