「響子、出ておいで。
迎えに来たよ」
家の外から声がするので出てきてみれば、恋人の幸太郎が家の門の前に立っていた。
彼は普段のラフな格好ではなく、黒を基調とした服装だった。
恐らくスーツのつもりなのだろうが、さすが無理がある。
けれど本人はいたって真剣な表情なので、敢えて指摘しないことにする。
「どうしたの?
そんなに気合を入れて」
「今日は響子の誕生日だからね。
エスコートしようと思って」
私は、幸太郎の言葉に絶句する。
まさか自分の誕生日すら忘れる幸太郎が、私の誕生日を覚えているなんて……
顔がニヤけてしまう。
「そうだ。
響子のために、真っ赤なポルシェを用意したんだ」
「ポルシェ?」
「うん、見てくれ」
幸太郎は、体を横に避ける。
すると彼の後ろから現れたのは『真っ赤ポルシェ』――
ではなく真っ赤なマウンテンバイクだった。
大言壮語にも程がある。
そして、幸太郎はスーツもどきの格好で、この自転車に乗って我が家までやって来たのだ。
真剣な顔で……
面白すぎる。
「ふふっ。
自転車じゃん!」
「残念ながら、中学生の身分ではこれが限界なんだ」
「ふくっ」
笑いすぎてむせてしまう。
前から面白いやつだと思ってたけど、ここまでとは!
「響子、笑いすぎ」
「ごめんなさい……
でも残念。
ポルシェ、乗ってみたかったのに」
「そこは僕の将来に期待しててくれ!」
幸太郎は自信満々で胸を叩く。
はぐらかすと思ったら、当然だと言わんばかりに肯定する幸太郎。
これは本当に期待してもいいかもしれない。
「それでどうする?
一緒に『ポルシェ』に乗るかい?」
「幸太郎、自転車の二人乗りはダメよ。
チョット待ってね」
私は、家に戻って母に出かける事を伝え、よそ行きで動きやすい服に着替える。
そして自転車用のヘルメットを被ってから、自分の自転車に乗る。
これでデートの準備はOKだ!
……これ、どう考えても誕生日デートの服装じゃないよなあ……
気にしないことにしよう。
「幸太郎、準備できたわ。
それでどこに連れて行ってくれるのかしら?」
「海の見えるレストランさ」
「あら素敵。
でも、いつもデートで行くレストランも、海が見えるわよね」
「そこは知らないふりでお願いします」
「仕方ないわねえ」
気合が入っている割には、穴だらけのガバガバなデートプランだ。
らしいと言えばらしい。
これじゃポルシェも怪しいものだ。
「じゃ、行きましょうか」
「うん、僕がエスコートするね」
「よろしくお願いします」
幸太郎が前に出て、私がその後ろを付いていく。
自転車に乗って走り出し、目指すは海の見えるレストラン。
きっと幸太郎のことだから、まだサプライズを用意しているのだろう。
幸太郎は、これからどんなおもてなしを見せてくれるのだろうか。
ポルシェは怪しいけれど、私を楽しませてくれることだけは間違いない。
私は期待に胸を膨らませながら、自転車を走らせるのだった。
ここはとある病院の診察室。
鬱の治療をしている患者の太田と、その担当の医者が話していた
「太田さん、前回の診察から一週間経ちました。
鬱の新薬を処方しましたが、気分はどうですか?」
「バッチリだよ。
今まで気分が落ち込んでいたのが嘘のようだ」
「それは素晴らしい」
太田は、これ以上ない笑顔で、医者に笑いかける。
今の彼からは、始めて来院した時の暗い表情はどこにもなかった。
「最初あの薬を出された時は、からかわれているのかと思ったよ。
でもマジで効くとは思わなかったなあ」
「新薬ですからね」
「そう言う意味じゃないんだが……」
「なにか気になる事でも?」
「うーん」
太田は腕を組んで悩み始めた。
言いたいことがあるのだが、うまく言葉に出来ない様子である。
多くの場合、患者は専門知識がないため言語化が難しい
医者は咎める様子もなく、じっくりと太田の言葉を待つ。
「先生」
「何でしょうか?」
「これ、本当にクスリなんだよな」
太田は医者に疑惑の視線を向ける。
全てのものが信じられないという顔だ。
まるで鬱が再発したかのようだった。
しかし医者は気にする様子もなくにこりと笑う。
「正真正銘のクスリですよ。
何か気になるこことが?」
「あー、先生がそう言うなら別にいいんだ。
素人がとやかく言っても仕方ないしな」
何も疚しいことはないと、医者は堂々と答える。
それを見て太田は、逆にシドロモドロになった
「いや、あれだ。
俺はクスリ嫌いでな。
そんな俺が、ちゃんと服用できたことが信じられなくてなあ。
疑って悪かったよ」
「いえいえ、なんでもかんでも信じるのも、それはそれで問題ですからね。
でもご安心下さい。
効果のほどは、私の体で検証済です」
「なんだよ、先生も使ってんのか」
「ええ、医者が病気しては大変ですから。
予防のため、少しだけ。
でも気をつけて下さいね。
効能が強いクスリなので、取りすぎは毒です」
「分ってるって」
太田は困ったように笑う。
言葉では否定するものの、過剰摂取しているのは丸分かりだった。
だが医者はそれを咎めるような真似はせず、にっこりと微笑む。
「今日の診察はこれまでにしましょうか。
経過は順調なので、このままいきましょう」
「分かりました」
「クスリが合っているようなので、同じものを出します
ああ、違う味で出すのでご心配なさらずに」
「助かります。
正直飽き始めてましたから」
「ではお大事に」
「ありがとうございました」
太田は満足した顔で、診察室を出ていく。
それを見送ったあと、医者は誰にも聞かれないくらいの声で独り言を言う。
「今日は少し危なかったな」
医者はそう言いつつ、背伸びをしてリラックスし始めた。
医者はこれから少しだけ休憩時間を取る。
多忙な業務をこなすためには、こまめな休憩は必要だからである
「『クスリですか』って疑われるとはねえ。
でも……」
医者は机の引き出しを開け、お菓子を取り出す。
このお菓子は、太田にクスリとして出したものだ。
もちろん薬効効果はない。
「イワシの頭も信心から。
お菓子も信じればクスリだよ。
それに……」
医者はぱくり一口お菓子を食べる。
「美味しいお菓子は、心の健康にいいのさ」
昔々、あるところに意地悪なお殿様がいました。
このお殿様は、いつも家来に無理難題を言って困らせていました。
家来に出来もしないことを言いつけ、慌てふためいている様子を見て楽しむ、趣味の悪い事をしていました。
ある日の事。
お殿様は、満面の笑みで部下たちを集めました。
家来たちは、上機嫌なお殿様の様子を見て、嫌な予感を覚えます。
お殿様の機嫌がいいときは、決まって無理難題を言いつけられるからです。
「皆の者、良く集まってくれた。
実はな、儂はお前たちに相談したいことがあるのだ。
我の自慢の家来たちなら解決できると信じている」
『しらじらしい』
そう思いながらも家来たちは、黙ってお殿様の話を聞きます。
どんなに無茶ぶりでも、家来に拒否権はありません。
自慢のおもちゃ位にしか思ってないのだろうと、家来たちは思っていました。
「相談事というのは、この屏風の事だ。
これは、高名な絵師がホトトギスを描いたもの。
そして魂を込めて描かれた結果、この屏風に書かれたホトトギスは生きており、時折鳴くと言うのだ」
家来たちは、その屏風に注目します。
屏風には3匹のホトトギスが描かれていました。
ホトトギスは、まるで生きているかのように、生き生きと描かれています。
家来たちは『なるほど、これを書いた絵師はいい腕をしておる』と感心しました。
ですが、『まるで』生きているようにには見えても、『本当に』生きているようにはとても思えませんでした。
「相談と言うのは、このホトトギスの事である。
儂は巷の評判を聞き、この屏風を大金で払って取り寄せた。
だがこのホトトギス、全く鳴かぬ。
そこで、自慢の家来たちに、このホトトギスを鳴かせてもらいたい」
お殿様の話を聞いて、家来たちはぎょっとします。
このホトトギスは、どう見ても絵にしか見えません。
ただの絵であるホトトギスを鳴かせてみろと?
どう考えても無理でした
家来たちは、これにまでない無茶ぶりに頭を抱えます
……一部の家来を除いては。
「殿、私にお任せください」
「おお、お前か!
やってみるといい」
一人の家来が名乗りを上げました。
彼の名前は織田信長。
といっても我々の知る織田信長ではなく、平行世界の織田信長です。
平行世界の中にも色々あり、信長が女性だったりバカ殿だったりしますが、この平行世界の信長はバカ殿に仕えていました。
本当は仕えたくはないのですが、お殿様はお金と権力を持っており、逆らうことが出来ませんでした。
そんな彼ですが、元々の王者の気質は失われていません。
自信満々に屏風の前に歩み寄ります。
その堂々とした立ち振る舞いは、自分が仕えるお殿様よりも、ずっとお殿様のように見えました。
そうして信長は、屏風の前に立ったかと思うと、おもむろに腰の刀を抜きます。
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
家来たちは驚きました。
ホトトギスを殺す……つまり、この屏風を紙くずにすると言ってのけたのです。
お殿様の私物を、独断で破壊すると言うのは、どう考えても死罪は免れませんでした。
ところがです。
「キョッキョキョキョキョキョ」
屏風の中にいたホトトギスの一匹が鳴きました。
これには、誰もが驚きます。
そうです。
このホトトギス、絵ではありますが生きていたのです。
ホトトギスは信長の言葉を聞いて、殺されてはたまらぬと、鳴いてみせたのです。
なぜ今まで鳴かなかったのか……
それは単純にお殿様の事が嫌いだったからです。
というのも、毎日毎日「君の奏でる音楽が聴きたい」だの、「お前は美しい」だの臭いセリフを言われ、そして口もとんでもなく臭い……
ホトトギスは、関わらないよう絵の振りをしていたのでした。
「さすが信長だ。
後で褒美を取らせよう」
「ありがとうございます」
信長は、恭しく礼をし、元の位置に戻りました。
「……まさか、本当に鳴くとはな」
お殿様は誰にも聞かれないよう、ポツリ独り言を言います。
お殿様もまた、ホトトギスの事をただの絵だと思っていたのです。
しかし、そのことがバレたら面目が立たないので、何もないふりをして家来たちを見回します。
「さてホトトギスは鳴いたが、一匹だけだ。
まだ二匹残っておる。
誰か、鳴かせるものはおらんか?」
「では私が」
「おお、豊臣か。
期待している」
「は!」
二人目の男は豊臣秀吉です。
もちろん平行世界の豊臣秀吉であり、我々が知っている彼ではありません。
彼もまた、堂々と屏風の前まで歩み寄ります。
「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」
秀吉はそういうと、屏風の前に片膝を着きます。
そして屏風のホトトギスをじっと見つめたかと思えば、おもむろに笑顔になりました。
「君の奏でる演奏が聴きたい」
なんとも甘ったるい言葉でホトトギスを誘惑します。
この言葉を聞いて、ホトトギスはコロッと落ちてしまいました。
「キョッキョキョキョキョキョ」
なんということでしょう。
二匹目のホトトギスが鳴きました。
ホトトギスは、情熱的に秀吉を見ていました。
実はこの秀吉、平行世界の秀吉ですが、我々の世界の秀吉と同じように人たらしのなのです。
そして、その才能を使い、ホトトギスを篭絡《ろうらく》して見せたのでした。
「見事だ、秀吉よ。
お前にも後で褒美を取らせよう」
「ありがとうございます」
「それで、3匹目だが……」
「私にお任せください」
「おお、任せたぞ」
そう言って名乗りを上げたのは、徳川家康です。
彼も平行世界の家康で、このお殿様に仕えているのでした。
彼もまた自信満々に、屏風の前まで歩み寄ります。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
そう言って家康は屏風の前に正座で座ります。
ですが、信長や秀吉の時と違い、特に何かをする素振りは見せません。
そう、彼は言葉の通り、待つことに決めたのです。
一同もまた、まだかまだかと、ホトトギスが鳴くのを待ちます。
ですが何も起こりません。
当然です、何もしてませんから。
これは駄目かと、家来たちが諦めかけた時、事態は動きました。
「キョッキョキョキョキョキョ」
最期のホトトギスが鳴いたのです。
家康は何もしていないのに、いったいなぜ鳴いたのか?
それは、3匹目のホトトギスが、静かな空気に耐えられなかったからです。
最後のホトトギスは、少しだけ周りの目を気にする臆病なホトトギスだったのでした。
「天晴だ、家康よ。
お前にも褒美を取らせよう」
「ありがとうございます」
「では、織田、豊臣、前にでろ。
徳川と共に褒美を取らす」
「「は!」」
3人は、お殿様の前で座ります。
「すまんな。
褒美をやると言ったが、アレは嘘だ
この屏風を買うのに大金を使ってな。
財布がすっからかんじゃい」
「「「は……ハア!?」」」
3人は呆然とします。
彼らは褒美があると思って頑張ったというのに、梯子を外された格好になりました。
3人は怒りに震えますが、お殿様は気づく様子もなく他の家来たちを見渡します。
「ああ、皆の衆も聞いたか?
ウチはもうお金が無い。
お前たちも、後でお金を置いて行くように。
以上だ、下がって良いぞ」
お殿様が三人に下がるよう命令します。
ですが、3人は少しも動く気配を見せませんでした。
「聞こえなかったか?
もう一度言うぞ。
下がって――」
「ふざけるなあ!」
信長の叫びに、お殿様は大きく体を震わせます。
「バカだバカだと思っていたが、ここまでバカとはな。
付き合いきれん。
皆の者、下剋上じゃ」
「おう」という
「待ってくれ、儂が悪かった。
話せばわかる」
「お前と話すことなどない。
貴様の悲鳴で奏でる音楽、とくと聞かせてもらう」
「ひいいい」
こうして、平行世界初の下剋上が行われました。
この事件の後、お殿様の後を信長が継ぎ、新しく組織が再編されます。
そして、混沌に満ちた戦国時代の日本の流れを、大きく変えていくのでした。
【教訓】
金の切れ目は縁の切れ目。
お金でしか繋がりが無い関係は特にそうです
みんなも、お金の使い方に気をつけましょう。
終わり。
私は砂浜に座り、打ち寄せる波を眺めていた。
夏の太陽が私を照りつけるが、麦わら帽子のおかげでそこまで暑く感じない。
風もちょうどいい強さで吹いていて、むしろ涼しいくらいである。
そんな居心地のいい場所だが、私以外には誰もいない。
ここは遊泳禁止なので、ここに来る人間はいないのだ。
聞こえてくるのは波の音だけ。
静かに考え事をするにはちょうどいい。
考えるのは、他でもない彼氏の拓哉の事。
別に喧嘩したわけじゃない。
ラブラブだ。
私たちはずっと一緒で、これからも一緒……
そう思っていた。
だが少し前に問題が浮上した。
一緒の大学に行けないのかもしれないのだ。
拓哉には行きたい大学がある。
そしてその大学はレベルが高く、私の今の学力ではとうてい無理なレベル。
だけど諦めきれない私は、猛勉強しているのだが、どうにも結果が出ないのだ。
夏休み前のテストだって、点数が芳しくなく補習を受けることになってしまった。
そのことが、悔しくて悔しくて……
もっと勉強しないといけないと思うのに、焦りから思うように勉強できない……
そして手につかなって、ここに来た。
こんなことしている場合じゃないのは分かっている。
こうして海を眺めるよりも、家で勉強している方がずっと有益なのだ。
そこまで分かっているのに、私はここから動けない。
心の中のどこかで無理だと諦めているのだ。
自己嫌悪で、自分が嫌になる
私が落ち込んでいると、突然強い風が吹きつける。
かぶっていた麦わら帽子が風にあおられ、飛んで行ってしまった。
「あっ」
麦わら帽子を追いかけようと立ち上がる。
だが私は、追いかけることは無かった。
麦わら帽子を目線で追った先に、拓哉がいたのだ。
見間違いかと思ったが、どう見ても拓哉以外には見えない。
なんでこんなとことに。
麦わら帽子は見計らったかのように拓哉の手前に落ちる。
拓哉はその麦わら帽子を拾い上げ、私の方に歩いて来た。
「ほら、麦わら帽子。
咲夜のだろ?」
「うん……
でも拓哉はなんでこんなところに?」
「勉強が手につかなくってね。
気分転換に散歩してたら、咲夜を見つけたからここまで来たんだ」
「そっか……」
私は拓哉を、まっすぐ見ることが出来なかった。
きっと、勉強をサボっている罪悪感からだろう。
私は下を向いて押し黙る。
「咲夜はなんでここに?」
「勉強に手が付かなくって……」
「うん」
「うまくできなくて……」
「うん」
「私、無理かもしれない」
「……そっか」
そう言ったっきり拓哉はなにも言わなくなった。
失望したのだろうか……
勉強するべきなのに、こんなことろでサボっている私なんて、嫌われても仕方がない。
「あのさ、咲夜
勉強、辛い?」
「……うん」
「そっか、俺も勉強辛い」
「えっ」
拓哉の言葉に、思わず顔を上げる。
拓哉は困ったように笑っていた。
「俺さ。
勉強好きなんだけどさ。
ずーっとやっていると、どうしようもなく辛くなることがあるんだ」
「拓哉でも、辛いことあるんだ」
「でもさ、そういう時って勉強のし過ぎなんだよ。
だから俺は気分転換に散歩してるんだ。
咲夜も、勉強しすぎなんだよ」
「違うよ。
私は逃げているだけ」
「違わない。
俺も逃げてきただけだし」
そう言って、拓哉はおもむろにその場に座った。
「勉強ばっかりしても効率悪いんだ。
たまには息抜きしないとね。
勉強をしていると、それも必要だって気づくんだよ」
「……まるで私が勉強してないみたいじゃない」
「実際してないだろ?
咲夜のノート、最近まで真っ白なの知ってるんだぜ」
「うぐ」
私は痛いところを突かれ、反論できなかった。
授業中、寝てばかりだからノートを取らないのだ。
なおテスト勉強の時は、友人のノートのコピーして凌いでいる。
「根詰めても仕方ないからさ。
ほら、一緒にここでぼーっとしようぜ」
「でも……」
「そっか、じゃあ一人でここにいる」
「……ずるい。
なら、私も一緒にいる」
「じゃ、一緒にぼーっとしよう」
私も拓哉に倣い、地面に座って海を眺める
それ以降、私たちに会話は無かった。
けれど不思議なことに、私の心は段々と落ち着いて行った。
それは拓哉が隣にいるからかもしれないし、波の音のヒーリング効果なのかも知れない。
間違いない事は、不安が綺麗に消え失せ、清々しい気持ちだと言う事……
私は、私たちの未来のために、もう一度勉強を頑張ろうと心に誓うのだった。
俺は、世直し系ユーチューバーHIROSHI。
世にはびこる悪を成敗し、社会に平和をもたらす正義の味方だ。
決め台詞は『悪よ、滅しろ』。
その言葉と共に、あらゆる悪を滅ぼしてきた。
だが悪を成敗するのは並大抵のことではない。
稀に、向こうから抵抗されこちらが怪我をすることもある。
そのため俺は、悪を滅するときは、木刀を持ち歩くことにしている。
一方的にやっつけることが出来るからだ
たまに『やり過ぎ』など言われるが気にしてしない。
悪い事をする方が悪いのだ。
そして今日も悪を滅するため、この地にやって来た。
ここは悪名高き『きさらぎ駅』。
この駅は、罪なき善良な人々を惑わせ、この地に縛り付ける。
個人の都合などお構いなしにだ。
悪である。
言い逃れできないほどに悪である。
ならば滅せねばならない。
と思っていたのだが、今の今まで先延ばしにしていた。
なぜなら、きさらぎ駅はネットでのみ語られる伝説上の駅。
どこにあるのか分からない……
だが、オカルト好きのファンからの情報で、ここまで来ることが出来た。
脱出できないと専らの噂だったので、脱出手段も用意してもらった。
準備はバッチリ。
あとは滅するだけだ。
最初に狙うのは改札口の駅員。
きさらぎ駅で働いている人間だ。
きっと悪に違いない。
俺は愛刀『洞爺湖』を握り締めて、ホームから駅の改札口に向かう。
歩いていくと、改札口に一人の男が椅子に座って、うたた寝しているのが見えた。
どうせ誰もいないと思って、油断していたのだろう。
職務怠慢という悪に怒りを覚えるが、男が寝ていることは幸運だった。
襲う際、抵抗されるとこっちが怪我をすることがあるからだ。
俺は、男を起こさないよう足音を立てず、男の背後を取る。
そして洞爺湖を振りかぶり、決め台詞。
「悪よ、めs――」
「甘い」
男は急に振り向いたかと思うと、俺に体当たりしてきた。
意表を突かれた俺は、あっけなく地面に倒れ、組み伏せられる。
狸寝入りだと!?
なんて卑怯な奴なんだ。
脱出しようともがくが、腕は完全に決められており、動くことすら困難だった。
俺の正義の道も、ここで終点。
あっけないもんだ……
悪の手先に捕まった正義の味方は、碌な扱いを受けない……
きっと俺は口には出せないような拷問を受けるのだろう。
なってこった。
世直し系ユーチューバーHIROSHI、ここに死す!
せめてもの抵抗で男を睨み付けたようと、顔を上げる。
どんな醜悪な顔をしているのか、見てやろうじゃないか。
しかし視界に入ったのは、驚愕に目を見開いた男の顔だった。
「もしかしてお前、HIROSHIか?」
「そうだが……
もしかしてファンか!?
なら、すぐに解放してくれ」
「なんだよ、分かんないのかよ。
俺だ、TADASHIだ」
「タダシ……?
え、TADASHIアニキ!?」
俺が驚くと同時に、拘束が解かれた。
自由になった俺は、体をさすりながら立ち上がる。
いつもなら文句の一つでも言ってやるところだが、そうもいかない。
なぜならば、目の前にいるこの人は、伝説の世直し系ユーチューバーTADASHIなのだ。
俺がこの道を志したのはこの人の影響だし、世直しのイロハを教えてくれたのもこの人。
俺の頭が上がらない、数少ない人物である。
「久しぶりだな。
お前、変わってないなあ」
アニキは、邪気の無い笑みを浮かべながら、俺の肩を叩く。
アニキの笑顔にどこか違和感を覚えるが、その前に聞くことがあった
「お久しぶりです、アニキ。
こんなところにいたんすね」
アニキは数か月前、急に動画を上げなくなった。
世間は、世直し中の事故で死んだとか、あるいは警察に捕まったとか言われた。
俺も真相を確かめようと、連絡を取ろうとしたが音信不通。
家に行ってももぬけの殻。
心配していたのだが、なるほどここにいたのか……
どうりで連絡が付かないわけだ。
「ああ、世直しで来たのはいいが、戻れなくてね。
それ以来、この駅で働いている。
といってもする事なんて、ほとんどないがな」
「せいぜいお前みたいに襲ってくる奴らの対応くらいかな」と、アニキは笑顔で応える。
だがアニキの反応に違和感を感じる。
一体何がおかしいのか……
もしや!
「あの、アニキ、こんなことを聞くのも失礼だと思うんすけど……」
「『老けた』て言いたいんだろ?」
「うっす」
アニキは笑顔から神妙な顔つきになる。
「どう話したもんか……
よく分からなんだが、ここと元の世界は時間の流れが違うらしい。
俺がここに来てからもう10年は経ってる」
「じゅ、十年!?
アニキがいなくなったの、せいぜい三か月位っすよ」
「ははは、そりゃ若いわけだよ」
「うう、なんか調子狂うっす……」
興奮する俺に、冷静に対応するアニキ。
この落ち着きが、大人の余裕か……
「それよりもアニキ、帰りましょう。
本当は世直ししに来たんすけど、後でいいっす」
「帰りたいのは山々だが、方法が分からない」
「大丈夫っす。
これで帰れるっすよ」
俺はバッグの中から、脱出装置を出して見せる。
脱出装置を見たアニキは眉をしかめた。
何か言いたそうだったが、特に何も言わなかった。
「戻ったら、世直ししましょう。
アニキがいなくなってから、悪が調子に乗っているんです」
「それなんだが……」
「アニキ……?」
アニキが言い辛そうに口ごもる。
アニキの態度に、俺は嫌な予感がした。
「俺、世直しは止めようと思うんだ」
「何を言っているんすか!?
アニキほどの男が世直しを辞めるなんて、熱でもあるんすか?」
「HIROSHI、俺気付いたんだ。
あんなのは世直しじゃなくて、ただの迷惑行為だ」
「アニキ!?
それは本当の正義が分からないアンチの妄言だって、いつも言ってたじゃないですか!」
「ここは何もないところだけど、時間だけはあってな。
自分を見つめなおして、きちんと生きようと決めたんだ。
ここで働いているのも、その一環さ」
アニキの言葉に、俺は膝から崩れ落ちる。
「アニキ、変わっちまったんすね。
俺が知っているアニキはもっと
でも今のアニキは丸くなった。
世直し系ユーチューバーTADASHIは死んだんだ……」
俺が愕然としていると、アニキは申し訳なさそうに口を開く。
「悪いな、HIROSHI。
俺も一児の父親だ。
無茶は出来ん」
「え、子供!?」
新しく出てきた新情報に、俺は頭がクラクラしてきた。
さらに新情報が入ると、俺の頭は爆発するかもしれない。
「MASAKOを覚えてるか?」
「アネゴっすか?
忘れるわけないっす。
俺が独り立ちするまでの間、飯を食わせてくれたすからね……
最近見ないけど……まさか!」
「ああ、俺が来てからすぐこっちに来てな。
俺を追いかけてきたそうだ。
ソイツと結婚して、子供もできた。
女の子だよ」
今でも覚えている。
アニキとアネゴは、お似合いのカップルだった。
自分の居場所は、アニキの隣だと言って憚らなかったけど、本当に追いかけてきたのか……
凄いな、アネゴ……
さすがアネゴだ……
うん、アネゴらしい……
駄目だ、頭が回らない。
俺はもう限界だ。
「俺、もう帰るっす」
「そうか」
「やる気のない返事っすね。
アニキは帰りたくないんすか?」
「戻れるなら戻りたいな。
娘に色々な物を見せたいんだ」
「ただの親ばかじゃないっすか」
「写真見るか?
可愛いぞ」
「別にいいっす」
アニキが写真を写真を撮りだそうとするので、はっきり拒否する。
あくまでも予感だけど、ものすごく長くなりそうだからだ
俺はもう帰りたいので、アニキの惚気話に付き合う時間はない。
「それで……
どうやって帰るつもりだ」
「これを開くと、外に出るゲートが出てくるんすよ」
「なあ、HIROSHIよ。
言おうか言うまいか悩んでいたんだが、やっぱり言うぞ。
それ、おもちゃじゃないのか?
だいたいゲートが出てくるってなんだ?
SFだぞ、それは」
「何言ってんすか、アニキ。
これは信用できる筋から入手したんすよ」
「絶対騙されてるって」
「使えばアニキも納得してくれるっすよ。
オープン!」
『プリキュア! デリシャスタンバイ! パーティーゴー!』
脱出装置から、起動音が鳴り響く。
これでゲートは開くはずだ……
今、プリキュアって言った?
え?
騙されたの、俺……
俺が呆然としていると、アニキは俺の肩にそっと手を置く。
「なに、ここも悪くないさ。
今まで迷い込んだ人もたくさんいるし、意外とにぎやかだよ。
ネット回線が貧弱なのは頂けないがね。
女の子もいるし、きっと気の合う仲間を見つけられるさ」
「いやっす!」
「時間ならたっぷりある。
納得できるまで悩むといいさ。
俺も来たばかりの頃は悩んだけど、今じゃここに骨を埋めようと思っている」
「俺は……俺は……!」
「人生の終点にするには物足りないかもしれないが、人生そんなもんさ」
「こんなところで終わるのは嫌だーーーー!」
俺の叫びが、きさらぎ駅に虚しく響き渡るのだった