112.『失われた響き』『君と紡ぐ物語』『凍てつく星空』
プロの漫画家になって、初めて担当編集者さんに会った時の事を、今でも鮮明に覚えている。
「初めまして、ヨミ先生。
君の担当になった竜造寺です」
そう言った彼は、名前に似合わずキラキラしたオーラを纏う爽やかな人だった。
例えるなら、少女漫画からそのまま抜け出してきたような王子様。
女性なら、誰もが彼に夢中になるくらい容姿が整っていた。
漫画にしか興味のない私ですら、胸がときめいたのだから相当なものである。
けれど少し怖い印象も受けた。
その笑顔は綺麗だけど、あまりに完璧すぎて、まるで凍てつく星空のよう。
綺麗だけど恐い。
それが第一印象だ。
「漫画家の君と、担当編集のボク。
君と紡ぐ物語で、世界をあっと言わせよう」
でも、それ以上に思ったのが、『この人とならすごい漫画が描けそうだ』という確信。
歯の浮くような気障なセリフも、彼が言うとさまになる。
初めての連載に不安だった私も、この人ならばと武者震いがする。
これなら○ンピース超えも夢ではない。
本気でそう思った。
だけど――
「打ち切りになりました……」
現実は非情だ。
私の渾身の力作も、世間に出ればただの凡作。
ごく少数の熱心なファンに支えられ、何冊か単行本を出すことができたが、実情は常に打ち切り候補。
人気は下から数えたほうが早かった。
それは主に、私の力量不足によるものだ。
絵は上手い方だが、驚くほど登場人物に深みがない。
熱心なファンですら苦言を呈するほど。
それは私のコミュ障に由来するもので、これまで人づきあいをサボっていたせいでもある。
『○ンピース超えも夢ではない』。
いかにそれが無謀な夢だったか思い知る。
アンケートの結果を聞くたびに、身の程を思い知らされる。
思い上がりもいい所だ。
「私の力不足です」
だが私の担当編集はそうは思わなかったようだ。
彼は悲痛な顔で私を見る。
「漫画の打ち切りは担当の責任!
ならば、ボクは責任を取らなければいけません」
そう言うや否や、彼はポケットからナイフを取り出した。
「かくなる上は、エンコを詰めて――」
「やめて!」
咄嗟に飛びついて、指を切ろうとするのを阻止する。
「離して下さい。
これでは責任が取れません!」
「それは担当の責任の取り方ではありません。
ヤクザの作法です!!」
そう私の担当編集者は、まさかの「こわーい」人種の人。
元ヤクザなのだ。
初対面で怖いと思ったが、本当に怖い人だったとは……
こんな方向で怖いとは思わなんだよ。
「竜造寺さんは私の担当ですよね。
なら打ち切りの悔しさをバネに、改めて面白い漫画を世に出すことこそが、担当の責任の取り方ではありませんか?」
「それは……」
(これ、どっちが担当だか分からないな)
私は心の中でそう思いながら、彼を宥める。
なんで自分が言ってほしい事を、自分で言っているのか分からないが、ともかく指を詰めさせないよう説得する。
「今回の事は残念でしたが、龍造寺さんが指を詰めても何の意味もありません。
それよりも次回作の話をしましょう。
私、良いアイディアがあるんですよ」
嘘である。
アイディアなんて無いし、なんなら漫画家を辞めようとすら思っていた。
けど、それを言ったら彼が物理的に腹を切りかねない。
だから私は、口からデマカセを言って、彼の蛮行を止めようとした。
「そう…… ですね……」
功を奏したのか、ナイフを持った手から力が抜ける。
私はすぐさまナイフを奪い取り、机の上に置く。
とりあえずこれで指を詰めることは無い。
「……分かりました。
担当として、私は責任を取ります」
そう言って、彼は自分の頬を叩く。
そして気持ちを切り替えたのか、思いつめていた表情はどこにもなかった。
「ヨミ先生がそう言うと思って、既に枠を確保してあります。
次回作も頑張りましょう」
ニコっと彼は笑う。
人気の無い漫画家の連載枠の確保。
およそ信じがたい事実だが、彼の事だ、きっと編集長を脅したのだろう。
編集長、胃に穴が開かなければいいけれど。
「それで?
どんなアイディアがあるのでしょう」
ギクリと私の肩が跳ねる。
さきほど蛮行を止めるために、『アイディアがある』とは言ったが、残念ながらそんなものはない。
けれど今さらないとも言えず、私は思いつくままでっち上げる。
「えーと、今作の評判の悪いところは登場人物に深みがない事にあります。
そこで次は、魅力的な登場人物を作ってから漫画を描こうかと思っています」
「なるほど。
面白い漫画には、面白いキャラが必要不可欠ですからね。
それで具体的には?」
「えーっと」
もう少し掘り下げてくれてもいいのに。
矢継ぎ早に繰り出される質問に、私は窮地に立たされる。
「魅力的な登場人物。
それは……」
「それは……?」
もはや後は無い。
なるようになれと、私は竜造寺さんを指さした。
「元ヤクザが、カタギになろうとしてトラブルを起こす漫画『仁義なきコメディ』を描こうと思います」
◇
「ヨミ先生!
新しい漫画の出だしは上々ですよ。
SNSでも話題になってます」
竜造寺さんの言葉に、私はほっと胸を撫でおろす。
嘘を誤魔化すために勢いだけで描いた漫画なので、色々複雑な思いはある。
だが書いた漫画に人気が出たことは素直に嬉しかった。
「シリアスとのバランスも完璧です。
ヤクザの世界に伝わる『失われた響き』とはなんなのか?
その正体の考察で大賑わいですよ」
適当に頭に浮かんだフレーズがそこまで受けるとは……
まったく正体を考えてないけど、真面目に考えておかないといけないな。
私がこれからの展開で思い悩んでいると、竜造寺さんが神妙な顔で声をかけてきた。
「ところでヨミ先生。
ボクは、この漫画の楽しめそうにありません」
「というと?」
「なまじヤクザの世界を知っているせいで、いろいろ目に付くんですよね……」
「あー、たまに聞く話ですね。
専門知識があると、どうしても細かい所が気になってしまうとか……」
「はい。
ですから、やたらエンコを詰めたがるヤクザがどうしても滑稽に映りまして……
フィクションだと思っていても、ありえないです」
「……もしかして気づいてない?」
「何の事です?」
「いや、分からないんならいいんです」
急に話を切り上げた私を、竜造寺さんは訝しむような目で見つめるが気づかないことにした。
下手に知られて、指を詰められたらたまったものではないからだ。
私はそのまま話を終わたかったのだが、彼にはまだ言いたいことがあったらしく、そのまま言葉を続けた。
「それはそうと、取材のために、ボクは先生に知り合いのヤクザの話をしましたよね」
「はい、その節はとても助かりました。
それが何か?」
「よく考えたら、かつての仲間の事を話すのは、義理人情に反しているのではと思いまして……
まるで仲間を売っているみたいじゃないですか」
「それで?」
「責任を取って、エンコを詰めようと思います」
「やめんか!」
111.『時を紡ぐ糸』『心の深呼吸』『霜降る朝』
すいません、隣の席に座ってもいいですか?
カウンター席でラーメンを食べるのが好きでして。
無理にとは言いませんが、よろしければ……
……ありがとうございます!
では隣に失礼します。
店長さん、しょうゆラーメンお願いしまーす。
麺細目、バリ堅で!
トッピングは、うーん、今日は無しで。
これで良しと。
ふふ、やっぱりお昼時は多いですね。
本当はもっと早く来たかったんですけど、母の目を盗むのに時間がかかってしまって……
母さんったら、私がラーメンばかり食べるものだから、『不健康だ!』って怒るんですよ。
酷いと思いませんか?
私はこんなにもラーメンを愛しているのに!
……どうかしましたか?
私の顔をじっと見てますが、顔に何かついてますか?
……私が綺麗、ですか……
もう、いやですねえ。
ここはラーメンを食べる場所であって、冗談を言う場所じゃないですよ。
……冗談じゃない、ですって?
もう、私を褒めたって何も出ませんよ。
あんまり私を褒めると、氷漬けにしてコレクションしちゃいますよ!
……そんなにビックリしないでくださいよ。
ただのジョークです、雪女ジョーク。
ええ、そうです。
私、雪女なんですよ。
……え、雪女がラーメン食べても大丈夫なのかって?
何言っているんですか?
常識的に考えたらすぐに分かるでしょう?
だめです。
ラーメンを食べるたびに、体調を崩します。
死にかけたこともあります。
ですが、それでも私はラーメンを食べます。
ラーメンは美味しいから。
明日死ぬと分かっても、私はラーメンを食べます。
それほどまでに、ラーメンを愛しています。
ラーメンは偉大な料理です。
この料理が発明されてから、あらゆる改良が施されました。
しょうゆ、とんこつ、みそ、しお……
スープにはたくさんのバリエーションがあります。
麺も同様です。
あの地味な見た目に、どれだけ改良が施されたか分かりますか?
太さの種類もさることながら、硬さまでたくさんのバリエーションがあります。
究極のラーメンを作るため、数多の料理人が最高の麺を追い求めました。
この一本一本に、どれほどの情熱と歴史の積み重ねが詰まっているか分かりますか?
まさに時を紡ぐ糸です!
あ、話し過ぎちゃいましたね。
私ったらラーメンの事になると、どうしても熱が入っちゃうんです。
ラーメン好きな雪女なんて、幻滅しちゃいますよね……
……え、そんなことない、ですか?
あなたもラーメンには目がない、ですか!?
私、感激です!
どれだけラーメンを熱く語っても、仲間に呆れられるだけ。
悲しみのあまり冷気が漏れ出して、何度、霜降る朝を迎えたことでしょう……
でも私は今日、ここで同志に会えました。
私は今日と言う日を絶対に忘れません!
ラーメンを食べながら、じっくりと語り合いましょう!
ああ、興奮しすぎて溶けてしまいそう。
落ち着け、私。
まずは心の深呼吸。
すーはーすーはー。
それにしても、今日みたいな記念すべき日に、トッピング無しは寂しいですね……
店長!
やっぱりトッピングは、全部乗せでお願いしま――
……あの、店長。
何です、そんな申し訳なさそうな顔をして。
……ラーメンは出せない、ですって!?
ここはラーメン屋、そんな無法が通るわけがないでしょう!
ラーメンを出さないラーメン屋なんて、断じてありえません!
……入り口を見ろ?
……私にお客さんが来ている?
何を言っているんですか。
こんな所に、ラーメンの崇高さを理解しない仲間が来るわけが――
あっ。
いえ、知らない雪女ですね。
間違っても母ではありません。
縁もゆかりもないただの他人です。
無視して構いませんよ。
さ、ラーメンを出さないなんて意地悪は言わないで、早く作って下さい。
雪女ですが、ちゃんとお金を持って――
待って、お母さん!
もう少しだけ待って!
私はここでラーメンを食べるの!
ミニラーメンで我慢するから!
ちょっとだけ、ちょっとだけだから!
あっ、叩かないで!
分かったから、大人しく戻るから!
ううう、なんでお母さんに場所がバレて……
はっ、まさか店長、私を売ったんですか!?
あれだけこの店の売り上げに貢献し、SNSでアピールして知名度を上げた、この私を裏切ったんですか!
お客さんが来るようになったのは、誰のおかげだと思っているんですか!
許さない!
絶対に許さない!
私を裏切った人間を絶対に許さない!
覚えていろよ、愚かな人間どもよ!
絶対に後悔させてやる。
絶対に後悔させてやるからな、ニンゲンドモォォォォォ――
(雪女は、母親と思わしき女性に引きずられて、店を出ていく)
(それを見た店長が、申し訳なさそうに話しかけてきた)
騒がしてしまって、申し訳ありません。
あの子の代わりに、私がお詫びいたします。
誤解しないでほしいんですけど、本当は優しくていい子なんですよ。
ただラーメンの事になると、暴走しがちなだけで……
……見たら分かる、ですって?
まあ、そうですね。
そのくらいラーメンが好きって言う事なんですが、まあ、食べ過ぎましてね。
そのせいで体を壊して、食事制限が出ているんですよ……
普段は家族が見張っているんですが、たまに隙を見て来店してくるんです。
『死んでも食べたい』と言ってもらえるのは、料理人として光栄なんですけどね。
本当に死なれると困るから、家族に通報することになっているんです。
……びっくりしたけど気にしてない、ですか。
はは、そう言ってもらえると助かります。
それよりラーメンが食べたい?
大丈夫、分かってますよ。
ただその前に、入り口の方を見てもらえませんか?
ほら、男の方がいるでしょう?
はい、あの険しい目つきでこちらを見ている男性です。
知らない人ですって?
いえいえ、あなたのお父様ですよ。
誤魔化しても無駄です。
あの方が、あなたにお話があるとか……
それも、ラーメンについてですって。
ほら、行ってらっしゃい。
ここにいても無駄ですよ。
ラーメンは絶対にお出ししませんから。
そんなに恨みがましい目で見ないでください。
ちゃんとお父様と一緒に、病院に行ってくださいね。
お医者さんから許可が出たら、その時はお出ししますよ。
……病院に行くくらいなら死んでやる、なんて言わないでください。
本当に死んだら、二度とラーメンを食べられないんですから。
110.『手放した時間』『君が隠した鍵』『落ち葉の道』
「うわっ、なんだこれ!?」
朝起きてリビングに行くと、そこには落ち葉の道が出来ていた。
いや、本当の落ち葉じゃない。
私の赤い靴下が、あちらこちらに散乱しているのだ。
まるで泥棒が入ったかのような有様だけど、私には心当たりがあった。
これは飼い猫のレオの仕業。
靴下に異常な執念を持っている、イタズラ好きの猫だ。
今回も、寝る前に取り込んだ洗濯物を、レオが荒らしたのだろう。
肝心の犯猫はどこにも見えないが、きっとその辺りで寝ているはずだ。
イタズラを終えたら、一仕事を終えたとばかりにどこかに隠れて寝てしまうのだ。
しかも巧妙に、である。
そのうち出てくるだろうと思い、私は散らかった洗濯物を再び畳む。
何回もレオを叱っているのだが、まったく反省の色はない。
隠れている事からも分かるように、レオはこれが悪い事だとは分かっている。
けれど内なる衝動を抑えられないのか、こうして定期的に靴下が荒らされるのだ。
でも、私はそんなに怒ってなかったりする。
レオが、私の気を引こうとしてイタズラしているのは分かっているからだ。
なにより、私が憎からず思っている事がレオにはバレバレなのだ。
なんだかんだで、私はこうして靴下を集める時間が好きだった。
レオはもともと実家で飼っていた猫だ。
私が小学生のころ、子猫のレオを親が引き取って、それ以来彼は私の弟になった。
でも私が猫アレルギー発症してしまったことから、レオはおじいちゃんの家に預けられた。
アレルギー症状は出なくなったけど、年に数回しかレオに会えず、私は寂しい思いをした。
けど私たちは今一緒に住んでいる。
大学進学の際、おじいちゃんの家が近いので住まわせてもらっているのだ。
アレルギーの件も、医者の指導の下なんとかやっている。
根本的な解決ではないけれど、私たちは楽しくやっていた。
レオのイタズラも、多分寂しかった事への裏返しなのだ。
私が手放したレオとの時間。
それを埋めるように、私に甘えているのだ。
「それにしても、今日は赤色の靴下ばっかりだな……」
私がぶつぶつ言いながら靴下を片づけていると、すぐに大学に行く時間になった。
いつもならレオも姿を現す時間なのだけど、今回は特に疲れていたのか、最後まで起きてこなかった。
私はさっと朝食を摂って、玄関に向かう。
おじいちゃんとおばあちゃんは朝早くから出かけているので、今日は私が鍵をかけないといけない。
私は、鍵が入れてある小物入れに視線を向けた。
「あれ、鍵がない……」
芯から冷えるような感覚があった。
昨晩確かにここに置いたはずなのだ。
それなのに、鍵がないのはどういう事だろう。
おじいちゃんが持っていった?
いや、ここに置いてあったのはスペアキー。
持っていくはずがない。
「どうしよう、鍵をかけずに行けないよ」
どこかに落ちているのだろうか?
そう思い、周囲を見渡しているとあるものが目に入った。
片方だけの、赤色の靴下だ。
「なんでこんなところに」
そういえば、荒らされた靴下を回収したとき、一組だけ片方が無かった。
ペアの片方がなくなるのは日常茶飯事なので、特に気に留めてなかったのだが、
まさかこんな所にあるとは……
私は帰ってから整理しようと、靴下を摘まみ上げる
「……何か入っているな」
持った瞬間、硬い感触があった。
なんだろうと不思議に思い、何気なく中身を取り出す。
そして私は中身を見て、仰天した。
「な、なにい!?」
鍵だった。
『なぜこんなところに?』と思っていると、のそっと、レオが現れた。
その顔は、どこかドヤ顔で『必要だと聞いたので入れておきましたよ』と言わんばかりである。
そう言えば、今日荒らされたのは赤色の靴下。
いつもは色関係なく荒らすレオが、赤色だけをターゲットにしているのは珍しいと思っていたが、まさか……
「レオ、お前サンタのつもりか?」
ニャオ。
レオが答える。
猫語は全く分からないけど、タイミングは出来過ぎだ。
怒る気も失せて、私は思わず笑ってしまった。
「ではありがたく。
君が隠した鍵を使って家をでますね」
レオは満足したのか、喉をゴロゴロならして私を見送る。
離れていた数年間の間に、我が弟は随分と成長したようだ。
きっとこれからも、私を驚かせてくれるに違いない。
次は、どんなサプライズをしてくれるのだろう。
期待に胸を膨らませながら、私は大学へと向かうのだった。
109.『見えない未来へ』『夢の断片』『紅の記憶』
ここは、オルベリアス王国。
名前に、富と自由を冠する商業の国。
この国では、稼ぐことこそが正義であり、ステータスである。
他国では侮辱される成金も、この国では英雄として称えられる。
平民であっても他を凌ぐほど富を築く人間がいれば、国王自らが頭を下げて『貴族になってほしい』と懇願するほど、実力主義が徹底している。
その国風は、貴族すら例外ではない。
高貴なる身分の者は、商才に恵まれている事が絶対条件。
才無きものは、王族であろうとも容赦なく身分を剥奪される。
厳格な自由に基づく経済競争。
まさに現代の弱肉強食である。
だが、貴族が没落することは滅多にない。
貴族たちは家名に恥じぬよう、子息に英才教育を施すからだ。
今から語る物語の主人公もその一人。
幼い頃から世界最高峰の教育を受け、『国一番の商人になれ』となるべく育てられた。
彼女の名前はオフィーリア=オルベリアス。
この国の第一王女である。
オフィーリアは才女であった。
あらゆる知識を吸収し、万事に通じる天才少女。
国始まって以来の天才と持て囃され、誰もが彼女を次期国王と信じて疑わない。
彼女自身も過酷なカリキュラムを全てこなし、総仕上げとして有力な商家へと弟子入りを果たしていた。
そこでも頭角を現した彼女は、すぐに支店の一つを任され采配を振るうことになる。
彼女の華麗な経歴に、人々は羨望と尊敬の眼差しを向けた。
だが――
「うぎゃあ、注文数のケタ間違えたぁ!」
残念なことに、オフィーリアという少女はドジだった。
「納品が今日!?
受け取りの日付も間違えてる!」
致命的なレベルでドジだった。
彼女は来る年末商戦に向け、様々な商品を注文していた。
その中の目玉商品、聖誕祭限定のスペシャルケーキも含まれていたのだが、あろうことか彼女は注文を間違えていた。
「おおう、型番も間違えてる。
聖誕祭仕様じゃなくて、生クリームたっぷりの普通のホールケーキだ。
だから誰も指摘してくれなかったんだな」
踏んだり蹴ったりとはこのことだ。
「聖誕祭の時期なら売れるのに……
一ヶ月前は、さすがに需要はない!」
聖誕祭――
一年の終わりに行われる、一年で最も大きなイベント。
普段は節約志向の家庭も、この日ばかりは財布のひもが緩み、競って贅沢品を買い集める。
その中でも聖誕祭用にデコレートされたケーキは売れ筋商品であった。
だが逆を言えば、聖誕祭シーズンでもなければケーキはあまり売れない。
日持ちしない高価なケーキは、文字通り贅沢品。
多少は売れるだろうが、完売する見込みはゼロと言っていい。
「これがクッキーとかならよかったんだけどな……」
日持ちするものなら、ゆっくりと長い時間をかけて売ることが出来る。
だが大量にあるのは、当日に消費することが望まれるケーキ。
今日中に売り捌かなければ、大赤字だった。
「あ、赤字、大赤字だわ……」
オフィーリアはガタガタと震える。
商業国家オルベリアス王国では、売上金がすべてだ。
その中で大赤字を出せばどうなるか?
「身分の…… はく奪……」
悪夢だった。
オフィーリアが王族でいられるのは優秀だからで、決して王の娘に生まれたからではない。
『商才なし』と烙印を押されれば、明日から平民である。
約束された素晴らしい未来は、いまや先の見えない未来へと変貌してしまった。
「なんとかフォローしなければ。
でもどうやって?」
オフィーリアは頭を抱えた。
意外に思われるかもしれないが、オルベリアス王国では赤字を出すこと自体は比較的寛容だ。
手放しで許されるわけではないが、長く商売をやっていれば、そういうことは何度もあるし、長い目で見れば回収できることもあるからだ。
だからこそ、『それなら赤字でも仕方ない』と思わせる策が必要だった。
だが、何も思い浮かばない。
どんな危機的状況でも即座に解決策を打ち出せる彼女の頭脳も、目の前の在庫の山と、焦りと恐怖から、うまく働かないでいた。
『いっそ夜逃げしようかしら』
彼女がすべてを諦めかけた、まさにその時であった。
「お困りかい、お姫様」
彼女が顔を上げれば、部屋に入り口に見知った顔があった。
部屋の入り口に立っていたのは、フィーリアの婚約者兼、専属コンサルタントであるアレクシスであった。
この国では、商人が高い地位を占めている。
だが、商品には詳しい商人も、経営はずぶの素人であることは珍しくない。
そこで経営戦略に長けたコンサルタントが、商人に手助けして店舗を大きくしていく。
この国での基本的な戦略であった。
そして、足りない部分を互いに補い、店を大きくしていく過程で、そのまま夫婦になるも例も珍しくない。
オフィーリアとアレクシスも、公私ともに良きパートナーとなることを望まれて婚約を結ばされていた。
はずなのだが、
「お帰り下さい」
オフィーリアは嫌そうな顔で、そう告げた。
コンサルタントもピンキリだ。
伝説のコンサルタントは財政の傾いた国すら立て直すが、腕の悪いものは破産まで一直線。
そして、目の前にいる少年は、残念ながら後者であった。
「せっかく助けに来たのに、なんだよ、その言い草。
助けてやらねえぞ」
「ええ、それがいいわ。
そっちの方が傷が浅くて済むもの」
オフィーリアの脳裏に思い浮かぶのは、紅の記憶。
彼のアドバイスを信じたばかりに、帳簿が文字通り赤一色に染まったあの日。
アドバイスを受けなければ、ここまで大惨事にはならなかったであろう。
それ以来、オフィーリアは心に誓っている。
「こいつのいう事は二度と信じない」と。
「はん、そんな事を言えるのも今のうちウチだ。
俺の案を聞いたら腰を抜かすぜ」
「はあ、言うだけ言ってみなさいな。
聞く『だけ』ならタダだもの」
「ケーキを十倍の値段で売る」
「却下。
ただでさえ高いケーキを高くしてどうするのよ」
「他の人気商品とセットで売ろうぜ。
もちろん得な価格で」
「抱き合わせ商法ね。
数年前に禁止されてたの知らないの?」
「しゃあねえ、消費期限を改ざんしよう。
バレないって」
「シンプルに犯罪」
「……もう捨てれば?」
「残念ながら、捨てるにもお金がかかるの。
世知辛い世の中ね」
『どれこれも聞くに値しないアドバイスだった』。
オフィーリアの顔には、そう書かれていた。
オフィーリアの冷ややかな視線を受け、自信満々だったアレクシスはがっくりとうな垂れる。
今度こそ認めさせれると思ったのに。
アレクシスは苦々しそうに呟いた。
「もう、誰かに押し付けてしまえばどうだ?
タダなら受け取るやつもいるだろ――」
「それだ!」
「へ?」
さきほどまで死人のような顔をしていたオフィーリアが、パアッと満面の笑みを浮かべる。
その変わり様に何が何だか分からず、アレクシスは目を点にするのだった。
☆
「なるほど寄付か。
考えたな」
アレクシスは、目の前の光景を見て感心する。
広場にはケーキが山のように積まれ、そこにはたくさんの人が集まっていた。
『寄付は、採算度外視で行うものだ』
『これなら赤字が出ても、社会的信用を得るためだと、周囲に思ってもらえる』
そう計算したオフィーリアは、街の外れに住む貧民たちに『食糧支援』をすることにしたのだ。
下心満載で始まった寄付だが、貰う側に思惑なんて関係ない。
我先にとケーキは運び出され、どんどんと山は小さくなっていった。
その様子を眺める二人の前を、みすぼらしい格好の少年が通る。
食いだめするつもりなのだろうか、それとも日持ちしないのを知らず備蓄にしようというのか、はてまた家で待つ家族のためか。
少年は、腕にたくさんのケーキの箱を抱えて運んでいた。
「これで、在庫の処分費は心配しなくていいわね」
「この光景を見てそれかよ」
「『一か月早い聖誕祭ね』とでも言えばいいのかしら。
けど私の胃はキリキリしてて、彼らを慈しむ余裕なんて無いわ」
「そうかい」
アレクシスは苦笑する。
「でもいいのか?」
「何が?」
「寄付する相手が貧民でいいのかってことだ。
別に、平民や貧乏貴族に寄付しても喜ぶだろうよ」
「大丈夫よ。
私は商人であると同時に、王族だから」
「というと?」
「数字の上での稼ぎも大事だわ。
けれど国を統べる一族として、私たちは国を富ませる義務があるの。
そのためにも一人でも多くの商人を増やす必要があるわ。
その上で平民は寄付が無くても生きていけるけど、ここの人たちはそうじゃない。
明日の食べ物すら困っている彼らに寄付すれば、生きていく事が出来るわ。
そうすれば、この中から成金が出て貴族に人も出るかもしれないでしょう。
それは国の利益よ。
そう思わない?」
「詭弁だね」
オフィーリアの言葉を、少年は鼻で笑う。
「確かに生きることは出来るがそれだけさ。
平民で貴族になった奴はいるが、貧民が貴族になった例はない。
商売には金がいる。
食うものを買う金にすら困るやつが、貴族になるなんて夢のまた夢だよ」
それを聞いたオフィーリアは、悲しそうに眉をひそめた。
少年を軽蔑したからではない。
それが事実だと知っているからだ。
「いいじゃない、夢を見たって。
お金を稼ぐだけじゃ、つまらないわ」
「……まあ、お前のものだからさ。
どうしようと文句はないよ」
二人の間に気まずい空気が流れる。
別にアレクシスは、オフィーリアを糾弾したいわけではない。
付き合いの深さゆえに、無遠慮な物言いをしてしまっただけだ。
言い過ぎたことを反省したアレクシスが、謝罪の言葉を口に出そうとした時だった。
二人の前に一人の少年が駆け寄って来た。
先ほどやまほどのケーキを抱えていた少年だ。
だが、彼の抱えていたケーキの箱はどこにもなかった。
「何か用かしら?」
オフィーリアがそう尋ねると、少年はニっと笑って答えた。
「あんたらだろ、寄付してくれたのは。
一言お礼を言おうと思って」
「お礼?
ああ、ケーキの事ですね。
気にすることはありません、国民に奉仕するのは貴族の義務で――」
「そうじゃなくって」
少年はオフィーリアの言葉を遮り、懐から革袋を取り出す。
「存分に稼がせてもらったからな。
その礼だ」
チャリと重たい音が響く。
彼が誇らしげに掲げた革袋はたくさんの銀貨が入っているのか、ずっしりと重量感があった。
「あれを売ったんですか?」
「ああ、そこら辺を歩いていた観光客にな。
『今だけの限定品』って言いながら、笑顔で近づけばイチコロさ」
オフィーリアとアレクシスは、互いに顔を見合わせた。
「ただでもらった物を売るほど、もうかる商売はないね。
俺、貴族になるのが夢なんだ。
この金さえあれば、俺も商売を始めれる 。
助かったよ」
「じゃあな」。
そう言って、少年は夢の断片が詰まった袋を握り締め、風の様に去っていく。
その様子を呆然と見送る二人。
少年が見えなくなり、しばらくしてアレクシスが呟いた。
「貧民から貴族が出る日も近そうだ」
二人は笑った。
108.『冬へ』『記憶のランタン』『吹き抜ける風』
11月中旬。
本格的に寒くなる前に、私は冬への準備をすることにした。
『今頃かよ』と呆れられそうだが、忘れていたので仕方ない。
一応やろうとは思っていたのだが、物忘れが激しいため、寒くなっても冬支度が出来ないでいた。
そんなわけで、思い出したが吉日ばかりに、私は押し入れを漁っていた。
「冬服は確かここらへんに……
おや?」
衣装箱を動かそうとしたとき、その横に見慣れないものがあった。
気になったので取り出してみると、それは小さなランタンだった。
いかにもチープな、オモチャのランタン。
趣味からかけ離れているので自分で買ったとは思えず、おそらく貰いものだった。
ただ、どこで手に入れたのかはどうしても思い出せない。
買ってはいないのは確かでも、誰にもらったか分からないのは気持ち悪い。
『湧いて出てきたのだ』と言われたら信じてしまいそうなほど、私は心当たりが無かった。
なんとか思い出そうとランタンをくるくる回していると、底に一枚の紙が貼っている事に気づいた。
それはメモだった。
忘れっぽい私が、説明書代わりに付けているメモ。
私は『これならば』と思い、メモを手に取る。
そこには一言、こう書かれていた。
『記憶のランタン』。
一見して意味不明な文章。
だが私は、その言葉を見て一週間前のことを思い出していた。
あれは風の強い日だった。
ベルが鳴ったので玄関のドアを開けると、吹き抜ける風が私の部屋をメチャクチャに散らかしたのだ。
あの時の絶望した気持ちはよく覚えている。
その原因となった、訪問客のバツの悪そうな顔も……
訪問客は、新興宗教の勧誘だった。
なんでも私を救うためにやって来たらしい。
余計なお世話にもほどがあるが、宗教の勧誘によくある強引さで居座られ、彼の話を一方的に聞かされた。
興味がないので聞き流していたが、一つだけ私の興味を引くものがあった。
なんと、彼の属する宗教に入信すれば、記憶力が上がると言うのである。
正確には、お布施と引き換えに霊験あらたかな品が貰えると言う。
その一つが『記憶のランタン』である。
宗教には興味はないが、記憶力が上がるのなら話は別だ。
私は彼に詳しい話を聞いた。
だが、そうそう都合のいい話は転がってない。
なんと寄付に5万円必要だと言うのである。
私の悪癖が治るのなら5万でも安いが、給料日前の私にはとても払えない。
泣く泣く辞退の旨を伝えると、彼は笑顔でこう言った。
「でしたら給料が入るころにまた来ます。
このランタンを置いていくので、神の愛を感じてください。
ご利益ありますよ」
そして今に至る。
ついでに言えば、約束の日は今日である。
メモにも書いてあるから間違いない。
そして見計らったかのように、玄関のベルが鳴った。
「こんちには」
彼は笑顔で玄関の前に立っていた。
今にでも彼のマシンガントークが始まりそうな雰囲気。
でも私は彼に伝えることがある。
彼が話し始める前に、勇気を出して切り出した。
「これはお返しします。
ご利益なかったので」
私がランタンを差し出すと、笑顔だった彼は急に怒り出した。
「いい加減にしろ!
お金払いたくないからって、下手な嘘を吐くな!」
私は首を横に振りながら言った。
「いいえ、本当の事です
その証拠に、アナタに渡すはずだったお金を用意するのを忘れました」