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11/22/2025, 12:33:57 AM

107.『ささやかな約束』『木漏れ日の跡』『君を照らす月』



「シェイプシフター?
 どんな魔物ですか?」
「人間に化けることが出来る魔物さ。
 形状(シェイプ)を変化させるもの(シフター)だから、そう呼ばれている」
「バン様は物知りですね」
「冒険者の間では常識だよ」
 俺が説明すると、妻のクレアは感心したようにうなずいた。
 先輩冒険者に飽きるほど聞かされた話だが、冒険者ではないクレアにとっては新鮮らしい。
 夜のとばりで表情は判然としないが、それでも隠しきれないほどクレアの目は輝いていた。
 俺は顔がにやけることを自覚しながら話を続ける。

「戦闘力はさほどじゃないけど、かなり危険な魔物だ。
 ぱっと見では見分けがつかないからね」
「ですが所詮ニセモノでしょう?
 姿だけ真似ても、癖や言葉使いで分かるのでは?」
「ところが、やつら記憶が読めるんだ。
 完全ではないが、いかにもそれっぽく振舞って騙してくる」
「そんな……」
「たちの悪い事に、魔物は化けた本人だと思い込んで接触してくる。
 存在自体が嘘の癖に、言動に嘘がないから騙される人間は多い。
 生き残った奴らも『変だとは思ったが、まさか魔物とは思わなかった』と証言しているしな」

 そう言うと、クレアは不安からか、顔をこわばらせた。
 きっと俺に化けた魔物が出て来たところを想像してしまったのだろう。
 無理もない。
 俺たちは今まさに、シェイプシフターの生息地にいるのだから……


 俺たちは今、『帰らずの森』にいた。
 名前の由来は、もちろん多くの人間がシェイプシフターの餌食になって戻らなかったから。
 こんな物騒なところは近づかないに限るのだが、ここを通れば目的地まで大幅なショートカットになる。
 そのため、俺たちは危険を承知で通ることにしたのだ。

 冒険者の間ではシェイプシフターは警戒すべき相手なのは常識だが、クレアは元々聖女であり魔物に詳しくない。
 そこで魔物の危険性を共有するために、クレアにこうして説明をしているのだった。

 だが少しだけ怖がらせ過ぎたのかもと思った。
 先ほどからクレアは、顔を真っ青にして震えていた。
 何も知らないのは危険だと説明したが、これでは逆効果だった。

 それに愛する人を怯えさせるのは本望じゃない。
 俺はためらいつつも、クレアの手をそっと握った。

「大丈夫だよ、クレア。
 俺がついてる」
 俺が手を握ると、クレアは驚いたように顔を上げた。
「こうして手を握っていれば、魔物が出ても問題ない。
 手を握っているのが本物なんだから、それ以外は偽物さ」
「バン様……」
 クレアが頬を赤らめる。
 いつものクレアなら、恥ずかしさのあまりすぐに目を逸らすのだが、よっほど参っていたらしい。
 潤んだ瞳でこちらを見つめて来た。

 正直俺も恥ずかしいが、クレアが安心してくれるのであれば喜んで受け入れよう。
 結婚式の日、俺はクレアに約束したのだ。
 『君を照らす月のように、ずっとそばにいよう』
 ありふれて、ささやかな約束。
 絶対にクレアに魔物を近づけてなるものかと、心に誓うのだった。

「さあ、行くぞ。
 対策は万全でも、出逢わないに越したことは無い。
 全速力だ!」
 俺は気恥ずかしさを誤魔化すように、クレアの手を引く。
 こんな物騒な森に、クレアをいさせるわけにはいかない。
 そう思って一歩前に出た、その瞬間だった。

 胸に鋭い痛みを覚えた。
 驚いて胸を見ると、剣の先が突き出ていた。
 意味が分からず動転するが、それよりもクレアが心配だ。
 俺は痛みをこらえながら、さらに一歩前に出て剣を引き抜く。
 そしてよろめく体にムチ打ちながら、愛するクレアの方に振り返る。
 だが――

「なんで……」
 そこにいたのは、クレアだった。
 だがクレアは血まみれの剣を持って立って佇んでいた。
 意味が分からず呆然とする俺。
 何もできずその場に立ち尽くす。

 その時月が顔を出した。
 満月で、夜にもかかわらず、木漏れ日の跡が出来るほど明るかった。
 その明るい月の光は、そしてクレアの顔を照らし出す。
 そこにあったのは――

 ――獰猛な笑顔だった。

 そして俺は、遅ればせながら気づいた。
 目の前にいるクレアが、シェイプシフターであることに。
「あなたが悪いんですよ」
 喜色を含んだ声。
 馬鹿な、今まで一緒にいたのは偽物だったというのか。
 では本物のクレアは今どこに?

 動揺する俺に向かって、シェイプシフターは剣をおおきく振りかぶった。
(どうか無事でいてくれ……)
 俺は愛する人を案じながら、事切れたのだった――


 ☆

「ふう、危うく騙されるところでした」
 夫の姿をした魔物を前に、私はため息をつく。
 暗かったため不安だったが、どうやらうまく急所を付けたようで、魔物はピクリとも動かない。
 既に息絶えたようだ。

 あらかじめ聞いていた通り、魔物は自分がバン様だと思い込んで接触してきた。
 始めは警戒していた私も、しばらくの間は気づくことが出来きなかった。
 恐ろしい魔物だ。
 『存在自体が嘘の癖に、言動に嘘がない』。
 その意味をしみじみと実感した。
 だが――

「バン様は意外とウブなので、自分からは手を握らないんですよ」
 確かに私たちは夫婦だが、だからこそ躊躇《ちゅうちょ》することもあるのだ。
 その辺りの機微が分からない辺り、やはり魔物なのだろう。

 それにしてもバン様は無事だろうか……
 魔物に騙されなければいいけれど。
 なにせ、見抜く自信があった私ですらギリギリだったのだ。

「どうかご無事でありますように」
 いつものように祈りを捧げていた、どの時だった。
 近くの茂みがガサガサと音を立てて、人影が出てきた。
「クレア、無事か!」
 だれであろう、夫のバン様だった。
 
「よくご無事で!
 私の方は大丈夫、魔物を返り討ちにしました」
「ああ、本当に良かった。
 今まで生きた心地がしなかったよ。
 どうやって倒したんだ?」
「ええ、この剣のおかげです」
「さすがクレアだ」

 心配していたバン様も、どこにも怪我がない。
 これで何も心配は無くなった。
 安堵のため息を吐いた、その瞬間だった。

「油断したな」
 いつの間にか剣を抜いていたバン様に、私は真っ二つにされたのであった――
 

 ☆

「シェイプシフターは意外といい加減だな。
 クレアが使う武器はメイスだぞ。
 剣なんて使うわけがない」

 目の前に横たわる妻の姿をした魔物の前で呟く。
 魔物はこと切れたようで、ピクリとも動かない。
 とりあえずこれで安心だ。

 さっきも数体クレアの姿をした魔物と遭遇したが、姿だけならば見分けがつかなかった。
 想像以上に恐ろしい森だ。
 こんな物騒な森、早く出ないといけない。

 早くクレアと合流しよう。
 踵を返し、クレアを探しに行こうとした、その時だった。

「バン様ーーー」
 草むらからクレアが飛び出し、オレに抱き着く。
「わたし、寂しかったですぅ」
 クレアはオレの腰に手をまわして、力強く抱きしめる
 どうやらかなり怖い思いをしたらしい。
 オレは夫として、情けない思いに駆られる。

 なぜ彼女を泣かせてしまったのか。
 きっとオレの力不足なのだろう。
 もっと強くなろう、そう誓った、その瞬間だった。

「そしてサヨナラですぅ」
 クレアの姿をした何かは、そのままオレの体をへし折ったのだった――


 ☆

「やはり偽物でしたかぁ。
 本物のバン様なら、これくらいじゃあ死にませんよぉ」
 三つ折りにした魔物を前に呟く。
 どうやら魔物と言えど、三つ折りにすれば死ぬらしい。
 私は会ったときに教えてあげようと鼻息を荒くした、その時だった。

 近くの草むらから物音がしたのを聞いて、わたしは反射的に草むらに飛びかかり、相手に抱き着いて力を入れる。
 愛しのバン様ならば、この程度のサバ折など意に介さない。
 敵なら死ぬだろう、私は本気で抱きしめた。

「折れない!
 これは本物のバン様ですね!」
 喜びのあまり、バン様に口づけをしようとした、その瞬間だった。

「ごっつあんです」
 バン様の姿をした何かは、私を平手打ちして首の骨を折ったのだった――
 

 ★


 ――
 ――――
 ――――――

 
 ★

 
「森が騒がしいですね」

 森沿いの街道を歩いていると、クレアが森を見ながら呟いた。
 確かに森が騒がしい。
 森の中から叫び声や、悲鳴が響いている。
 その理由を察した俺は、苦笑しながらその理由を話す。

「シェイプシフターが張り切っているんだよ。
 久々の獲物だってね」
「久々ですか?
 ここは『帰らずの森』なんでしょう?」
「『帰らずの森』だからさ。
 有名になり過ぎて、誰も入らなくなったんだよ。
 ここ百年は犠牲者は出ていないぞ」
「ああ、そういう事ですか」
 クレアは納得したように頷く。
 危険なら近づかなければいい。
 当然といえば当然の話。
 子供でも知っている事だ。

「ですが、さすがに賑やかすぎは?
 私たち、森の中に入ってませんよ」
「ああ、奴らは待ち伏せするために、予め化けるんだ。
 で、シェイプシフターの変化は人間を騙すほど高度な術なんだが、それは魔物にとってもそうでな」
「つまり、同士討ちしていると」
「そういうこと」
「なんですか、それ」

 そう言って、クスクスと笑うクレア。
 余程おかしかったらしい。
 珍しく大きく肩を揺らしながら笑っていた。

 それを見た俺は、思わず頬が緩む。
 やっぱり笑うクレアが一番かわいいと、俺はそう信じている。
 絶対に本人には言わないけれど。

「ところで、もし偽物の私が出てきたら見分けられますか?」
「当然だ。
 と言いたいところだが、無理だな」
「愛が足りないですね」
「そういう意味じゃない。
 今見たように、シェイプシフターがとんでもなく張り切っているだろ。
 その状態で森に入るとどうなると思う?
 クレアに化けた偽物が何十匹と殺到して来て、てんやわんやさ。
 偽物が一人いるくらいなら見分けられる自信があるけど、さすがに無数の偽物が殺到してきたら見分けるどころじゃない。
 ご理解いただきたいね」
「理解できるような、出来ないような」
 腑に落ちないといった様子で、うんうんと唸る。
 そのまましばらく唸っていたが、これ以上考えても仕方ないと思ったのか、大きくため息を吐いて俺を見た。

「しかし、どちらにせよ森を抜けないといけないのですよね?
 どうするんですか?
 私も無数のバン様に追いかけられるのは嫌ですよ」
「そこは問題ない。
 この先にワイバーンの農場があってな。
 そこでワイバーンを借りて、森を飛び越える」
「飛び越える……」
「ああ、通り抜けれないなら空から飛び越えていまえばいい。
 奴らを森に置いてけぼりにする」
「あの、肩を持つわけではありませんが、シェイプシフターがあまりにも不憫ではありませんか?」
「そんなことないさ。
 奴らは体を変化させることで繁栄して来たけど、俺たちは思考を柔軟に変化させることで繫栄したんだ。
 やつらがシェイプシフターなら、俺たちはパラダイムシフター(発想を変えるもの)だ。
 柔軟にいこうぜ」

11/18/2025, 1:22:56 PM

106.『ティーカップ』『心の迷路』『祈りの果て』



 モジホコリという粘菌をご存知だろうか?

 このモジホコリ、実は驚くべき特性がある。
 なんと迷路を解くことができるのだ。

 まずモジホコリが張り巡らされた特殊な迷路に、2つのエサを置く。
 すると行き止まりや迂回路から徐々に細胞を収縮させ、最終的に2か所を結ぶ経路だけを残す。
 それも最短経路である。

 『脳を持たない粘菌が、知的な振る舞いをする』

 漫画『もやしもん』にも登場した、驚異のメカニズムである。
 この発見はイグノーベル賞を受賞し、様々な分野にも応用された。
 粘菌コンピュータといったものや、災害時の避難路のシミュレーションなど。
 実に多彩である。

 まだ語り足りないが、長くなるので興味がある人は自分で調べてもらいたい。
 さて、前置きはここまでにして、ここから本題に入りたいと思う。


 私はこのモジホコリを使って、ある薬を作った。
 多くの人々が欲しがるであろう、画期的な薬。
 迷いを失くす薬だ。

 こんな経験はないだろうか?
 2つの重大な選択肢を前に、どちらも選ぶことが出来ないと頭を抱えてしまったことに……
 どちらも選べないあなたは、選択を先送り。
 良いとこ取りの都合のいい選択肢が出てくることを祈り、そして祈りの果てに選択肢自体が無くなり機を逃してしまう。
 そんな苦い経験が。

 こう言った場合、『心の迷路に迷い込んだ』と表現されることがある。
 私はその心の迷路を、モジホコリを使って解決できないかと考えたのだ。
 ここまで言えば分かるだろう。

 私も、つい先日選択を迫られた。
 2つの選択肢を前に、どうしても選べなかった。
 どちらにもメリットがあり、デメリットがある。
 どうしても決めることが出来ない私は、選択を先延ばしにし続け、実生活に影響が出てしまった。
 このままでは、人として満足な生活を送れなくなる
 危機感を覚えた私は、急ピッチでこの薬を作ったのである。

 そしてその薬が目の前にある。
 モジホコリを粉末にし、特殊な薬品と混ぜた薬。
 私はそれを、ティーカップに注がれた水に溶かし、一気に飲み込む。
 不安と期待で押しつぶされそうになること数分、私の心の中にようやくモジホコリが現れる。

 すると徐々に心の中にある長大で難解な迷路の隅々まで、細胞が張り巡らされていく。
 思考の行き止まりや、堂々巡りを避けていき、モジホコリはゴールを目指す。
 そして迷路は解かれた。
 そこに残ったのは、たった一つのシンプルな答え。
 それは――

「よし!
 A社の洗剤を使おう」

 これでようやく洗濯が出来る。
 色々良さそうな洗剤がたくさんあって、目移りしちゃうんだよね。

 これぞ、究極の洗濯ってね

11/15/2025, 2:13:17 AM

105.『透明な羽根』『寂しくて』『心の境界線』


 寒くなると人肌が恋しくなる。
 独身の男にとって、この季節は特に。

 月日が経つにつれて慣れてしまうものだと思ったけど、どうにもそんな気配がない。
 寂しくて彼女を作ろうと奮起した時期もあるけれど、結局恋人は出来ずじまい。
 これも運命だと自分に言い聞かせても、心まで冷え込むようだった。

 けれど今、自分の部屋に女性がいる。
 しかも、彼女はこの部屋で夜を明かしたのだ。
 この奇跡に『我が身に春が来た』と言いたいところだけど、残念ながら彼女は恋人ではない。

 彼女は、小さい頃よく一緒に遊んだ幼馴染。
 名前は順子だ。
 親からは本当の兄妹みたいと言われるくらい仲が良かったけど、彼女が遠い所に引っ越した。
 会ったのはそれっきりで、記憶からも消えかかっていた。

 ところが昨日、バッタリ出くわした。
 仕事帰りのコンビニで、夜食を買おうとしたときに会ったのだ。
 突然の再会に話が弾んだ。
 ……弾みすぎて、順子が終電を逃してしまったが。

 『帰る手段がない』とおろおろする彼女に、俺は彼女を泊めることにした。
 もちろん付き合ってもいない女性を部屋に上げるべきなのか、そこは少し迷った。
 でも知らない仲ではないし、夜道を歩かせるのは気が引ける。
 『ホテル代くらいは出すよ』と代替案と一緒に伝えると、順子はあっさり了承し、申し訳なく微笑んだ。
 そして部屋に連れて来た。


 誓って言うが下心はない。
 たしかに恋人は欲しいが、困っている人間の弱みに付け込むほど落ちぶれてない。
 純粋な親切心として、部屋に上げることにした。
 もう一度言う、下心は無い。

 ――無いのだが、実際に順子を部屋に上げて気づいた。
 自分の部屋に女性がいると言うのが、どういう意味なのかと……

 順子がいるだけで、枯れた男部屋が潤いで満たされる。
 彼女の周りだけ、輝いているように見えるのは気のせいだろうか。
 香水を付けているのかいい匂いもしてきて、まるで自分の部屋じゃないかのような錯覚を起こす。
 見慣れた部屋が、まるで別物だ。

 奇跡の数々に、順子を『天使なのでは?』と半ば本気で思ってしまう。
 きっと背中には、俺には見えない透明の羽根がついているに違いない。
 もちろんそんな事はないのだが、そう思うほどに大事件であった。

 改めて、順子を異性として認識し始め、心臓が激しく鼓動する。
 さらに、あの幼かった順子がとびっきりの美人になっていたことも拍車をかける。
 自分のあまりの迂闊さに、過去へと戻って過去の自分を殴ってやりたいくらいだ。
 せめて心の準備が欲しかった。
 無かったはずの下心も頭を出し、俺の心の中は大混乱だった。

 それからの事はよく覚えていない。
 異性として意識している事に感づかれないにするだけで精いっぱいだったのだ。
 子供の頃仲が良く遊んだ思い出があるだけに、どうしても昔の様に接してしまう。
 お互いい歳をした男と女。
 もう少し節度を持ったお付き合いをすべきなのだが、全く距離感が分からないでいた。

 今日ほど女性に免疫がない事を悔やんだ日は無い。
 彼女の心の境界線がどこにあるか分からず、会話が続かないのだ。
 これ以上は俺の気が持たないと、電気を消して寝る提案をした。

 だがウチに来客用の布団は無い。
 どちらが布団で寝るかを議論し、最終的に一緒の布団に寝ることになった。
 ……なぜ?

 頭にハテナマークを浮かべながら一緒に布団に入る。
 あれほど待ち望んだ人肌だが、満たされる満足感よりも緊張の方が勝った。
 余裕のある順子が羨ましい。

 一睡もできないことを覚悟していたが、いつの間にか寝入っていた。
 外が明るさで目が覚め、寝起きの頭で一安心と思っていたが、まだ危機は去っていなかった。
 布団の中で、順子に抱き着かれていたのだ。

 おそらく寝ぼけて抱き着いたのだろう。
 順子が知ったら、きっと気まずい思いをするだろう。
 そうなる前に抜け出そうとするが、順子が身をよじる気配がして、ピタリと動きを止める。
 もしかしたら眠りが浅いのかもしれない。
 起こしては悪いと、とりあえず寝たフリをすることにした。

 今日が休みでよかった。
 いくらでも寝ていられる。
 ……いや、平日だった方が、朝の忙しさを理由に誤魔化せたのかもしれないのに。
 上手く行かないものだ。

 それにしても、これは心臓に悪い。
 確かに人肌が欲しかったが、これでは生殺しだ。
 もっと気楽に温もりを感じたいのに、どうしてこうなってしまったのか……

 それにしても人肌は良いものだ。
 側に誰かがいるというだけで、とても安らかな気持ちになる。
 布団の暖かさと相まって、とても心地よい。
 このまま眠ってしまいそうだが、そうもいかない。

 ああ、それにしても。
 誰かがいるっていいなあ。
 幸せな気分で、満たされて、このまま眠ってしまいそうだ。


 ◇

 寒くなると人肌が恋しくなる。
 独身の女にとって、この季節は特に。

 月日が経つにつれ慣れてしまうものだと思ったけど、どうにもそんな気配はない。
 恋人が出来そうにないので、代わりにと湯たんぽ付き抱き枕を買った。
 暖かく寝れるようにはなったが、余計に寂しさが募るばかりだった。

 けれど今、私は男性の部屋にいる。
 しかも、私はこの部屋で夜を明かしたのだ。
 この奇跡に『我が身に春が来た』と言いたいところだけど、残念ながら彼は恋人ではない。

 彼は、小さい頃よく一緒に遊んだ幼馴染。
 名前は…… 分からない。

 別に忘れたとかじゃなくて、本当の兄妹みたいに仲が良く、ずっと『お兄ちゃん』と呼んでいたから、知る必要がなかったのだ。
 けれど、私は引っ越してしまい、ずっと知らないままだった。

 ところが昨日、バッタリ出くわした。
 仕事帰りのコンビニで、夜食を買おうとしたときに会ったのだ。
 突然の再会に、思わず『お兄ちゃん』と言ってしまった。
 大人の男性を相手に失礼かと思ったのだが、特に気にした様子もなくホッとした。
 安心して話していたら終電を逃がしてしまったけど……

 『帰る手段がない』と困っていると、お兄ちゃんは『うちに泊っていけばいい』と提案してくれた。
 付き合ってもいない男性を部屋に上がってもいいのか、そこは少し迷った。
 けれど知らない仲ではないし、お兄ちゃんもさすがに手は出してこないだろう。
 ホテル代を出すとも言われたけれど、そこまで迷惑はかけられないと了承し、感謝の意を伝えた。
 そして部屋にやって来た。


 誓って言うが下心はない。
 たしかに恋人は欲しいが、あえて隙を見せて既成事実を作るほど落ちぶれてはいない。
 好意から来る申し出に、ありがたく申し受けただけ。
 もう一度言う、下心は無い。

 ――無いのだが、実際にお兄ちゃんの部屋に入って気づいた。
 男性の部屋に上がると言うのが、どういう意味なのかと……

 お兄ちゃんの部屋は、自分の無味乾燥な部屋とはまったく違った。
 自分とは異なる感性によって築き上げられた空間に、私は感嘆の息をもらす。
 そして芳香剤に混ざった微かな汗の香りを感じて、ここは自分の部屋じゃないと痛感する。
 始めて経験する男性の部屋に、私はどぎまぎしていた。

 あまりに予想外過ぎて『ひょっとして夢なのでは?』と半ば本気で思ってしまう。
 なにかの拍子にお兄ちゃんの事を思い出し、夢の中で親交を深めていると……
 もちろんそんな事はないのだが、そう思うほどに大事件であった。

 改めて、お兄ちゃんを異性として認識し始め、胸の奥がざわめく。
 さらに、あの幼かったお兄ちゃんがとびっきりのイケメンになっていたことも拍車をかける。
 自分のあまりの迂闊さに、過去へと戻って過去の自分を殴ってやりたいくらいだ。
 せめて心の準備が欲しかった。
 無かったはずの下心も頭を出し、私の心の中は大混乱だった。

 それからの事はよく覚えていない。
 異性として意識している事に感づかれないにするだけで精いっぱいだったのだ。
 子供の頃仲が良く遊んだ思い出があるだけに、どうしても昔の様に接してしまう。
 お互いい歳をした女と男。
 もう少し節度を持ったお付き合いをすべきなのだが、全く距離感が分からないでいた。
 特に『お兄ちゃん』呼びはどうにかしたかったのだけど、全くタイミングがつかずにいた。

 今日ほど男性に免疫がない事を悔やんだ日は無い。
 彼の心の境界線がどこにあるか分からず、会話が続かないのだ。
 これ以上は私の気が持たないと、電気を消して寝る提案をした。

 だがお兄ちゃんの部屋には、来客用の布団が無かった。
 どちらが布団で寝るかと議論し、最終的に一緒の布団に寝ることになった。
 ……なぜ?

 頭にハテナマークを浮かべながら一緒に布団に入る。
 あれほど待ち望んだ人肌だけど、満たされた満足感より緊張の方が勝った。
 余裕のあるお兄ちゃんが羨ましい。

 さすがに一睡もできないことを覚悟していたが、いつの間にか寝入っていた。
 外が明るさで目が覚め、寝起きの頭で一安心と思ったけど、まだ危機は去っていなかった。
 布団の中で、お兄ちゃんに抱き着いていたのだ。

 無意識のうちに、愛用の抱き枕のつもりで抱きしめてしまったらしい。
 お兄ちゃんにバレたら、私は恥ずかしくて顔を見れなくなるだろう。
 そうなる前に手を引こうとすると、お兄ちゃんが身をよじる気配がして、ピタリと動きを止める。
 もしかしたら眠りが浅いのかもしれない。
 起こすのも悪いと、とりあえず寝たフリをすることにした。

 今日が休みでよかった。
 いくらでも寝ていられる。
 ……いや、平日だった方が、朝の忙しさを理由に誤魔化せたのかもしれないのに。
 上手く行かないものだ。

 それにしても、これは心臓に悪い。
 確かに人肌が欲しかったが、これでは生殺しだ。
 もっと気楽に温もりを感じたいのに、どうしてこうなってしまったのか……
 
 それにしても人肌は良いものだ。
 側に誰かがいるというだけで、とても安らかな気持ちになる。
 布団の暖かさと相まって、とても心地よい。
 このまま眠ってしまいそうだが、そうもいかない。

 ああ、それにしても。
 誰かがいるっていいなあ。

 幸せな気分で、満たされて、このまま眠ってしまいそうだ。

11/12/2025, 10:29:10 AM

104.『時を止めて』『冬支度』『灯火を囲んで』


 最近ネットではタヌキの話題で盛り上がっていますね。
 あちらこちらでタヌキの可愛い画像が見られるようになったので、いちタヌキファンとしてとても喜んでおります。
 タヌキの時代が来たと言っても過言ではありません!

 この素晴らしき日を祝福し、今日はタヌキに関する豆知識をお教えしたいと思います。
 マル秘情報ですよ。
 一回しか言いませんので、よく聞いてくださいね。


 タヌキは時を止める事が出来ます。


 ……ええ、『何言ってんだ、こいつ』という目線は想定済みです。
 初めて知る方は、いつもその目をされます。
 ですが嘘ではありません。

 よく思い出してください。
 タヌキのどんくささを……
 走るのが遅く、木登りは苦手、狩りもヘタクソ。
 令和の時代になっても絶滅していないことが、世界七不思議に数えられるほどのどんくささ。
 今でこそ萌えポイントではありますが、そんなタヌキがどうして生き残っているのか、疑問に思った事はありませんか?

 そうです。
 その生き残る術が、『時止め』なのです。
 時を止めて自身の不器用さを補い、狩りを行っているのです。

 例えば、こんな経験はありませんか?
 友人たちと、わいわい灯火を囲んで盛り上がっている時のこと。
 楽しい時間を過ごしている最中、ふと気づけば手元にあった食べ物が無くなっていることに……

 無意識で食べたのだろうと思いがちですが、それは間違いです。
 そう、これはタヌキが時を止めて、こっそりと拝借している証拠なのです。
 そうして誰にも気づかれず食べ物を得るのが、タヌキの狩りなのです。

 では時を止めておける時間は、どれくらいでしょうか……
 仮説の域を出ませんが、およそ10分くらいです。
 え?
 長すぎる?

 いえいえ短すぎるくらいです。
 なんども言いますが、タヌキはどんくさいのです。
 時を止めることが出来ても、タヌキが俊敏になることはありません。
 獲物に近づく前に、時が戻ってしまう事が多くあります。
 どれだけ時間があっても、ダメな時はダメなのです。
 一説によると、狩りの成功率は3割ほどらしいです。

 さらに、時を止めると言う、奇跡とも言うべき所業は簡単ではありません。
 時にベテランのタヌキですら失敗することがあります。

 こんな経験はありませんか。
 ある時、あっという間に時間が過ぎ去ってしまった事は?
 それは未熟なタヌキによって、あなただけ時が止まったからです。
 あるいは、いつまで経っても時間が経たず、うんざりしてしまった事は?
 それは雑なタヌキによって、あなた以外の時が止まったからです。

 また、秋の夜長もタヌキが原因です。
 厳しい冬に備えるために、秋は活発(当社比)に狩りを行うからです。
 のんびり屋のタヌキも、冬支度だけは手を抜きません。
 そしてタヌキは夜行性なので必然的に夜に時間を止められることが多く、人間目線では秋は夜が長いと感じてしまうのです。

 これで信じて頂けたでしょうか?
 タヌキは時を止められます。
 これは事実です。


 ああ、一つ言い忘れていました。
 それは狸寝入りについてです。
 巷では、『ビックリして動けなくなっているだけ』と言われますが、それは違います。

 ここまでお読みいただいた皆さんならお分かりかと思いますが、タヌキが間違えて自分の時を止めてしまっただけなのです。
 のんびり屋のタヌキは、突然のハプニングには弱いのです。
 もし狸寝入りをしているタヌキを見かけたら、暖かい目で見守って下さい。
 タヌキは脅かさないようにしましょう。


 
 もしご友人の中に、タヌキの『時止め』を知らない人がいたらぜひ教えてあげてください。
 タヌキにより一層興味を持ってくれるはずです。
 タヌキの魅力を多くの人に広め、後世に伝えていきましょう。

 最後に。
 タヌキは基本的に野生動物です。
 近すぎず離れすぎず、適切な距離を心がけましょう。
 ストレスになるので、触ってはいけません。
 写真で我慢しましょう。

 これを読んだあなたが、よきタヌ活を送れることを心から願っています。


※この文章はフィクションです。
 実在の人物・団体・タヌキとは一切関係ありませんが、タヌキの愛らしさは真実です。
 LOVE & TANUKI !

11/9/2025, 2:44:04 AM

103.『秘密の標本』『行かないでと、願ったのに』『キンモクセイ』


 友人である沙都子の家に遊びに行くと、私の顔を見るなり沙都子が言った。
「百合子、あなた専用のトイレが出来たわ」
 私は思わず耳を疑った。
 全く意味が分からず、沙都子を二度見した。

 沙都子の家はお金持ちだ。
 トイレの一つや二つ、造作もなく作れるだろう。
 家も相応に大きいためトイレが数か所もあるし、私も普段はそこを使わせてもらっている。
 だからこそ分からない。
 なんで私専用のトイレが必要なのか?

 他の人からクレームが来たのかとも思ったが、多分違う。
 最低限のマナーとして綺麗に使っているし、それで注意を受けたこともない。
 とにかく何も心当たりがなかった。

「何を不思議そうな顔をしているのよ。
 あなた、先週来た時に『部屋の隣にトイレがあれば便利なんだけどな~』って言ったじゃない!」
「いや、それは冗談だよ!
 本当に作るとは思わないじゃんか!」
 まさかあの軽口が現実のものになろうとは……
 気が遠くなりそうだ。
 沙都子の前じゃ、おちおち冗談も言えない。

「とにかく!
 せっかく作ったんだから使ってちょうだい」
「はあ」
 実際必要ないけど、作ってもらっといて『いらない』とも言えない。
 私は釈然としない思いを抱きながら、トイレのドアを開けた。


 ドアを開けた瞬間、ふわりとキンモクセイの甘い香りが鼻をくすぐる。
 そこは庶民的なんだなと感心していると、すぐに間違いに気づかされた。
 トイレの中がとんでもなく広かったからだ。

 一人用にしては無駄にデカい広さで、なんと壁を隔てることなく、便座と同じ空間に庭がある。
 しかも不必要なほど立派な庭園で、そこには立派なキンモクセイが植えられていた。
 いい香りだと思ったが、まさか現物だったとは……
 まさか芳香剤代わりじゃないよね?

 庭だけじゃない。
 トイレの壁に、これでもかと多くの絵画が並べられていた。
 よく分からないけど、多分高価なものだ。
 でも芸術に興味が無いので不要な代物である。

 ていうか、こんな圧の中で用なんて足せるのか?
 絵の中の人、みんなこっちを見ているぞ……

 そして便座の横には透明のディスプレイが置いてあった。
 『秘密の標本』と書かれたプレートがあり、中には綺麗な蝶々が飾られている。
 『綺麗だけどどこら辺が秘密?』と思って見ていると、隅の方に『中身は日替わり、当日まで秘密』と書かれてあった。
 日替わりの標本?
 お金持ちの考えることは、本当に分からない……

 
 そのほかも気になる部分を見て、トイレの中をじっくり見て回るという、人生で最初で最後の経験をした。
 『常識よ、どこにも行かないで』と、願っていたのに、見る物全てが狂気の領域に足を踏み入れていた。
 お金持ちの普通がこれなのか、それとも沙都子の感覚がおかしいだけなのか……
 ぜひとも後者であって欲しいと思いつつ、私はトイレを後にした。

 外では、沙都子が『どーよ』とドヤ顔で私を待ち構えていた。
 それを見た私は、感謝の言葉を述べるべきか、それともあの狂気にツッコミをいれるべきか、本気で悩んだ。
 色々考えた末、最終的に私は自分の心に従うことにした。

「最初からやり直せ」

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