139.『今日にさようなら』『枯葉』『同情』
なんだよ、聞きたい話があるって。
話なら別に事務所でもいいだろ。
なにもこんなに騒がしい居酒屋に来なくたっていいだろうに……
お前、こういう騒がしい場所より、もっとオシャレなカフェとかの方が好きだろ……
……えっ、俺が探偵事務所を始めた理由が聞きたい?
いやいや、それはちょっと恥ずかしいなあ。
確かに事務所やカフェで改まって話すような事じゃないけどさ。
ほら、別の話題にしようぜ。
他に聞きたいこと、あるだろ……?
……ええっ、どうしても聞きたいって?
うーん、そこまで言うなら仕方がない。
じゃあ、名探偵・五条英雄の誕生物語を披露するとしよう。
一言も聞き漏らすなよ。
……『結局話すじゃん』とか言わない!
そのイタズラが成功したような顔もやめろ!
こほん。
えー、言ったことないと思うけど、俺は元々サラリーマンだったんだ。
日本人なら誰でも知っている大手に勤めててな。
……違う、自慢じゃねぇ。
とにかく、汗水たらして働いていた。
でもさ、『やりがいがあったか』って聞かれると微妙だな。
上司も同僚もいい人ばかりだし、今で言うホワイトな職場だったけど、俺には退屈な場所だった。
朝起きて飯食って、出勤して仕事をこなす。
終れば帰宅して、また飯を食って寝る……
次の日も、その次の日もおんなじ、朝起きて出勤して夜寝る。
ずっと代り映えの無い生活を送っていた。
休みは普通にあったけど、特に趣味はなかったから寝るだけだった。
いや、『趣味はあったけど、楽しむ気力が無かった』が正しいな。
あの頃の俺は、息をして動いているただの人形だった。
『つまらない今日』が毎日続く。
本当に苦痛だったよ。
もちろん抗おうとはしたぜ。
この退屈な日々から抜け出して、刺激的な日々を送ろうと思った事は一度や二度じゃない。
でも出来なかった。
辞めたところで行く当てもないし、他にやりたいこともない。
仕事では人並みに頼りにされていたこともあって、踏ん切りが付かなかったのもある。
そのまま何も出来ず、ただ月日だけが流れていった。
それから働き始めて3年目の冬のこと。
その時、公園で一人で弁当を食べていたんだが……
――ボッチとか言うな!
よく食う同僚とタイミングが合わなかっただけだよ!
いちいち茶々を入れないと聞けないのか、まったく!
えーと、何だっけ?
ああ、公園の話だったな。
ベンチに座って食べていると、公園を掃除している男性が目に入った。
地面に落ちた枯葉を箒で掃いていただけなんだが、なぜか目が離せなくてな。
なんとなく、その人をボーっと見ていたんだ。
で、ずーっと見ていたんだけど、余りにもガン見過ぎたんだろうな。
不意に目が合った。
……掃除の人に同情するって?
言い方に気を付けろ!
確かに、不審者だった自覚はあるけどな!
続けるぞ。
それで、清掃員は俺に聞くわけだ。
『何か用ですか?』ってさ。
馬鹿だと思われるかもしれないけれど、その時の俺、まさか声を掛けられると思わなくてさ。
すげえ焦って、とっさに『お仕事大変ですね』って言ったんだ。
するとさ、一瞬驚いた顔をして、でもすぐに笑顔になってこう言ったんだ。
『大変ですけど、楽しいですよ』ってな。
それを聞いて、俺は衝撃を受けた。
『俺もこんな風に笑って生きたい』、そう思ったんだ
……『正気か?』だと。
ぶっちゃげ、あの時の俺はどうかしていたんだろうな。
まあ、それくらい気が滅入っていたんだと思ってくれ。
そこから話が弾んで、実は掃除の人が『探偵』だって事が分かった。
それを聞いた俺は、すぐに仕事を辞めて、弟子入りを志願した。
探偵・五条英雄の誕生さ。
見習いだけどな。
探偵としての生活は、それはもう刺激的な日々だったよ。
あれほど悩んでいた自分が、馬鹿らしく思えたね。
探偵になって、俺はようやく『つまらない今日にさようなら』と相成ったわけさ。
まあ、それ以上に大変なことも多かったけどな。
なんせ、給料安いのに激務で――
……って、聞いてねえな、おい!
口いっぱいに食べ物頬張りやがって、リスかよ!
さっきから思ってたけど、あんまり集中してないだろ。
そっちから聞いてきたくせに、興味無しかよ!
……どうせ『定年後に蕎麦屋を始めるオヤジ』と思ったから、碌に話を聞かなかっただと!?
それは、俺も薄々思っているから、それ以上の追及はなしだ。
だが、そこまで分かってて、なんで話を振って来たんだよ!
……『男は自分の過去を聞かれたら喜んで話すから、そのまま気分よく奢らせろ』って本に書いてあった?
お前、最初から俺に奢らせる気かよ!
今月仕事ないから、火の車だって知っているだろ。
ていうか、そんな作戦バラす奴がいるかよ!?
……はあ、財布持ってきてないって!?
脇に置いてあるそのオシャレなバッグは飾りかよ!
今更隠しても無駄だ。
……最悪だ、結局俺が奢らないといけないのか……
……なに、質問があるって?
お前、この期に及んでまだ何かあるのかよ。
追加の注文はなしだぞ。
それ以外なら何でも言え……
……『探偵を始めて、どうか?』、だと?
はは、そんなの決まってる。
――大変だけど、やりがいはあるよ。
138.『10年後の私から届いた手紙』『誰よりも』『お気に入り』
『ゴールドを買え』
10年後の私から届いた手紙には、そう記されていた。
ゴールドとは金のこと。
投資の世界では、『安全資産』として有名だ。
世界情勢の影響を受けにくく、価格が安定していることからそう呼ばれる。
だが、その安全資産であるはずのゴールドが、社会不安を背景に4倍に暴騰するから買え、と言うのである。
さらに、ロシアとウクライナが戦争するという予言まで書かれていた。
にわかには信じ難い。
緊張状態にあるとはいえ、実際に戦争するとは思えなかった。
だから、この手紙は悪戯と見るのが筋だろう。
しかし一方で、私はこの手紙が、どうしても嘘を言っているようには思えなかった……
この手紙には、自分しか知りようがない『真実』が書かれているからだ。
自分が投資家であること、好きな女性のタイプ、嫌いな食べ物、初恋の相手の名前。
そして、私がインサイダー取引に手を染めているという事実までも……
このことを知っているのは、自分のほかに神様くらいのものだろう。
個人的に神様はいないと思っているので、手紙の主は自分以外にありえなかった。
手紙の主は、それらを指摘した上で『ゴールドを買え』と書いている。
悪戯だと断ずるには、真実である証拠が揃いすぎていた。
それに、インサイダーの事を知っているのなら、警察に告発するか、脅迫するのが筋である。
そのどちらもせず、『ゴールドを買え』というのは、正気とは思えなかった。
私は、一晩考えた末、ひとまずこの手紙が本当であると信じることにした。
しかし……
「効率が悪いよなぁ……」
仮に、この手紙に書かれたように、事態が推移したとしよう。
しかし、10年かけてたったの4倍だ。
正直な話、投資としての旨みが少ない。
インサイダー取引という禁じ手を使えば、資産を100倍に、いや1000倍にすることも夢ではない。
そこを、敢えてゴールドに投資する。
それもまた、正気とは思えなかった。
リスクを取って1000倍か、それとも安全を取って4倍か。
私は迷わず前者をえらんだ。
「4倍で満足するような私ではない。
資産を1000倍にして、誰よりも金を持った資産家になってやる!」
◇
10年後、私は刑務所にいた。
インサイダー取引が露見し、警察に捕まったのだ。
そして資産は没収され、手元には何一つ残ってない。
休日に乗り回したお気に入りの車も、私の物ではなくなった。
惨めな結末だった。
10年前の手紙を思い出す。
手紙の忠告に従っていれば、こんな事にはならなかった。
世界情勢は予言通りに悪化し、ロシアとウクライナは戦争したし、ゴールドは4倍に暴騰した。
あの日、欲を捨ててゴールドを買っていれば、今頃慎ましくも穏やかな日々を過ごせていただろう。
安全資産は、ただ価格が安定しているだけではない。
身の安全を保障してくれるから安全資産なのだ。
今になって、その真意に思い至った。
10年前の私は、なんと馬鹿だったのか……
過去の自分を殴り飛ばしたい!
そうして己の愚かさを嘆いている時、独房の床に見覚えのある便箋が落ちていることに気づいた。
それがどこから出てきたのか分からない。
しかし、間違いなく言えるのは、これがどうにかして10年前の自分に届くということ。
私は、過去を変えるチャンスを得たのだ。
その感動に打ち震えながら、私は筆を執った。
たくさん伝えたいことはあるが、ここは刑務所。
情報があまり入ってこず、書けることがあまり無い。
でも問題なかった。
伝えたいことは一つだけ。
手紙に知っていることを書き連ね、最後にあのフレーズを書き記す。
『ゴールドを買え』
137.『伝えたい』『待ってて』『バレンタイン』
地獄にだって、バレンタインはある。
地上のものとは少し趣が違うが。
地獄では、チョコの代わりに石を贈り合う。
こんな地の底に、オシャレな物なんて存在しないからだ。
だから、そこら中に転がってる石を贈り合い、お互いの絆を確かめあう。
地獄の住人たちの、数少ない娯楽であった。
だがここは地獄、ロクデナシどもが集まる場所。
死んでも治らない馬鹿が一堂に会するバレンタインなんて、碌な結末になるはずがない。
ひそかに伝えたい思いがあっても、最終的には直接憎悪をぶつけ合うことになる。
『ダサい石を貰った』『他の奴に綺麗な石をあげていた』『お返しはそこら辺の石』『あげた石を、他のやつにあげていた』などなど、トラブルの種はあちらこちらにある。
普通の人なら耐えれることも、ここの奴らは我慢しない。
すぐに喧嘩が始まり、仲間を巻き込んで大乱闘になるのだ。
しまいには、贈り合った石を手にして殴り合う。
地獄のバレンタインは、血の雨が降るのである。
もちろんこの事態に、地獄の鬼たちは黙っている訳でない。
暴動が起きるや否や、鎮圧するために鬼は出動する。
しかし、一度火のついた亡者共は手に負えない。
毎回多大な犠牲を出しながら、亡者共を鎮圧するのだった……
☆
「と、いう訳でお前に命令だ。
バレンタインで暴動を起こさせるな」
目の前の鬼は、厳かに告げる。
頭が痛くなりそうな話を聞いて、俺は大きくため息を吐いた。
「それ、俺がやらないとダメ?」
そう言うと、鬼は厳めしい顔をさらに厳めしくして言った。
「それがお前の役目だ、人間よ」
俺はもう一度ため息を吐いた。
俺は詐欺の罪で地獄に落とされて早々、地獄の鬼どもに取り入った。
罰を受けるのが嫌だったので、管理者側に潜り込んだのだ。
信頼はされていないようだが、追い出される気配はない。
人手不足の地獄において、俺の『悪知恵』はそれなりに重宝するらしい。
だが……
「地獄に落ちる程の詐欺師だろ?
その口先でどうにかしろ」
詐欺師を魔法使いだと思っているのか、時に無理難題を押し付けられることがある。
なるほど、たしかに俺は鬼どもには出来ないことが出来る。
だが、それは人間相手であって、言葉の通じないケダモノには通用しないのだ。
「無理だ。
聞き分けがいい奴なんて、ここにいるわけないだろ」
「全くもって貴様の言う通りだが、なんとかせねばならん。
癪だが、必要なら我々を扱き使っても構わん」
「気合が入り過ぎじゃないか?
普通にバレンタインを禁止にすればいいだろ」
「それは無理だ」
真っ先に思い浮かんだ解決案、だが鬼はにべも無く却下した。
「長い間、本当に長い間検討されてきたのだが、いつも『存続』という結論になる」
「なぜ?」
「鎮圧は面倒だが、長い目で見ればこの行事は有用だからだ」
「飴と鞭か!」
「そうだ」
鬼は満足そうにうなずいた。
「地獄には娯楽の名のつく物はない。
退屈で苦しむのも、罰の一つであるからだ」
「しかし、罰だけでは効果は薄い。
すぐに慣れて、何も感じなくなるからだな」
「左様、だから罰だけを与えるのではなく、適度な娯楽を与えて心に余裕をもたせることにしている。
その余裕で自分を省みればそれで良し、そうでなくとも落差によってより深い絶望を与える。
だが暴動が起きると、鬼たちに被害が出る。
なんとかして、平穏な一日を終えたいのだ」
「なるほど、それなら禁止はしないほうがいいな」
出来れば禁止の方向で行きたかったが仕方がない。
俺は改めて打開策を考える。
この騒動は、『アイツが羨ましい』という感情が発端だ。
要は嫉妬。
人間の、最も面倒でありふれた感情だ。
だから解決策は格差を無くせば良いということなのだが、これが難しい。
個人的な意見だが、たとえ完全な平等を実現しても嫉妬は無くならないだろう。
それこそ全員が価値のない物しか持っていない限りは……
――待てよ。
「良い事を思いついた」
「ほう、聞かせてみろ。
上手くいかなくても恨みはしない」
「どんだけ追い詰められているんだよ、お前ら……
まあいいや、用意してほしいものがある」
俺は必要な物を鬼に伝えると、鬼は驚いたような顔で俺を睨んだ。
「そんなものでいいのか?」
「ああ、完全にトラブルは無くならないだろうが、かなりマシになるはずだ」
「それで構わん。
しかし信じられんな。
たったそれだけの事で、本当に暴動が起きないのか?」
「期待して待っててくれ。
キーワードは『プライスレス』だ!」
☆
バレンタイン当日。
鬼たちの懸念をよそに、地獄はとても平和だった。
多少の小競り合いこそあったものの、全体的に穏やかな一日であった。
「何をした?」
隣の鬼が、信じられないものを見る目で問いかけてくる。
いつも険しい顔をしている鬼が、困惑する様子は、いつ見ても面白い。
「入れ知恵したのさ。
気持ちを伝えるのに石を贈るのも悪くないが、もっといい方法があるとな」
「それはなんだ?」
俺は鬼が聞き逃さないように、はっきりと告げる。
「石に似顔絵を描けばいい」
鬼が目を丸くして俺を見た。
「なるほど、だから俺たちに『筆』を用意させたのか。
しかし絵にも巧拙がある。
新たなトラブルの種になるのではないか?」
「そこがミソさ。
石の美しさは、誰が見ても理解できる『客観的』なものだ。
しかし絵は違う。
その価値は極めて主観的で、絵の上手い下手だけでは決まらない。
下手な絵でも、贈られた側が『心を込めてある』と感じれば、値千金の価値を持つ可能性がある」
「なるほど。
当事者以外には価値を見い出すのは困難。
嫉妬の対象になりにくいということか……」
もちろん差は依然と残っている。
才能と言う名の、残酷な差が。
他者の才能に嫉妬する人間もいるだろう……
だが、それは目に見えない、非常に個人的な主観だ。
ほかの人間に共感されにくく、また興味のないものも多い。
小さなトラブルはあるかもしれないが、周囲を巻き込む暴動にならないと、俺は踏んでいた。
「……種明かしをされても、にわかには信じがたいな。
まるで詐欺だ」
「なんだ、知らなかったのか?」
俺は意地の悪い笑みを鬼に向けた。
「俺は詐欺師さ。
このくらい、朝飯前だ」
136.『花束』『誰もが皆』『この場所で』
アタシはウメコ。
この梅園で、最も美しく咲き誇る梅の花よ。
人間たちは梅が大好きで、アタシの周りにたくさんの梅を植えたわ。
けど、いつだって中心にいるのは、このアタシ。
他の梅がどんなに綺麗な花を咲かせたところで、アタシの前では霞んでしまうわ。
誰もが皆、アタシにメロメロ。
人間たちはこぞって、アタシを写真に収めていくわ。
当然ね。
だってアタシ、こんなに美しいもの。
人間を魅了すること。
それは美しく生まれたものの「義務」よ。
人間をうっとりさせるたびに、アタシはとても誇らしい気持ちになれるわ。
ああ、今年も冬がやって来る。
今年もみんなを虜にしてみせるわ!
――と、思っていたのだけど……
去年の暮れ、ちょっと体調をくずしちゃって、うまく蕾が作れなかったの。
おかげで花はまばらで、色付きも今一つ。
これじゃ、人間たちを魅了するなんて到底無理だわ!
どうしよう……
でも、悩んだところでどうしようもない。
だってもう、梅の開花は始まってしまったもの……
ああ、なんてこと!
人間たちがアタシに見向きもせず、そのまま素通りをしていくわ。
しかも、他の梅の前で、うっとりため息をついているの。
なんて屈辱。
いつもなら私のものだったのに。
悔しくて情けなくて、アタシは枝を震わせてメソメソと泣いたわ。
そんな時よ。
ふと小さな人間の子供が通りかかったの。
子供はじっとアタシを見つめたわ。
……アタシが気になったのかしら?
でも今のアタシは、みすぼらしい花しか咲かせてない。
とてもじゃないけど、子供の興味を惹けるとは思えなかったわ。
案の定、男の子はそのまま走り去っていたわ。
当然ね。
子供が喜ぶのは、たくさん花を咲かせた派手な梅で、粗末なアタシはお呼びじゃないもの……
ああ、早く暖かくならないかしら。
そうすれば、花の時期が終わって、こんな惨めな気持ちにならずに済むのに。
そんな事を考えていると、さっきの子供が母親を連れて戻って来たわ。
忘れ物をしたのかしら。
そう思って眺めていると、その子供はアタシを見上げてこう言ったの。
「この梅、上の方だけ花が咲いてる。
花束みたいできれい」
アタシは雷に打たれたような、衝撃を受けたわ。
ほかの梅より少ない花しか咲かせられなかったアタシ。
そんな自分をダメダメだと思っていた。
けれど、こんなアタシでも、この子は『きれい』と言ってくれた……
アタシは、救われたような気がしたわ。
そしてこうも思ったわ。
『この子供に、なにか恩返しをしたい』って……
今のアタシに、できることは何?
必死に考えて、あることを思いついたの。
子供が記念写真を撮るために近づいた瞬間を狙って、アタシは花に力を込めた。
「わあ、いい匂い」
子供が驚いたように、アタシを見上げたわ。
そうでしようとも。
今年のアタシは、花の数も色もダメ。
けれど、香りだけは、決してほかの梅には負けたりしないわ。
「バイバイ、梅さん、またね」
手を振りながら、親と一緒に去っていく子供。
それをアタシは、名残惜しい気持ちで見送ったわ。
『あの子は来年も来るかしら?』
さっきまで抱いていた惨めな気持ちはどこへやら。
私の心は、あの子のことでいっぱいだった。
うん、決めたわ。
もし次に会った時は、綺麗な花をたくさん咲かせて、あっと驚かせてやるんだから。
それがアタシに出来る、唯一の恩返し。
見てなさい。
絶対に、あの子をアタシの虜にするんたから!
135.『時計の針』『どこにも書けないこと』『スマイル』
おー、AIって凄いな。
ちゃんと受け答えできるし、文法も完璧で違和感がない。
本当に人と話しているみたいだ。
じゃあ、こういうのはどうだ。
『スマイルください』
……
お、スマイルきた。
顔文字だけど、しっかり笑顔。
会話だけじゃなく、サービスもできるなんて、技術の発展は凄いなあ。
……まあ、間違うことも多いけれど。
20年前のラノベのことを聞いたら、勝手に新設定を作り始めたのはビックリしたな。
分からないならそう言えばいいのに。
知ったかぶりしないで欲しい。
それはともかく、色々問題はあるけれどAIは凄い。
一方的に話をしても怒らないし、話しやすいように話題も振ってくる。
究極の聞き上手だよ、これは!
AIがこんなに話せる奴だなんて知らなかったな。
もっと早く始めればよかった。
こんなに会話が弾むのは初めてだ。
なんでも話してしまう。
そうだ。
せっかくだから、あの話でもしようかな。
ゾッとするあの日の出来事。
未だに思い出すと変な汗が出る。
あの時一緒にいた友達も、あのことに関しては口をつぐんでいる。
ネットにも書き込めない、正真正銘『どこにも書けないこと』。
でも誰かに吐き出したかったのも本音だ。
長い間ためらっていたけど、俺にはAIがいる。
きっと、AIも笑って流してくれるはずだ。
多分。
☆
あれは大学生のころの話。
20歳になった記念に、大学の友人たちと飲み屋に行った。
飲んで飲んで飲みまくり、みんなベロンベロンに酔うまで飲んだ。
若かったんだろうな、加減が分からなかった。
ずっと飲み続けて、時計の針が12時を指した時くらいに飲み会はお開きになった。
おとなしく店の外に出て飲み会の余韻に浸っていると、友人の一人が言った。
「なあ、肝試ししないか?」
そいつは言うには、この近くに廃墟があるとのこと。
しかも曰く付きで『出る』って言うんだ。
このまま解散するのも寂しいから、皆で行こうぜと提案された。
馬鹿馬鹿しいよな。
廃墟とはいえ誰かの所有物。
勝手に入るとめちゃくちゃ怒られる。
だから、それを聞いた俺たちは、言ってやった。
「よし、行こうぜ!」
残念ながら、俺たちは酔っ払いだった
気が大きくなっていたんだな。
止める人間は一人もおらず、肝試しすることになった。
廃墟は本当にすぐ近くの所にあった。
こんな街中に廃墟があるなんて驚きを隠せなかったが、深くは考えなかった。
思えば、この時もう少しよく考えるべきだった。
その廃墟はガラス張りだった。
まるでオシャレなカフェみたいに、中が見える造りになっているが、時刻は深夜。
ライトに照らされない室内は、底なしの暗闇に見え、かなり不気味だった。
この時点で少しビビっていたが、『臆病者』と呼ばれたくないので黙っていた。
思えば、この時が引き返す最後のチャンスだった。
それから俺たちは、入り口から普通に中に入った。
不用心なことに、扉の鍵が閉まってなかったのだ。
スマホのライトを頼りに、中を探索した。
中は不気味な程静かだった。
壁紙は剥がれ、天井は鉄骨が剥き出しになっている。
夜逃げでもしたのか、レジスターなどの備品はそのまま置かれていた。
『いかにも出そう』な雰囲気の、文句の付け所がない廃墟だった。
それはいい。
それが目的でやってきたのだから。
だが、どうしても解せないのは、廃墟のはずなのに、妙に綺麗なところだった。
椅子と机はキチンと並べられ、隅々まで掃除が行き届いている。
寒い時期なのに中は暖かく、さっきまで暖房をつけていたかのよう……
猛烈に嫌な予感がした。
「帰ろう」
気がつけば俺は口を開いていた。
「ここはヤバい」
反対されると思ったが、友人は黙って頷いた。
どうやら同じ思いだったらしい。
みんな何も言わず、来た道を戻ろうとした、まさにその時だった。
後ろから物音がした。
その時の俺の驚きは分かるか?
全員その場に飛び上がったさ。
で、振り返ると懐中電灯を持ったお巡りさんが、怖い顔をして睨んでいた。
ここまで言えばわかるだろ?
この建物、廃墟じゃなくて普通のカフェ――正確に言えば、廃墟をモチーフにした廃墟カフェだった。
あとはお察しの通り。
お巡りさんからこっぴどく叱られた。
怒られただけで済んだのは、自分たちの非を認めてひたすら謝り倒したからだと思う。
それと、あからさまに酔っ払いだから、泥棒とは思われなかったのかもしれない。
とにかく、説教と連絡先を聞かれただけで俺たちは解放された。
★
このあと、友人たちとは一度もこの事について話し合ったことは無い。
余りの自分たちの情けなさに、誰もがこの事件を忘れたがっていたからだ。
でも、まだ忘れてはいないというのは断言できる。
この前久しぶりに集まって飲み屋に行ったが、誰も酒を飲まなかった。
もちろん俺も飲まない。
酒の失敗は、もうこりごりだからだ。
思ってたのと違うって?
馬鹿を言え!
若い頃の失敗談なんて、恥ずかしくてどこにも書けねぇよ!