『もしもタイムマシンがあったなら』
「姉ちゃん、姉ちゃん」
庭で洗濯物を干していると、小学生の弟が叫びながらやって来た。
いつも元気でうるさい弟だが、今日は一段とうるさい。
何事だろうか?
「何よ、そんなに慌てて」
「姉ちゃん、俺タイムマシン見つけた」
「他の人が困るから、埋め直しといて」
「は?
なんで埋め――あっ、違う違う。
タイプカプセルじゃなくて、タイムマシン!
未来や過去に行けるやつ!」
「えっ、凄いわ!
じゃあ、それも埋めときなさい」
「結局埋めるの!?」
「現代に生きる我々には手の余るものよ。
未来の人に託しましょう」
「うまい事言った顔すんな。
さては信じてないな」
「当たり前でしょ。
そこらへんにタイムマシンがあってたまるか」
「ホントだって、家の蔵を探検してたら、あったんだ」
「家の蔵?」
我が家には、大きな蔵がある。
昔、我が家はこの辺りでは名家で、蔵にはいろんなお宝があったそうだ。
けれどいろいろあってご先祖様が売ってしまったらしく、今はガラクタしかない。
だから弟も何かのガラクタを見間違えに違いない。
「ホントだって。
ほら姉ちゃんも見よう?」
「はいはい」
私は、弟に手を引かれるまま蔵の中へと入っていく。
久しぶりに入るが、埃っぽいのは相変わらず、灯りも窓から入るものだけでとても薄暗い。
率直に言えば『探検ごっこ』に最適なシチュエーションだ。
弟も、探検してタイムマシンを見つけたのだろう。
「タイムマシンは、奥にあるんだ」
「奥に?
奥は奥の方はいろいろ崩れて、危ないから入っちゃダメって言ったよね」
「あっ。
えと、ごめんなさい」
「はあ、さっさとタイムマシンとやらを見るわよ。
洗濯物、干さないといけなんだから……」
「うん……
もうすぐだから……」
それから瓦礫の山を歩くこと数分、目的の場所にたどり着いた。
「これだよ。
タイムマシン」
「……本当にタイムマシンね」
弟が見つけたもの。
それは、まごうことなきタイムマシンであった。
少しデザインは違ったが、某国民的アニメでよく出てくる奴である。
タイムマシンは、まるで隠すように置いてあるが、埃をかぶっていることから、長い事誰も使っていないことが分かる。
「ああ、なるほどね。
お姉ちゃん、これ知ってるわ」
「ホントに!?
でもさっき知らないって言ったよね」
「ええ、実際には見たことは無いわ。
けど、いまうちの高校で噂になってるの」
「どんな噂?」
弟は興味津々で聞いてくる。
最近、大人びてきたが、まだまだ子供のようだ。
「それよりも、これ使った?」
「使ってない。
使えないんだ」
「そうでしょうね。
これは条件を満たさないと、使えない物なの……」
「条件?」
「これを見なさい」
私はタイムマシンの、とあるモニターを指さす。
放置されてから長いこと立っているにもかかわらず、そのモニターは点灯しており、その液晶画面には『7』の数字を表示していた。
「姉ちゃん、これ何の数字?」
「他のタイムマシンの数よ」
「数?
なんで、そんなものが?」
「少し話が変わるけど……
過去を変えるってどういう意味を持つと思う?」
私が問いかけると、弟は不思議そうな顔をするも一応考えるそぶりを見せる。
「えっと、タイムパラドックスみたいな話?
過去を変えると整合性が取れなくなるとか……」
「そ、偉いわ」
私が褒めると、弟は少しだけ嬉しそうな顔になる。
「そこでさっきの話。
今、タイムマシンが7台ある。
それを使って7人が、自分勝手に過去を変えて、タイムパラドックスが起こったとするわ。
そうすると、現実や未来はどうなると思う?」
「えっと、分かんない」
「そう、分からない。
何が起こってどうなるのか、予想がつかない。
だから偉い人はこう考えた。
『過去に行くのが一人だけなら、そんなに未来は変わらないんじゃないか?』ってね」
「偉い人って誰?」
「神様かな?
噂だし、良く知らない」
「うーん、分かるような分からないような」
弟が、頭を抱えるジェスチャーをする。
それも仕方がない。
偉い人も含めて、誰も分からない事なのだから。
「つまり……どういう事?」
「仕方ないわね。
じゃあヒント。
『他のタイムマシンを壊して、一台だけにしない限り、誰も過去には行けない』」
「まさかデスゲーム!?」
「その通り」
私は我が意を得たりとばかりに、手を広げて勿体ぶった雰囲気を出しながら、弟に言い放つ。
「過去に行けるのは一人だけ。
我こそはと思うものは挑戦せよ。
これは1枚しかない過去への切符を巡って争う、デスゲームなのだ。
他者を排除する手段は問わない。
最後まで残ったものが、過去へ行く権利を手にする。
さあ戦え、過去を変えるために」
決まった。
これ以上ないスピーチだ。
弟も感極まったことだろう。
――と思ったのに弟は不審そうに私を見ている。
おかしいな。
「姉ちゃん、それ漫画?」
「バレちゃった」
「からかわないでくれよ。
で、どこまで嘘なの?」
私は意識して満面の笑みを浮かべる。
「全部ウソよ。
高校で流行っているというのも全部ウソ」
「ちっくしょう」
「よく考えなさいよ。
こんなコテコテなタイムマシン、あるわけないでしょ」
「そりゃそうだけどさ。
じゃあ、結局これ何だよ」
「私が演劇部の友達から預かった演劇用の小物。
預かったきり、取りに来ないから忘れてたわ」
「うわあ、てことはさっきの演説も演劇部の……?」
「そうよ」
「オチがしょうもねえ」
弟の見るからにがっかりしたような仕草に、私は大笑いする。
弟は不満そうに私を見るが、特に何も言うことは無かった。
「用は済んだわね。
戻って洗濯物干すわよ。
手伝いなさい」
うへえ、と弟が零す。
私はそんな弟を愛おしく思いながら、手を握って蔵の出口まで一緒に歩く。
たわいのない会話をしながら……
私の内心には気づかれないように……
私には気がかりなことがあった。
それは、『モニターの数字が7を示していた事』。
これはタイムマシンが、他に7台あると言う事だ。
弟にはさっき嘘を言った。
タイムマシンの話、全て本当の事である。
実は二年前、弟は事故で死ぬはずだった。
悲しみに打ちひしがれていた私は、偶然タイムマシンを手に入れた。
私は、あらゆる手段を用いて他のタイムマシンを破壊した。
その過程で、友人を裏切ったし、人を傷つけた。
そしてモニターの数字が『0』になったことを確認し、過去に飛び事故をなかったことにしたのだ。
それからはこの蔵に封印し、二度と使うつもりはなかった。
でも今は『7』と点灯している。
この事実が指し示すことは――
また、始まると言うのだろうか?
血を血で洗う、殺し合い。
裏切りが裏切りを呼び、人間の本性が暴かれたデスゲームが。
そんなものを経験するのは一回で十分だ。
二度と関わらないためには、タイムマシンを壊しておくべきなのだろう。
弟も巻き込むかもしれない
けれど、また弟に何かあった時の事が怖くて、どうしても決心がつかない。
たとえば明日、弟が事故にあったら、私はきっとまた過去を変える
その時にタイムマシンが無かったら、私は絶望するだろう。
なんでタイムマシンなんてものが存在するんだろう。
こんなものが無ければ、弟の死にも心の整理がついたかもしれないのに。
タイムマシンの存在を知ってから、私はいつも迷ってばかりだ。
――そうだ、壊そう。
他のタイムマシンを壊せば、何も迷うことは無い。
私は一度やった。
二度目もできるはず。
あの時とは事情が違うが問題ない。
私には『まだ』変えたい過去はない。
けれど、過去を私だけの物にするために、もう一度地獄に身を投じることにしよう。
それで弟を失っても問題ない。
タイムマシンで過去を変えればいいのだから。
学校のチャイムが鳴り、古文の教師が補習の終わりを告げる。
教師の言っていることが何一つ理解できなかったが、いつもの事なので気にしない。
あの言葉がかつて日本で使われていたとは驚きである。
昔の人は、よくあんな言葉で会話するものだ。
私はそんな地獄の補習がひと段落付いたことに安心感を覚える。
だが油断は出来ない。
補習自体はまだ半分しか終わっておらず、休憩が終わればまた地獄の時間が始まるのだ。
次の補習は宇宙人の言語、数学である。
日本語でも難しいのに、宇宙人語は無理なんだよ。
せめて人間の言葉にしてくれ。
それにしても、と思う。
今日は夏休みだと言うのに、なぜ私は学校で補習を受けているのだろうか?
私の立てた予定では、今頃は恋人の拓哉とデートしているはず……
そして私たちは砂浜を、手を繋いで歩く。
そして人影のない岩陰で、拓哉は私の耳元で『咲夜、愛しているよ』と囁くのだ
それを聞いて私は――
そうなるはずだったのに!
なんでこうなった?
なんで私はこんなにもバカなんだ。
でも言い訳はさせてもらう。
私は努力した。
拓哉と過ごす時間を増やすため、必死に勉強した。
なんなら拓哉にも勉強を乞うた。
だが、結果は赤点。
現実は非情である。
「おい、すげえツラしてんぞ。
彼氏に会えない禁断症状か?」
話しかけてきたのは、私と同じ補習者の桐野。
不名誉なことに中学からの幼馴染で、その時からずっと同じ補習を受けている。
ロマンスが起きそうなシチュエーションだが、彼にはとくに特別な感情は無い。
私には卓也がいるからだ。
ちなみに、こいつはそこそこ勉強できるくせに、いつも出席日数が足りなくて補習を受ける羽目になっているアホである。
まさに才能の無駄遣い!
なんでこんな不真面目な奴が頭がよくて、一応授業には出ている私の方がバカなんだ!?
なぜ、コイツは私が今一番欲しいものを持っている!?
その頭を私に寄越せ!
私の方がうまく使える!
不公平だ!
「おい、なんで顔がさらに険しくなるんだ?」
「世界は不公平に満ちていると思ってね」
「よく分かんないけど、俺には関係ないよな?」
「桐野、お前を取り込んで全てを知識を得る」
「前からおかしいと思ってたけど、別の方向でさらにヤバくなってる。
拓哉を呼ばないと収集付かないな、コレ……」
「拓哉?
ああああ拓哉ぁぁぁぁ会いたいよー」
「情緒が不安定過ぎる……」
私の目から、とめどなく涙が溢れる。
今まで我慢してたのに。
せめて補習が終わるまでは泣くまいと誓ったのに……
桐野のせいだ。
「泣くなよ」
「桐野のせいだ」
「なんで俺!?
いや俺のせいか……
それはともかく泣きやめよ。
他の奴らも驚いているだろ」
「私、頑張ったのに、頑張ったのに」
「ああ、わかるよ。
俺も頑張ったのにダメだった」
「あんたの場合は自業自得だろうが!」
「理不尽」
「拓哉に会いたい」
私は机に突っ伏す。
涙が止まらない。
その時、教室がざわめく気配を感じた。
そして桐野が「救世主が来た」とつぶやいたのが聞こえた。
もしや拓哉の事か?
私が顔を上げると、そこにはまさに拓哉がいた。
「咲夜、泣いてるけど何かあったのか?」
「えっと、あくび。
昨日寝れなくって」
「コイツ、寂し――ゴフ」
余計なことを口走りそうになった桐野を、殴って口封じする。
これだから桐野はバカなんだ。
「それで、拓哉はなんでここに?」
「差し入れしに来たんだ。
ほらカフェオレ」
「ありがとう」
拓哉は、私が好きな砂糖マシマシのカフェオレの紙パックを差し出した。
ここにくるまでに、コンビニで買ってくれたのだろう。
とてもありがたい。
勉強で疲れた頭が、糖分を欲しがっていたのだ。
これで、残りの補習を頑張れる。
「補習、頑張れよ」
私がカフェオレを飲み始めたのを見て、拓哉は笑う。
拓哉の笑顔を見て、私は気づいた。
私が本当に欲しかったのは、桐野の頭なんかじゃない。
なんでこんなものを欲しがっていたのか……
過去の自分が恥ずかしい。
私が今一番欲しかったもの。
それは、拓哉の笑顔だった。
そのためならば、この地獄の補習、乗り切れる!
「授業を始めるから、全員席に着け。
楽しい楽しい数学の時間だ」
ゴメン数学は無理。
昔々、あるところに大層元気な男の子がおりました。
男の子の名前は、寿限無 寿限無 五劫のすりきれ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 食う寝るところに住むところ やぶらこうじのぶらこうじ パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの 長久命の長助(以下 寿限無)という名前でした。
寿限無は、心配性の親から健やかに育つようにと、縁起のいい名前をこれでもかと付けられましたが、その甲斐あって特に不幸もなく大きく育ちました。
病気もせず、友人にも恵まれ、近所の大人たちからは可愛がられる……
寿限無は幸福な子供時代を送っていました。
ですが、ついに運命の時が来てしまいました。
親にとって、子育てで最も過酷な試練――
『反抗期』です。
寿限無は、あまりにも長すぎる名前を恥ずかしく思い、親に愚痴ったことを皮切りに、親と喧嘩してしまいました。
親子喧嘩は一晩経っても収まることは無く、それどころか更に悪化します。
翌朝も、寿限無は親と喧嘩し、用意された朝ご飯を感情のままりひっくり返してしまいました。
それを見た母親は『食べ物を粗末にするやつはウチの子じゃない』と言って、家から追い出します
寿限無も、『もう帰らない』と言って、そのまま旅に出ることにしました。
寿限無は特に行く当てもなく、そのことに不安もありました。
しかしそれ以上に、親にあれこれ言われずに済むと清々しい気持ちでした
ですが、寿限無は着の身着のまま出てしまったので、何も持っていません。
お金も持っておらず、腹が空いても何も食べることが出来ません。
このまま家に戻り、親に謝る選択肢もありましが、寿限無はそうしませんでした。
彼は体は大きくなったとはいえ、まだ子供。
このまま帰ってはバカにされるだけだと、プライドが邪魔をしてそのまま旅を続ける事にします。
『その辺の木の実でも食うさ』
寿限無はそう思って歩き始めますが、全く木の実が見つかりません。
その日のうちに、寿限無は空腹のあまり動けなくなってしまいました。
絶体絶命の危機でしたが、神は寿限無を見捨てませんでした。
たまたま付近の村の人間が、寿限無のそばを通りかかったのです。
「そこの若いの。
腹が減っているのなら、ウチで食べていくかい?」
寿限無は朦朧とする頭で神に感謝しつつ、村人の好意に甘えることにしました。
寿限無は、村人の質素な家に案内され、目の前にご馳走が並べられます。
これほどのご馳走は、自分の家でも食べたことがありません。
寿限無は並べられる端から、どんどん食べました。
食べて食べて食べまくります。
寿限無の食べっぷりに、村人はこの量では足りないと判断し、村の人々に呼びかけ食料を集めました。
食べ物はどんどん並べられ、寿限無はどんどん食べていきます。
たらふく食べた寿限無は、ようやく落ち着きます。
『こんなに食べさせてくれたんだ。
お礼を言わないと』
そう思って寿限無は村人と向き直りますが、驚きました。
村人の体が、枯れ木の様にやせ細っていたからです。
普段から食べ物を食べていないことは明白でした。
そこで寿限無は気づきました。
彼らは自分たちが食べるための食べ物を、寿限無に食べさせてくれたのだと……
その理由を尋ねると、村長が事情を話し始めました。
「実はこの村は鬼に襲われているのです。
鬼は頻繁にこの村に来て、食べ物を奪っていきます。
そのせいで我々は食料があまりありません」
「待ってくれ。
では私が食べたこの料理は……」
「はい、鬼のために用意したものです」
「しかし、私が食べてしまった。
それでは鬼が暴れるのではないか?」
寿限無がそう言うと、村長は困ったように笑います。
「はい、暴れるでしょう。
しかし気にしないでください。
確かにあなたが食べた食事は、鬼のために用意したもの。
ですが鬼に食べさせるつもりはありませんでした」
「どういうことだ?」
寿限無は訝しみます。
鬼のために用意したのに、鬼に食べさせないとはこれ如何に?
「鬼について、ずっと村で話し合いが続けられていました。
少し前に出た結論は『村を捨てて逃げる』。
どうせ村を捨てるなら、鬼の機嫌を伺っても仕方がない。
最後にたらふく食べて逃げよう。
そう思っていたところに、腹を空かせたあなたが現れたのです」
「そうとは知らず、私は食べてしまった。
申し訳ない」
「いいのです。
天の導きだと思い、あなたに食べさせたのです。
最後の最後に人助けが出来て我々は満足です。
お腹いっぱいに食べるのは、今でなくてもいいのですから」
村長が清々しい笑顔を見せました。
それを見て、寿限無は嘘ではないことを悟ります。
しかし、寿限無は村の人々に恩を受けたのも事実。
なんとか恩返しをしたいと思いました。
「では私が鬼を追い払って見せよう」
「若い人、おやめなさい。
鬼は力が強く、並みの大人では太刀打ちできません。
いかに勇敢とはいえ、とても勝てますまい」
「だが私には秘策がある。
恩返しをさせてくれ」
寿限無は村長の目をじっと見つめます。
しばし見つめ合った後、根負けしたのは村長でした。
「分かりました。
そこまで言うならお任せしましょう。
我々は隠れて見ています
しかし鬼は残酷で狂暴です。
危なくなればすぐ逃げてください。
命以上に大切なものはありません」
「ああ、命を粗末にするつもりはない」
寿限無は鬼を退治するため、その日は村に留まり、鬼を待ち伏せるのでした。
翌日の昼、何も知らない鬼が腹を空かせてやってきました。
ですが、いつもは用意されている食事が無い事に気づき、腹を立てます
「ええい、村の人間は何をしている。
俺の食事が無いぞ」
鬼は近くにあった家をこん棒で壊します。
ですが、村の人間が誰一人出てこないことに、鬼はおかしいと思い始めました。
そのときです。
物陰から寿限無が出てきました。
「やい、鬼め」
「なんだ貴様。
見たことないな。
まあいい、食べ物持ってこい」
「食べ物はない。
私はお前を退治しに来た」
寿限無の言葉に、鬼は鼻で笑います。
鬼は自分の力に絶対の自信がありました。
「なんという無謀さ。
お前の名前は何だ?
家族全員ひどい目に会わせてやる」
「やめておけ。
お前に、私の名前を覚えることなどできぬ」
今まで笑っていた鬼が、急に険しい顔をします。
弱っちい人間が、自分の事を馬鹿にしたからです。
「何を言う。
俺は鬼だ。
出来ないことなどない」
「では名乗ってやろう。
よく聞くがいい!
私の名前は『寿限無 寿限無 五劫のすりきれ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 食う寝るところに住むところ やぶらこうじのぶらこうじ パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの 長久命の長助』である」
「……は?」
鬼は口をぽかんと開けて、呆然としました。
その様子を見て、寿限無は鼻で笑います。
「なんだ言えんのか。
鬼も大したことは無い」
「バカにするな。
名前なんぞ、簡単に言えるわ!
えっと、寿限無 寿限無 ゴボウの擦り切れ――」
「五劫(ごこう)のすりきれだ」
「――五劫のすりきれ怪獣水上――」
「海砂利水魚(かいじゃりすいぎょ)だ。
なんだ全く言えんではないか」
寿限無の言葉に、鬼の赤い顔はさらに赤くなります。
「黙れ。
お前を食ってやる」
「名前も分からん奴をか?
先ほどの家族にひどい目を合わせると言うのは嘘だと言うのか?」
「ええい。黙れ黙れ」
「名前を覚えきれないようなら、もう一度言ってやろう。
私の名前は、『寿限無 寿限無 五劫のすりきれ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 食う寝るところに住むところ やぶらこうじのぶらこうじ パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの 長久命の長助』である。
もう一度言おうか?」
「ふん、不要だ。
その珍妙な名前、二度も聞けば覚えられるわ」
「ほう、では言ってみるといい」
「寿限無 寿限無 五劫のすりきれ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 食う寝るところに住むところ やびゅ」
鬼は、寿限無の名前を言っている最中に舌を噛んでしまいました。
痛さのあまり、鬼はその大きな体を悶えさせ、体勢を崩しその場に転んでしまいました
そうして鬼が怯んだ隙に、寿限無は村人から借りた刀を抜き放ちます。
その様子を見て鬼は叫びました。
「待て、何をする」
「分からんか?
お前を切るためよ」
「ひいい、待ってくれ。
俺が悪かった。
謝るから、命だけは!」
「ならん!
食べ物の恨みは恐ろしい事は知っているだろう?」
「なんでも言うことを聞くから許してくれ」
「もう村を襲わないな?」
「ああ、約束する」
「食べた分、村をために働くか?」
「一生懸命働きます。
ですから命だけはお助けを!」
「嘘はないな?」
「はい、神に誓って」
寿限無は鬼の言葉にゆっくり頷き、刀を鞘に納めます。
その様子を物陰から見ていた村人たちは、感心しました。
力では誰も敵わなかった鬼を、知略で従えたのです。
村人たちは、勇者を讃えるため、物陰から出てきてきました。
彼らは寿限無に思い思いに礼を言います
その中からすっと村長が出てきて、深々と頭を下げます。
「ありがとうございます。
これで村を捨てずに済みます。
ぜひともお礼をさせてください」
「食事の礼だ。
必要ない」
「いいえ、勇敢なお方。
食事は我々が勝手にしたことです。
是非ともお礼を」
寿限無は悩みます。
お礼は必要ないのですが、しかし彼らの気持ちを無視するのも失礼に当たる。
どうするべきか、寿限無は悩んだ末、一つ頼みごとを思いつきました。
「では一つ、頼みたいことがある」
「はい、何でしょうか?」
「家に帰るので一緒に付いてきて欲しい。
一人では怖くて帰れないのだ」
「なんと……
鬼すら恐れないあなたが、恐怖を抱くほどの存在がいるのですか?」
「ああ、鬼より恐ろしい母が家にいる。
私の名前を噛まずに叫びながら襲い掛かってくる母ほど、恐い存在は知らんよ」
『視線の先には』
妻と一緒にホームセンターで金魚のエサを見ていた時の事。
妻が、ペットコーナーで突然立ち止まった。
横目で見れてみれば、妻の視線の先には猫のコーナー。
お気に入りの猫がいると聞いていたが、それが今見ている猫なのだろう。
かなり入れ込んでおり、ここのところ毎日通い詰めだ。
妻は生き物が好きだ。
金魚も妻の希望で飼っているから、猫もきっと好きなのだろう……
にも関わらず『飼いたい』と言わないのは、ウチのアパートがペット禁止だから。
猫を飼えない鬱憤を、近くで眺めることで晴らしているのだ。
そして、こうなったらテコでも動かないのが妻である。
金魚の時もそうだった。
結局俺が根負けし金魚を飼うことになったが、猫はそうもいかない。
『ペット禁止』というのは、俺の一存ではどうにもならないのだ。
だから俺が妻のために出来るのは、二者の時間を邪魔しないだけ。
妻と猫が、ロミオとジュリエットよろしく愛を語らい合うのを邪魔するほど、俺は無粋な男ではない。
何時間かかるかは分からないが、気のすむまでやらせてやろう。
その内、心の整理がついて落ち着くはずだ。
俺はその間に、金魚の餌を見てくるとしよう。
妻に気づかれないよう離れようとした瞬間、急に妻が振り向く。
驚いて固まった俺に、妻は目で訴える。
『あの子、可愛いでしょ?』と……
直接飼いたいと言わないのが妻らしいが、無理なものは無理だ。
『諦めろ』と首を振る。
だが『諦めきれない』とばかりに、妻は俺を見る。
「あなた、この子の事を見て欲しいの……」
妻が嘆願するような声で、俺を見る。
「見ない。
気持ちはわかるが――」
「ちゃんと見て」
妻に突然力強く手を引かれる。
俺は体制を崩しそうになったが、寸でのところで踏みとどまる。
「危ないところだった」
妻に抗議しようと顔を上げる。
だがそこには妻はおらず、俺の視線の先には猫がいた。
とても可愛い猫だった。
子猫は、騒いでいる俺に興味を持ったのか、じっと見ていた。
俺は思わず目をそらす。
油断した。
まさか猫を見てしまうとは……
いや、一瞬だったから大丈夫なはずだ。
俺は自分に言い聞かせながら、再び猫を見ないようにじりじりと後ろへ下がる。
猫とは目を合わせてはいけない。
猫は催眠術の使い手だ。
特に子猫の催眠術は強力である。
目を合わせたら最後、たちまち猫の虜となり、我々は猫のために尽くすことになる……
だが俺はまだ正気だった。
催眠術にはかからなかったらしい。
俺はほっと息をつく。
十分に距離を取ったから安心だろう。
俺はチラリと横目で猫を見る。
猫の方も何かを熱心に見ているようで、俺には気づいておらず――
そこでふと気づく。
猫が、俺の方を見ていることに……
猫の視線の先には、俺がいた。
そこで妻がポンと肩に手を置く。
驚いて振り向くと、妻は満面の笑みであった。
『ね、可愛いでしょ?』
妻がまたもや目で訴える。
俺は思わずうなずきそうになるも、なんとか堪える。
「だ、ダメだ!
ウチはペット禁止だ!」
俺の拒絶の言葉にも、妻は笑みを讃えたままだった。
「そこは大丈夫よ。
友達が不動産やっててね。
ペットを飼えるアパートを紹介してくれたの。
あなたの勤務先からは少し離れるけど、いい部屋よ」
「最初からそのつもりで――」
「でもね、勝手に話を進めるのは良くないじゃない。
だから、まずこの子と会わせて、それから引っ越しの話をしようと思って……
どう?
この子と一緒に住まない?」
妻の問いに、俺は脳内で色々な事を考える。
お金の事、猫の世話の大変さ、引っ越しの手間、通勤の事……
どれだけ反論材料を考えるも、さっき見た猫のかわいらしさが、全てを吹き飛ばしていく。
「……分かった」
「ありがとう、あなた。
愛してるわ」
俺の降伏ともとれる承諾の言葉に、見たことないほど嬉しそうに笑う。
よっぽど嬉しいらしい。
だが、妻の愛の言葉とその笑顔は誰に向けての物だろうか?
妻の目線の先には、きっと猫がいるに違いなかった。
俺がサボりから戻ると、教室に行くと誰もいなかった。
移動教室?とも思ったが、今は昼休憩の時間で教室。
皆は弁当を食べているはずだ。
けれど教室にいるはずの皆は、どこにもいなかった
俺がサボっている間、何が起こったのだろうか。
まさか俺みたいに、『面倒くさくなったから帰る』と言った不良ばかりでもあるまい。
ふとあることに気づく。
他の教室も、人の気配がしないのだ。
隣のクラスを恐る恐る覗いてみるが、誰もいない……
念のためにさらに隣の教室を覗いてみるが、やはり誰もいない……
この調子で行けば、他の学年も教室には誰もいないだろう……
誰もいない学校というのは、まるで異世界のようだ。
まるで世界に自分だけが取り残されたような錯覚を覚える……
俺に起こっている異常事態に、気が狂いそうだ!
なんとか『ここは現実世界だ』と自分に言い聞かせて、正気を保つ。
そうでもしなければ、俺はどうにかなってしまいそうだった。
俺は一度深呼吸し、何をすべきかを考える。
学校で何かが起こったのは間違いない。
けれど自分のちっぽけな頭では、何をすべきか何も分からなかった……
大人を頼る?
でも大人を頼るのは、
こういう時はどうすれば……
その時後ろから誰かの足音が聞こえてきた。
「桐野か?」
俺の名前を嫌そうに呼ぶ声の主、それは生活指導のコバセンだった。
不良の俺を目の敵にする、頼りたくない大人の筆頭だ……
けれど、背に腹は抱えられない。
俺は皆に何が起こったかは知る必要がある。
恥を忍んでコバセンに聞く。
「コバセン、皆いないんだけど何か知ってる?」
「小林先生と呼べ!
まったくおまえと来たら……
他の生徒は帰ったぞ」
「帰った!?
何で?」
「何でって、今日は終業式だからな」
終業式?
俺は唖然とする。
事件が起こったと思ったら、下校しただけだったとは……
俺は恥ずかしさのあまり、火を吹きそうなほど顔が熱くなる。
「大方朝からサボって気づかなかったな?
どうせ、HRでも話聞いてないんだろ?
いつもサボっているからこうなる」
コバセンの、俺を馬鹿にするような言動に腹が立つも、まったくの事実なので言い返せない。
畜生、よりにもよってコバセンの前で恥をかくとは。
俺もついてない。
「コバセン、じゃあな」
授業がないのなら、ここにいる必要はない。
俺は踵を返して、げた箱に向かう。
こういうのは寝て忘れるに限る
「待て、桐野」
だが、なぜかコバセンに呼び止められる。
そんなにコバセンって呼ばれるのが嫌いなのか?
「おまえは居残りだ」
「はあ、居残り?
なんで自分だけ?
皆帰ったんなら、俺も帰るよ」
なんだよ、居残りって。
説教はゴメンだ。
「お前、サボりすぎなんだよ。
すでに出席日数は足りてない。
補習を受けないと進級できん」
「……マジ?」
「大マジだ」
ギリギリ進級できるよう出席日数を計算したのだが、計算をミスったらしい。
やってしまった。
「というわけで補習を受けてもらう。
拒否権はない」
コバセンはジリジリと、俺に近づいてくる。
いつものムカつく仏頂面も、今日だけは恐怖を覚えてしまう。
「桐野、じつは俺はお前を探していてな。
げた箱に靴があるから、まだ学内にいると思って教師陣総出で捜索していたんだ」
「そ、そうなんだ。
でも俺、今日用事あっから」
「逃げても無駄だぞ」
俺がコバセンから逃げようと振り向くと、そこには数学のサトーと英語のスズキが、逃げ道を塞ぐように廊下に立っていた。
「桐野、もう一度言うぞ。
お前に拒否権はない。
親御さんからも了解は取っている」
コバセンの方に振り向くと、コバセンの後ろにはさらに教師が増えていた。
完全に囲まれ、蒙逃げられないことを悟る。
「待ってくれ。
他にも出席日数ヤバイヤツいるだろ?
なんで自分だけ……」
「安心しろ、他のやつらはすでに捕獲済みだ。
大人しく補習を受けろ。
力ずくでも受けさせてやる。
自分だけは逃げられるとは思わないことだな」