十年前、息子のバンが村を出た。
冒険者になるためだ。
息子が昔から冒険者に憧れていることは知ってた。
『ダンジョンに潜って大もうけして、お母さんと弟たちをを楽にしたい』といつも言っていた。
その気持ちは嬉しかったし、それが子供の語る夢の間なら良かった。
けれど、バンが10歳の誕生日の日、冒険者になりたいと言った。
私は猛反対した。
バンの父親も冒険者だった。
けれど『金を稼いでくる』とどこかへ行ったまま帰ってこなかったからだ。
あの人は、もう遠い記憶の中にしかいない。
だから私はバンだけは失うまいと、必死に説得を試みた。
『お金より大事なものがある』『家族とお金、どっちが大事なの?』と……
でも逆効果だった。
私とバンは大げんか。
バンは、前もって用意していたバッグを持って、そのまま出ていった。
あの時の事を悔やんでも悔やみきれない。
ちゃんと話を聞いてあげれば、あるいは大人になってからと説得すれば、もしかしたらそのまま側にいてくれたかもしれないのに……
けれど内心すぐに戻ってくるだろうとも思っていた。
だけど、一日、一週間、一か月、一年……
いつまで経っても帰ってこなかった……
はもはや死んだものと覚悟した。
けれど、バンが村を出て二年後のある日、お金と共に手紙が届いた。
バンだった。
手紙の内容は、冒険者家業がうまくいっていることが書かれていた。
私は安心すると共に、バンが未だに危険な冒険者を続けていることに不安でいっぱいになった。
私は返事を書くことにした。
けれど、どんなことを書けばいいのだろうか?
村には戻ってきて欲しい。
けれど、息子のうまくいっている事、夢を邪魔していいのだろうかと……
もし手紙で『戻ってこい』と書こうものなら、今度こそ本当にバンが私の元から離れてしまうかもしれないと思った。
私は悩み抜いた末、取り留めのない事を書いて出した。
村や家族の近況、夢を応援している事、いつでも帰ってきていいという事。
それが精いっぱいで、『今すぐ顔を見たい』なんて、書けなかった。
その後も手紙のやり取りは続いた。
バンが送ってくれるお金のおかげで生活は楽になったけど、バンは一向に帰ってくる気配はない。
喧嘩の事を気にしているかと思い、それとなく気にしていないことを伝えたが、それでも帰ってくることは無かった。
だけど数カ月前、バンは突然村に帰って来た。
恋人のクレアちゃんを伴って。
『もしかして恋人と一緒にこの村に住んでくれるのかしら』と胸が高鳴ったけれど、すぐにその気持ちは霧散した。
バンが何かに怯えているのだ。
表面上は平静を装っているが、心に傷を負っていることは明白だった。
一緒にやって来たクレアちゃんによると、ダンジョンで酷い目に会ったらしい。
それがトラウマになり、バンはダンジョンに潜れなくなった。
その時、バンとクレアちゃんは出逢ったと言っていた。
難しい事は分からないけれど、バンが二度と冒険に出ないことにホッとした。
少しだけ罪悪感はあるけれど、バンがずっと側にいてくれる以上に嬉しい事は無い。
そう思っていた。
バンが村で過ごすうちに、息子の状態は良くなっていった。
のんびりした村の生活は、バンの心を癒していったらしい。
それは純粋に嬉しかった。
息子が暗い顔をしているのを見るのは、とても胸が痛むからだ。
けれど少し前から、バンの顔つきに変化があった。
まさかと思いつつも、バンはどんどんあの時――十年前のあの日、バンが村を出ていったときの顔になっていく。
『息子はまた村を出て、冒険に出る』
始めはぼんやりとした予感だったが、時が経つにつれ確信へと変わっていった。
そのことを指摘すると、バンは驚いた顔をして『なんで分かった?』といった。
我が息子ながら抜けた質問だと思う。
ブランクがあるとはいえ、バンの母親だって言うのに。
その時バンに約束させた。
『ちゃんと帰ってくること』。
当たり前と言えば当たり前のことだけど、バンは十年間帰ってこなかったので、約束させるのは当然のことだ。
本当は、バンに行ってほしくない。
けれど、どんなにお願いしてもバンは行くのだろう。
多分、この子には冒険者という生き方しかできないのだ。
帰ってこなかった、バンの父親の様に……
不安はある。
冒険者はいつ死ぬか分からない、危険と隣り合わせの職業。
だから約束させた。
絶対に帰ってくることを。
バンとの思い出を、遠い記憶としないために。
星空を見上げて思い浮かぶのは、いつも彼女の笑った顔。
彼女の優しい笑顔が懐かしい。
でもこの笑顔が見れるのは、もう無い。
◆
彼女は昔から体が弱かった。
小さい頃から入退院を繰り返し、ほとんど学校に来なかった。
だからほとんど接点は無かったんだけど、ある時僕が足の骨折で入院したとき彼女と出逢った。
遊び盛りの僕たちは、病院の娯楽室でよく遊んでいた。
みんなが学校で勉強をしている間、自分たちだけは遊んでいるという背徳感からか、僕たちはすぐ仲良くなり、自然と恋人同士になった。
僕はすぐに退院したけれど、それからも彼女のお見舞いに行った。
けれど彼女の病気は良くなることは無く、ずっと入院したままだった。
ある時病状が悪化し、彼女は生死の狭間を彷徨った。
その時は無事に回復したけど、僕は大泣きしてしまった。
彼女が死んでしまうかもしれなかったからだ。
僕がベットにすがりながら泣いているのを、彼女が優しく頭を撫でてくれたことをよく覚えている
彼女は言った。
『私が死んでもお星さまになって君を見守っているよ』と……
そして彼女は星になった。
どれが彼女かは分からないが、きっと僕を見守ってくれていることだろう……
僕と彼女の大切な思い出だ。
◆
「なに見てるの?」
夜空を眺めていると、隣に誰かが座る気配がする。
何度も聞いたことがある声。
聞きたかった声。
彼女だ。
僕は振り向かずに質問に答える。
「星を……見ていたんだ……」
「星を?
あなたに星を見る趣味があるなんて初めて知ったわ」
「別に趣味じゃないよ」
僕は努めて平静を装い、彼女に語り掛ける。
「この星空のどこかにいる君を探しているのさ」
「……
…………
……………………は?」
彼女の調子の外れた声が聞こえる。
見えないが、きっと理解できないものを見るような目で僕を見ている事だろう。
「君が言ったんだ。
死んだら星になって見守ってくれるって……
だったら君も、この星空のどこかで輝いているはずさ」
「待って待って。
勝手に殺さないでよ。
縁起でもない」
「そうかな?」
僕は視線を下ろし、彼女を笑顔で見据える。
だけど彼女は、なぜか目をそらした。
「あははは……
やっぱり怒ってる?」
彼女は目をそらしたまま、こちらの様子を伺う。
後ろめたいのか、彼女は肩まで伸ばした髪を指でいじっていた。
そんな彼女に対して、僕は出来る限り寛容な心で応える。
「君が『怖いから付いてきて』って言われて、付き添いで行った歯医者。
自分の番が近くなって、『歯医者にかかるくらいなら、死ぬ方がマシだ』と言って君は逃げ出したよね?
後に残された僕が、どれだけ謝ったと思う?」
「えっと、それは……」
「『死ぬ方がマシ』だって言うから、死んだものだと思っていたよ。
まさかまた会えると思わなかったけどね」
「ご、ごめんなさい」
「僕は怒ってないよ」
そう、もう僕は怒ってない。
なんなら彼女の慌てっぷりに笑いをこらえるのが必死なくらいだ。
「どうしたら許してくれる?」
「怒ってないってば……
でもそうだな。
君がそんなに気にするなら、自分の心に聞いてみればいいんじゃないかな」
「自分の心に……」
「空を見上げて心に浮かんだことが、きっと答えだよ」
僕がそう言うと、彼女は黙って空を見上げる。
「さあ、心に何が浮かんだ?」
僕が聞くと、彼女は心底嫌そうな声で呟いた。
「歯医者で口の中にドリルをツッコまれている様子が浮かびました」
昔々、尾張《おわり》という国に、織田信長という男がおりました。
その男は、尾張を支配する大名でした。
この織田信長という男、『うつけ』として有名でした。
『うつけ』というのは、馬鹿。
つまり馬鹿にされていたのです。
なぜ『うつけ』と呼ばれていたのかというと、普段からふざけた事ばかりを言っているからです。
家来とスキンシップを取るためなのですが、しかし彼には致命的なまでにギャグのセンスがなく、家来たちにはいつも呆れられていました。
え?
自分と知っている話と違うって?
言い忘れていました。
彼は数多にある平行世界の信長です。
星の数ほどある平行世界の、星の数ほどいる織田信長の内の一人が、この話の主人公です。
ですので、この話を読み込んだところで、テストには出ませんのでご注意ください。
話を戻りましょう。
信長は自身がうつけと呼ばれていることも知らず、大名生活をエンジョイしていました。
そしてある日の事。
信長は家来を集めました。
大事な話があると言って、真剣な顔で家来に宣言しました。
「今、日本では戦いで溢れている。
乱世で苦しむ人を救うため、ワシはこの戦いの時代を終わりにしようと思っている。
手伝ってほしい」
時は戦国時代、誰もが戦火から逃れ得ぬ時代です。
この平行世界の日本も漏れず、血で血を洗う悲劇が起きていました。
しかし信長はそれを終わらせ、時代を終わらせると言ったのです。
歴史的瞬間でした。
しかし家来の反応は芳しくありません。
家来は『またかよ』という顔で自分の主人を見ます。
信長は、この気持ちを吐露するのは初めてです。
もちろん、家来も知ったのは初めて……
ではいったい何が『また』なのか……
それは今回も、信長のおふざけだと思ったからです。
そう、家来たちは信長の発言を『時代を尾張にする』と聞き間違えたのです。
普段の行いが祟り、信長の発言を真剣に捉えず、家来たちはいつもの冗談だと思ってしまったのです
そして『時代を尾張にする』というのは、どう考えても悪ふざけ以外の何物でもありません。
何をどうしたら、時代は尾張になるのでしょうか?
ゆるキャラでも作れば良いのでしょうか?
仮に時代が尾張になったところで、どうして苦しむ人を救えるのでしょうか?
疑問は尽きません。
家来はどう反応すればいいか悩み、そして一人の家来が口を開きました。
「殿、悪ふざけはほどほどに。
この時代を尾張にするというのは、どう考えても不可能です」
現実的な意見でした。
ですが、家来の意見に信長は首をかしげます。
なぜこの戦国時代を終わらせるのが悪ふざけなのか……
それに議論もなしに、不可能と断じるのも不可解です。
信長は、それなりの自信があってのこの発言をしたからです。
「何を言っている。
お前たちは、このふざけた時代を終わりにしたくないのか?」
「尾張にしたくありません」
家来たちが断言します。
家来の言葉を聞いて、信長は心の底から驚愕しました。
この時代を終わらせないと言うことは、これからも悲劇が増え続けると言う事。
家来たちはそれでよいと言うのです。
信長は恥じました。
家来が自分さえよければよいと言う、悪魔のような奴らだと気づかなかったからです。
「くそ、こんな奴らしかいないのでは、尾張はもう終わりだ」
信長の諦めにも似た独白。
しかしこの言葉すら、家来たちは聞き間違いをしました。
「えっ。
『終わりを尾張』に!?
殿は、世界の終末すら支配すると言うのですか?」
「ええい、貴様ら何を言っておる。
正気に戻らんか」
「『瘴気に戻れ』?
殿は瘴気を操る魔王だったと!?」
「お前らしっかりしろ。
いい加減目を覚ませ!」
「は、我々は目が覚めました。
魔王様の仰せの通りに。
魔王様なら、時代を尾張に出来る筈でしょう」
「……なんか思っているのと違う」
こうして部下の勘違いにより、魔王・織田信長が誕生しました。
ここから魔王・織田信長の快進撃が始まると思われました。
しかし――
「バカな、魔王だと!?」
信長たちの茶番劇をのぞき見している人間がいたのです。
名は明智光秀。
彼は、尾張に私用で来ていました。
光秀は盗み聞きするつもりはなかったのですが、時代を終わりにするだの、魔王だの、不穏な言葉が飛び交っていたので、ついつい聞き耳を立ててしまったのです。
壁一枚を隔てていたため、全ては聞こえていなかったのですが、『信長が魔王となって終わりにする』ことだけは分かりました。
「魔王を倒さなければいけない!」
光秀は確信します。
今ここで魔王の台頭を許せば、日本はさらに混沌を増してしまう。
そうなる前に、魔王を討つしかない。
ですが、今光秀はただの用事で来たので、刀を一本しか持って来ていません。
おそらく今立ち向かえば、良くて相打ちでしょう。
(だが魔王は油断している)
光秀は決意しました。
自らの命をなげうって、魔王を討つと……
――そして光秀は、信長の前に躍り出て、持っていた刀で信長を斬りました。
ですが、魔王は倒せたものの、その場にいた豊臣秀吉に切り殺されてしまいした。
これが、この平行世界における『本能寺の変』です。
この出来事は、日本中に衝撃を伴って広く伝わりました。
『光秀、魔王を討つ』と……
ですがこの知らせに、民衆は安心するどころか、不安を掻き立てられました。
なぜなら、魔王が一人現れたということは、第二・第三の魔王がいるかもしれないから……。
『一匹見たら百匹いると思え』
有名なことわざです。
この不安を見て取った幕府は、日本中に戦争の中止を呼びかけました。
これから現れるであろう魔王に対抗するためです。
ほかの国々も、幕府の号令に従い、戦争をやめ団結する道を選びました。
こうして戦争は無くなり、平和が訪れました。
信長は自らの身を持って戦乱の時代を終わりとしたのです。
そして魔王の脅威を忘れないため、元号を『尾張』にしました。
時代は尾張になったのです。
そして250年後、黒船に乗って新たな魔王が現れるまで、日本は平和な時代を築いたとさ。
おしまい。
「ワンツーワンツー――キャッ」
私はゴテンと音を立てて転ぶ。
その様子を周囲の人間が見下すように笑う。
馬鹿にしやがって。
おまえたちだって、ヘタクソな時期があっただろうに。
社交ダンス教室に通ってはや半年、私は未だに初心者マークを外せそうにない。
テレビで見た光景に憧れて始めた社交ダンスだけど、上達する兆し無し。
馬鹿にされた悔しさをバネに続けてきたけど、精神的につらい……
もう辞めようかな。
私が立ち上がろうとすると、目の前に手が差し伸べられる。
「村田さん、今日もよく転んでいるね」
そう言ったのはこの教室では古株の小林さん。
皆に一目置かれているけど、お世辞にもうまい方じゃない。
レッスン中、何度も転ぶところを見たことがある。
だからこうして手を差し出すのは、他人と思えないからなのだろう。
けれど――
「ヘタクソなもんで」
私は差し出された手を無視して、一人で立ち上がる。
小林さんには悪いけど、私にも意地ってもんがある。
情けなんていらない。
「そんなに無愛想だと、いつまでも経ってもうまくならないよ」
小林さんのもの物言いにカチンと来てしまう。
自分が悪くても、指摘されたら嫌な事はある。
私は睨み返すが、小林さんは困ったように笑うだけだった。
「うーん、荒れてるねえ。
行き詰まっているのかな?」
「悪いですか?」
私が悪いに決まってる。
小林さんは何一つ悪くないのに、一方的に敵視しているんだから。
自分の器の小ささに、自己嫌悪で頭が痛くなりそうだ。
「ふむ、じゃあ僕と一緒に踊ってみようか?」
「はい?」
小林さんの言葉に耳を疑う。
『踊ってみようか?』
今の流れでなんでそうなるの?
私、聞き間違えた?
「えっと、今なんて?」
「一人で練習ばかりしてないで、たまにはペアで踊るべきだ――と言ったんだ」
聞き間違いじゃなかった。
でも私はその申し出を受けるわけにはいかない。
「私、一人でも転んでばかりなので、ペアはまだ早いですよ……」
「問題ないさ。
半年やって来たんだろう」
そう言うと、小林さんは私の手を強引に取り、リズムを取り始める。
「ほら動いて。
ワン、ツー、ワン、ツー」
「わ、ワン、ツー、ワン、ツー」
小林さんに促されるまま、私もリズムを取って踊り始める。
「ワン、ツー、ワン、ツー」
「ワン、ツー、ワン、ツー」
小林さんはゆっくりとリズムを取る。
だが私にとって、そのスピードすら速すぎる。
私はついていくだけで精一杯だった。
「君は一人で踊りすぎだね。
もっとパートナーのことを意識して」
「む無理。
自分の事で精一杯。
他人を気遣う余裕なんて――キャッ」
私は自分の足に足を引っかけ、再びゴテンと音を立てて転ぶ――事はなかった。
小林さんが、私が転ぶ方向に素早く移動して、うまくバランスを取ったのだ。
結果、私は転ぶことなく、まだ小林さんと踊っている。
「大丈夫かい?」
「は、はい」
「じゃあ切り替えて、ワン、ツー、ワン、ツー」
「ワン、ツー、ワン、ツー」
私はパニックになりそうな頭を落ち着かせ、小林さんとリズムを取る。
この私が転ばなかったなんて……
私は小林さんに感謝するとともに、一種の感激すら覚えていた。
私はすぐ転ぶ。
一人で練習した時も、こんなに長く立っていられたことはない。
その後も何度も姿勢が崩れそうになったが、その度に小林さんがフォローしてくれた。
これがペア……
ああ、楽しい。
社交ダンスってこんなに楽しいものだったんだ。
「これがペアだよ」
小林さんは、私の心を見透かしたように話しかけてくる。
「君が転びそうになっても、僕がフォローする」
先程とは違い、小林さんの言葉が心にスッと入ってくる。
「完璧な人間なんていない。
だからこうして助け合うんだよ」
「でも私、ヘタクソだから、助けることなんて」
「大丈夫さ。
そのうち助けてくれれば――
おっと」
小林さんがバランスを崩しそうになったのを見て、私は自然に重心を移動させていた。
その甲斐あって、小林さんは転ぶことなく体勢を立て直す。
「早速助けてもらったね」
「ペアですので」
そして私たちはしばらくの間、踊り続けた。
その後も転びそうになったけど、その都度お互いが助け合う。
私たちは完璧じゃない。
だからお互いに手を取り合って、助け合う。
私はまだ手を取ってもらえなければ踊れない未熟者だけど、いつか手を取り合って踊れる日が来るのだろうか?
そんな日を夢見て、私はもう少しだけ社交ダンスを続けようと思ったのだった。
俺の名前は鐘餅 杉生(かねもち すぎお)。
名前の通り、大富豪である。
ただの富豪ではない。
世界一の富豪だ。
俺は、生まれた時から全てを持っていた。
金、容姿、才能……
持っていないものなどこの世界には無い。
たまに嫌味で『持って無いものくらいあるだろう?』と言われることがある。
だが意味のない言葉だ。
なぜなら俺は全てを持っているから。
もし仮に持っていない物があったとしても、金でどうとでも出来る。
それは、俺にとって『持っている』と同じ意味を持つ。
例えば俺が持ってこいと言えば、立ちどころに使用人が手によって俺の元に運ばれてくる。
いつでも少しの手間で俺の元に届くものを、『持っていない』とは言わない。
そうだろう?
だが――
それを虚しく思うこともある。
何もかも持っていると言うことは、何も持っていないことに等しい。
努力をする必要が無いからだ。
つまり、人生にメリハリがない。
俺の人生は虚無で支配されていた。
俺は、この状況を変えるべく、世界中にアナウンスした。
『俺が持っていない物を持ってくれば、金をやる』と……
それから様々な人間が、俺の元にやって来た。
詐欺めいたものから、神の愛が無いとのたまう奴ら。
また昔話で出てくる『バカには見えない服』を持ってこられたこともあった。
まあまあ楽しかったのは認める。
だが誰一人として、俺の持ってない物を持ってこられた奴はいなかった。
俺が持っていないものは、やはり存在しないのか……
俺が諦めようとした、そんな時だ。
あの怪しい男が現れたのは。
◆
「鐘餅様、あなたが持っていないものをお持ちしました」
目の前の、見るからに胡散臭い男は、俺に対して恭しく礼をする。
正直、ここまで怪しい男の相手なんぞしたくは無いのだが、『あなたの持ってない物を持って来た』と言われれば対応せざるを得ない。
可能性があるのなら、俺は諦めたくない。
「では聞こうか。
何を持って来た?」
「『劣等感』でございます」
「劣等感?」
ふむ、と俺は手を顎に当てて考え込む。
劣等感、たしかに俺は持っていないものだ。
若い頃、『敗北が知りたい』といって、片っ端から才能ある人間に勝負を挑んだことがある。
だが結果は無残なものだった。
俺が相手を完膚なきまでに叩き潰してしまったのだ。
相手をしてくれた全員見るからに元気をなくし、引退したものも少なくない。
そこまでして知ったのは『虚無感』だけ……
今でも、彼らには悪い事をしたと、『後ろめたさ』がある。
そして思い出すだけでも、叫びたくなるほどの『黒歴史』。
俺は若き頃の過ちによって、鬱屈した感情すら一通り持ち合わせている。
だが言われてみれば、確かに『劣等感』は持っていない。
すべての人類より優れていると『優越感』こそあるが、『劣等感』など一度も経験したことは無い
だが――
「お前の言う通りだ。
確かに『劣等感』は持っていない……
だがどうやって俺に『劣等感』を味合わせるつもりだ。
俺にはお前が優秀には、とても見えないのだが……」
「はっきりおっしゃいますな。
まあ、確かに私はあなたに勝てないでしょう。
ですが、これを使えばあなたに『劣等感』を与えることが出来ます」
そう言って、目の前の男は怪しげな銀色の缶を差し出す。
「それは?」
「『劣等缶』でございます」
「お前にはギャグのセンスもないようだな」
「これは厳しいお言葉。
ですが、名前はともかく効果はありますよ」
男は、俺に缶を手渡す。
「それを一気飲みすれば、立ちどころに『劣等感』に苛まれます」
「毒は入っていないだろうな」
「そうですね……
毒と言えば、毒でしょうか。
というのも、これは劣等感まみれの人間が放つ負のオーラを凝縮したもの。
そして劣等感は、そもそもが体に悪い物です。
体の事が大事ならば、お飲みにならない方がよろしいかと」
「正直だな」
「それしか取り柄がありませんので」
男はへへへと笑う。
いかにも不審者の笑い声だが、こいつは俺の信頼を勝ち取ろうと気は無いのだろうか?
俺は少し考える。
目の前の男は、怪しさが人間の形をしたような存在だ。
だが言ってることには一理ある。
だが本当に『劣等感』を味わうことが出来るのだろうか……
どうにも信じがたい。
詐欺ではないのか?
だが目の前の缶が本物である可能性も捨てきれない
もしここで俺がいらないと言えば、この男はこのまま帰るだろう。
そして二度と会うこともあるまい。
そうなれば、俺は一生後悔することなるかもしれない。
ならば覚悟を決めるべきだな。
「いいだろう。
これを飲んで、効果があれば金を与えよう」
「ほほう、金餅様は『蛮勇』すらお持ちですか。
御見それしました」
「ふん、口の減らないやつだ」
俺は、厳重に封をされた缶のふたを開ける。
開けた瞬間、生理的に受け付けない嫌な臭いが鼻をかすめる。
はやくも後悔の念が押し寄せるが、ここまで来て引き下がることはできない。
俺は鼻をつまみながら、缶の中身を一気飲みする。
するとどうだ。
たちどころに涙があふれ始め、全身から活力が失わる。
そして酷い頭痛がして、平衡感覚を失い倒れる。
押し寄せる強烈な負の感情。
これは、いったい……
「金餅様、もうしわけありません。
どうやら効果が強すぎたようです。
大丈夫ですか?」
男に心配そうに俺に声を掛けられる。
だが今の俺にとって、耳障りそのものであった。
まるで、俺のメンタルが弱いと言っていうような気がしたからだ。
言葉では心配しているように言うが、馬鹿にしているようにしか聞こえない。
まさに不愉快。
この男は俺を上から見下して――
そこで俺は気づいた。
ああ、なるほど。
これが劣等感か。
使用人が慌てて駆け寄り、俺を抱き起す。
そうして椅子に座らせられることには、気持ちは落ち着いていた。
あの劣等缶の効果は一瞬だったようだ。
とはいえ、効果は抜群。
俺は初めて劣等感というものを味わった。
「おい、お前」
「なんでしょう」
男はビクッと体を震わせる。
効果が効き過ぎたことを怒られると思ったのかもしれない。
「この缶の効果は本物だった。
劣等感を味わうことが出来た。
礼を言う」
「それでは――」
「好きな金額を言え。
すぐに使用人に金を用意させる」
「はっ、ありがとうございます」
俺は新しく持っていないものを手に入れ、人生は少しだけ潤うのだった。
◆
『劣等缶騒動』から一週間、俺が常夏のビーチでバカンスを楽しんでいると、使用人が慌てて走って来た。
「鐘餅様、こ、これを読んでください」
使用人は、俺に押し付けるように新聞を渡してくる。
異様な慌てぶりに、俺は不安を感じながら新聞に目を通す。
そこには、あの怪しい男が写真付きで載っていた。
『詐欺師逮捕。
薬物を使って判断力を失わせ、金をだまし取ったか』
俺は頭が真っ白になる。
新聞によれば、あの男は言葉巧みに薬物を飲ませたとのこと。
つまり俺の時の『劣等缶』というのは……?
やられた!
俺は新聞紙を砂浜に叩きつける。
やはり『劣等缶』なんて、存在しなかったのだ。
俺は自分から判断力を失う薬物を飲み、そして金を払った。
俺はまんまとあの詐欺師に騙されたと言う事か……
完全にしてやられた。
待てよ。
確かにあの時に劣等感は感じた。
つまり、俺に対しては詐欺ではない?
だが、それにしたって……
この収まりがつかない感情は何なのだろうか。
俺は考えて考えて――
そこでふと気づく。
あいつ、意外と凄い人間かもしれない。
だってそうだろう。
あいつは俺が持ってないものを、またして持って来た。
今抱いている感覚の正体―
それは『敗北感』。
長い人生において、初めて敗北を知った瞬間であった。