『視線の先には』
妻と一緒にホームセンターで金魚のエサを見ていた時の事。
妻が、ペットコーナーで突然立ち止まった。
横目で見れてみれば、妻の視線の先には猫のコーナー。
お気に入りの猫がいると聞いていたが、それが今見ている猫なのだろう。
かなり入れ込んでおり、ここのところ毎日通い詰めだ。
妻は生き物が好きだ。
金魚も妻の希望で飼っているから、猫もきっと好きなのだろう……
にも関わらず『飼いたい』と言わないのは、ウチのアパートがペット禁止だから。
猫を飼えない鬱憤を、近くで眺めることで晴らしているのだ。
そして、こうなったらテコでも動かないのが妻である。
金魚の時もそうだった。
結局俺が根負けし金魚を飼うことになったが、猫はそうもいかない。
『ペット禁止』というのは、俺の一存ではどうにもならないのだ。
だから俺が妻のために出来るのは、二者の時間を邪魔しないだけ。
妻と猫が、ロミオとジュリエットよろしく愛を語らい合うのを邪魔するほど、俺は無粋な男ではない。
何時間かかるかは分からないが、気のすむまでやらせてやろう。
その内、心の整理がついて落ち着くはずだ。
俺はその間に、金魚の餌を見てくるとしよう。
妻に気づかれないよう離れようとした瞬間、急に妻が振り向く。
驚いて固まった俺に、妻は目で訴える。
『あの子、可愛いでしょ?』と……
直接飼いたいと言わないのが妻らしいが、無理なものは無理だ。
『諦めろ』と首を振る。
だが『諦めきれない』とばかりに、妻は俺を見る。
「あなた、この子の事を見て欲しいの……」
妻が嘆願するような声で、俺を見る。
「見ない。
気持ちはわかるが――」
「ちゃんと見て」
妻に突然力強く手を引かれる。
俺は体制を崩しそうになったが、寸でのところで踏みとどまる。
「危ないところだった」
妻に抗議しようと顔を上げる。
だがそこには妻はおらず、俺の視線の先には猫がいた。
とても可愛い猫だった。
子猫は、騒いでいる俺に興味を持ったのか、じっと見ていた。
俺は思わず目をそらす。
油断した。
まさか猫を見てしまうとは……
いや、一瞬だったから大丈夫なはずだ。
俺は自分に言い聞かせながら、再び猫を見ないようにじりじりと後ろへ下がる。
猫とは目を合わせてはいけない。
猫は催眠術の使い手だ。
特に子猫の催眠術は強力である。
目を合わせたら最後、たちまち猫の虜となり、我々は猫のために尽くすことになる……
だが俺はまだ正気だった。
催眠術にはかからなかったらしい。
俺はほっと息をつく。
十分に距離を取ったから安心だろう。
俺はチラリと横目で猫を見る。
猫の方も何かを熱心に見ているようで、俺には気づいておらず――
そこでふと気づく。
猫が、俺の方を見ていることに……
猫の視線の先には、俺がいた。
そこで妻がポンと肩に手を置く。
驚いて振り向くと、妻は満面の笑みであった。
『ね、可愛いでしょ?』
妻がまたもや目で訴える。
俺は思わずうなずきそうになるも、なんとか堪える。
「だ、ダメだ!
ウチはペット禁止だ!」
俺の拒絶の言葉にも、妻は笑みを讃えたままだった。
「そこは大丈夫よ。
友達が不動産やっててね。
ペットを飼えるアパートを紹介してくれたの。
あなたの勤務先からは少し離れるけど、いい部屋よ」
「最初からそのつもりで――」
「でもね、勝手に話を進めるのは良くないじゃない。
だから、まずこの子と会わせて、それから引っ越しの話をしようと思って……
どう?
この子と一緒に住まない?」
妻の問いに、俺は脳内で色々な事を考える。
お金の事、猫の世話の大変さ、引っ越しの手間、通勤の事……
どれだけ反論材料を考えるも、さっき見た猫のかわいらしさが、全てを吹き飛ばしていく。
「……分かった」
「ありがとう、あなた。
愛してるわ」
俺の降伏ともとれる承諾の言葉に、見たことないほど嬉しそうに笑う。
よっぽど嬉しいらしい。
だが、妻の愛の言葉とその笑顔は誰に向けての物だろうか?
妻の目線の先には、きっと猫がいるに違いなかった。
7/20/2024, 3:36:31 PM